〔1〕
「いやあ、すごいよね。もう二週間だよ?」
厨房に戻ったオーナーに告げられ、葦厨 彰人は薄い唇にふっと笑みを刷いた。
「カッサータの君ですか」
「そうそう、カッサータの君」
人のよさそうな優男の風情で、オーナーがくすくす笑う。表面を意識的に取り繕わないでいると、必ず怖がられる羽目になる葦厨とは正反対だ。極まれにではあるが、こう生まれていればなと思わないこともない。
「葦厨くんとしてはどういう心境?」
調理の手を止めぬままの葦厨は、ふふふと笑うオーナーの意味ありげな目線に片眉を上げて見せた。
「まあ、作り手としてはうれしいですけどね」
そういう葦厨の心中は、実は結構複雑だった。
カッサータはリコッタチーズ、クリーム、ピスタチオ、ドライフルーツとスポンジを層にして作るシチリア生まれのドルチェだ。
もともとイタリアンの料理人ではあるがドルチェは専門外、しかもここ数年、作ることはもちろん、食べることすら遠ざかっていた。
オーナーから女性客向けに作ってみないかといわれた時には、ここまで嵌ってくれる客がいるとは正直考えていなかった。
「これからはこっち方面も充実させていきたいんだよね。できればギフトもやりたいなー。葦厨くんにはぜひともがんばってもらいたいんだけどなー」
「善処しますが、あまり期待しないでくださいよ? 本格的にやるならやっぱりもうひとり雇うか外に頼むかしたほうがいいと思います」
苦笑いの葦厨に、うーん予算がなぁ……とオーナーがこぼす。
葦厨の務めるイタリアン厨房「フルール」は、オーナーである月沖 紡と、雇われ料理人である葦厨、それに月沖の妻である柚流で切り盛りしている小さな飲食店だ。
臨月に入った柚流は里帰りしているため、いまは月沖と葦厨の二人でなんとかやりくりしていたが、昼食時の混雑を考えると、そろそろもう一人、給仕用のバイトを雇うべきか、という話がでている。
その上、更に予算を裂く余裕は、まあないだろうな、とは葦厨でなくともわかろうというものだ。
「おっと、そろそろかな」
ステンレス製の調理台に乗せられた白い皿を取り上げようとした月沖がふと手を止めた。。
「ねえ、もうお客さんは彼女だけだしさ、葦厨くんが持っていってあげなよ、これ」
「――は?」
思いかげない提案に、葦厨は眉間に皺を寄せて月沖を振り返った。優男は相変わらずにこにこしている。
たしかにランチのラストオーダー時間は過ぎている。葦厨が先程から手を動かしているのは、ディナーの仕込をしている為だ。
店の入り口にはクローズの札が揺れているはずで、次の開店時間まで新しい客が入ってくることはない。
「……なにたくらんでるんですか月沖さん」
「やだなあ、穿ちすぎ。だって一度も彼女のこと見てないでしょ、君。ここからじゃ見えないし」
フルールの厨房には入り口がひとつあるだけで、オープン型ではない。その入り口も広く取られているわけではなかった。
つまり料理人の姿が客に晒されない。葦厨がここを勤め先に選んだのは、この作りが理由のひとつだ。
「遠慮します。おれは裏方で好きなんで」
「もったいないなぁ、いやあそれはさ、実にもったいないよ、葦厨くん」
「なんですかそれ」
呆れる葦厨に、月沖はまだ同じ言葉を繰り返している。よほど葦厨にカッサータの君をみせたいらしい。だが、もし飛び切りの美人だとしても所詮は皮一枚のこと。はっきり言ってしまうなら、まったく興味がなかった。
葦厨にとって客は客。どれだけの美女だろうと、身分の高い人間だろうと関係ない。料理人は料理を提供するだけと割り切っている。
「見ればわかるよ。僕がもったいないって言っている理由」
でたよ、この人の悪い癖。心の中で嘆息し手を止める。月沖は人のよさそうな外見をしていはいるが、中身が必ずしも一致しているとはいえない男だった。
さっと見回し、仕込みはひと段落、不備のないこと見て取るとステンレス製のテーブルに近づいた。
適温で出せるように、時間を見計らって用意しておいた皿を手に取る。
「あれ? 行ってくれるんだ?」
「どうせ出すって言うまで粘るんでしょう。――行ってきます」
押し問答の間に味が落ちたんじゃ目も当てられないと、葦厨は満面の笑みを浮かべる月沖を軽く睨み、仕方なく厨房を出た。
窓際の丸テーブルでぼんやり表を眺めているのは、飛び切りの美女ではなかった。
全体的に小さいせいか、どこか幼い印象を受ける。だが覗く横顔の薄化粧と、ふっくらと赤い唇が、おそらく成人しているだろうことを思わせた。
「おまたせいたしました」
白磁の丸皿を、真っ白なテーブルクロスの上に降ろす。
「あ……はい」
ぱっと見上げてきた、薄い眼鏡越しの黒い瞳に、一瞬、目を奪われた。
強い意志に、まっすぐ見つめてくる迷いの無い一途さ。その中になぜか追いつめられたような焦燥感が滲んでいる。
葦厨の琴線になにかが触れた。古傷をえぐられたように胸が痛む。まるでかつての自分を突きつけられているかのような奇妙な感覚だった。
青臭さと老成――焦りと諦観、本来は同居しうるはずのないものがそこにはあった。
逃げ出したい衝動に駆られる。けれど、ずっと見ていたいとも思う。不躾とはわかっていながら、華奢な姿から目を離せなかった。
「……あの?」
カッサータの君が小さく首をかしげる。立ち尽くしたままだったと気付いた葦厨は不自然にならないようゆっくりと笑みを浮かべた。
「お気に召していただけましたか?」
「え?」
「カッサータです。いつも召し上がっていただけているようなので」
彼女の顔がぱっと華やいだ。どちらかというと生真面目さを感じる雰囲気が一気に和らぐ。
「とてもおいしいですよね、これ。すごく好きです。幸せをくれたっていうか、うん、そう、元気をもらえる」
あまりにも嬉しそうに言い募られ、思わず吹きだしてしまった。
「……ええと?」
びっくりしたように瞼を瞬かせる様が、ずいぶんと幼げにみえる。
「いえ、すみません、最高の賛辞ですね、ありがとうございます」
笑ったまま片手を挙げた葦厨になにか感じるところがあったのか、彼女は、はっとしたような顔をした後、いえ、お料理もおいしいです! 魚介の煮込み具合とか! と、唐突に謎のフォローをはじめた。
「……ええと、あなたが料理をされている方、ですよね?」
「はい、いつも給仕している男性がオーナーの月沖、私は葦厨といいます」
「そうですか。あの、よしず、さん、失礼ですがこれをどこから仕入れいらっしゃるのか教えていただけないでしょうか」
ああ、なるほど、と思わずうなずきそうになった。彼女はどうやら葦厨がドルチェまで作っているとは思っていないらしい。
そうか、それで今さっきのフォローか。
「いえ、こちらの料理はすべて私が」
目を瞠って絶句する彼女に再び吹き出してしまった。店のホールでおかしくて笑うのはずいぶんと久しぶりだ。
たしかに別のドルチェ専門店から仕入れる案もあったのだが、葦厨は幾度か試作品を月沖に出し、結局はそのうちのひとつが採用された。
「え、あの、すまない、その、あなたが作っているとは思わなかったんだ。料理の味は前と同じなのに急にドルチェが提供されてはじめて……いや、早合点だな、申し訳ない」
傍目にも動揺していると思われる彼女の言葉に、唖然とする。どう考えても若い女性の言葉使いではないだろう。
「……すまない?」
ぽつりと鸚鵡返しの葦厨に、彼女の頬がさっと青ざめた。
「違った、ええと、ごめんなさい、だった。その……すまな……ああ、違う」
おろおろと両手を振る様子に、なんだか気の毒になってくる。
「大丈夫ですよ。いつもはそういうしゃべり方なんですか?」
務めて穏やかに尋ねると、困ったように視線をさまよわせた後、諦めたのか細い首がこくりと縦に振られた。
「……わたしは色々と世間知らずで……友人や知人からも、忠告はされているんだが、一朝一夕で直るものでもなく」
はあ、とため息をつく彼女に、悪いとは思いながらも、やはり笑い出さずにはいられなかった。こんなに屈託なく笑ったのはずいぶん久しぶりだ。
本人にしてみれば大事なのだろうか、葦厨には堅苦しい話しかたも、その姿との落差からずいぶん可愛らしく思える。
「笑ってもらえるなら僥倖、よしずさんは、いい人だな」
苦笑する彼女に、さてそれはどうだろう? と葦厨は笑顔のまま腹の中で苦笑していた。
いままでの人生で、いい人、といわれたことは記憶にある限りでは、ほぼない。
それどころか、不機嫌そうな強面に長身であることも手伝って、意識しないでいると友人にすら威圧感を与えることが間々あった。
「あの、今日こそ聞こうと思ってたんだが、これは期間限定ですか?」
これっと彼女が指し示したのは先ほどから食べられるのを待っているカッサータだ。
「いえ、定番メニューにしようかと相談しているところです」
「本当に? それはぜひお願いしたい、ですっ」
実は月沖にはこのまま続けて欲しいといわれていたが、葦厨としては試作扱いとして、一ヶ月で一旦区切るつもりだった。
が、いまは気が変わっていた。先ほどの月沖の様子なら、定番メニューにしようといえばそのまま採用されるだろうと容易に想像できる。多少――どころではなく揶揄われるだろうことも想像に難くなかったが。
「ぜひ、これからも食べにきてください」
「ありがとう、昼食は出来る限りここでとることにします。それじゃあ心置きなく、いただきます」
行儀よく告げた彼女が、小さな銀の匙を持ち上げる。飾られた色とりどりのフルーツとリコッタチーズの層が掬われ、小さな口に頬張られる。
一部始終を見守っていた葦厨の目元が、微かに赤くなった。
――ああ、なるほど。確かに、だな。
まさにとろけるような至福の笑みに、いやおうなく目を奪われる。
月沖が言っていた「もったいない」の意味が、葦厨にもようやく理解できた。
確かにこの笑顔を二週間も見逃していたのかと思うと悔しい。同時に、理不尽とはわかっているが、これを独占していた月沖に微かな嫉妬を覚えた。
「おいしい」
衒いの無い賛辞に、葦厨は凝り固まっていた心が綻びるのを感じた。
そうして季節はめぐり、再び秋が深まってきた頃。
葦厨の心に彼女――瑞樹 燐が占める割合は、決して小さいものではなくなっていた。
「葦厨さん、好きだ」
猫のように背をしならせた瑞樹が、細い腕を葦厨の首に絡ませる。
ベッドの縁に腰掛けていた葦厨は、体重をかけてきた瑞樹に逆らうことなく、柔らかなベッドに背からその身を沈みこませる。
葦厨の腰を跨いで圧し掛かってくる瑞樹の上気した頬、潤んだ瞳に目を奪われた。
ずくり、と重苦しい快楽を伴って、身体が反応する。
「燐……」
瑞樹の名を呼ぶ。欲にかすれた声を合図に、柔らかな唇が葦厨のそれに重なる。
そして、小さな舌が葦厨の唇を辿り――。
「――欲求不満か、おれは」
寝癖の着いた髪に両手を突っ込み、葦厨はたっぷりの自己嫌悪に陥っていた。
やりたいさかりの男子高生でもあるまいし、とっくにそんな段階は卒業したはずだろう、と自分を責めるが見てしまったものは仕方が無い。
しかし、よりによってなんて夢をみてしまったのか。いや、理由はわかっている。寝る前に読んでいたこの本が原因に違いない。
枕元におかれたハードカバーを恨めしげに見遣る。黒一色の中に白抜きでタイトルと著者名のみが入った大胆な表紙。
凶器になるのではなかろうとかと思える重量感のそれは、ここ数年でカルトな人気を誇るようになったバイオレンス作家の最新作だ。
一昨日、オーナーである月沖から渡されたのだが、その理由というのが。
「このシリーズの主人公、口調がね、瑞樹さんにそっくりなんだよ」
そこでうっかり受け取ってしまった自分もどうかとは思うが、シリーズではあるものの、どこから読んでもある程度はわかるから、という月沖の言葉に乗せられ、これまたついうっかり読み始めてしまった。
しかし、これがなかなかに――いや、かなり面白い。残念ながら主人公は壮年の男性なのだが、アクションもグロテスクなシーンも臨場感がある。人物の機微も丁寧に書き込まれている。
が、この作者――椿 将然を語るうえでとりあげられるのは、そのどれでもなかった。
「濡れ場を書かない作家、ね……」
手に取った本をぱらぱらと捲りながら、昨晩、読み終わった後に調べたネットのファンサイトを思い出す。
確かに、それらしい行為をにおわせる描写があるにはあるが、その表現は迂遠で、所謂ところの朝チュンレベルですらない。
作者が潔癖なのか、はたまた童貞、いや、むしろ百戦錬磨の強者なのでは? という憶測がさまざまに語られているらしいが、真実は定かではないらしい。
なんにせよ、その絶妙な外し具合がどうにも癖になる。にわか読者の葦厨にしても、男ならそこでいけよ、と思うこと数度。
そのフラストレーションが溜まった結果がおそらく昨晩の夢だ。
「あー……そろそろ、やばい」
寝癖のついた髪を手のひらで撫でつけ天井を振り仰げば、今日もランチを食べに来るであろう瑞樹の笑顔が浮かんでくる。
瑞樹は独身である。葦厨より四つ年下の二十四歳。彼氏はいない。自営業らしい。ただし、なにをしているかは頑なに教えてはくれない。
フルールからそう遠くないマンションに一人暮らしをしている。一人っ子だ。甘いものに目が無いが、お眼鏡に叶うものは少ない。
この一年で、葦厨が瑞樹について知ったことだ。神秘的な雰囲気と相反する少女のような笑み。すっかり惚れている自覚は充分にあった。
知合ってから後、店を構える商店街でもちょくちょく会うのだが、最初の頃は葦厨から声をかけていた。でも近頃は瑞樹から笑顔で話しかけてくれるようになっている。それでも、なかなかガードの固い瑞樹に対してまだ次の一歩は踏み出せていない。男慣れしていなさそうな様子も手伝ってか、あまり攻めの姿勢でいくと逃げられそうな予感がある。
――だから現実じゃあ、まずありえない。
先ほどの夢を思い出し苦笑する。
このままでは朝から益々不埒な考えに及びそうで、葦厨は軽く頭を振ってのそりとベッドから抜け出した。
元凶である本をサイドテーブルに置き、洗面所に向かう。
冷たい水で顔を洗えばすっかり気分も切り替わるだろう――ため息を押し殺しながら身支度にかかった。
「いらっしゃいませー、あら燐ちゃん」
「こんにちは」
柚流の明るい一声の後、瑞樹の躊躇いがちな挨拶が、厨房にいる葦厨にもかすかに聞こえた。
包丁を持つ手が僅かに跳ねたのは、間違いなく今朝の夢が原因だ。
「どうかした?」
疚しさを誤魔化すように黙々と茄子を切っている葦厨に月沖が尋ねたきた。思わず舌打ちしたくなる。
――どうしてこう勘がいいんだ。
産休から妻である柚流が復帰して以降、月沖もちょくちょく厨房に立つようになっているのだが、その分、揶揄われる機会も格段に増えている。仕事が楽になった分の弊害といえなくもない。
「どうもしません」
「ふうん、そう?」
笑いを含んだ月沖の視線は徹底的に無視する。
入り口側の白い壁にある円形の掛け時計は、午後二時を示していた。あと三十分程で休憩に入る時間だ。
週に四日から五日、瑞樹はほぼこの時間帯にやってくる。昼食としてはやや遅いが、起床があまり早くないらしく、生活のペースにはあっているらしい。
店を閉めるギリギリの時間、ドルチェを出すころには、だいたい客は瑞樹だけになっている。
厨房から葦厨が顔を出すと、今日も最後の客となった瑞樹が、先程出したカッサータの皿と向き合っている最中だった。
「いらっしゃいませ」
「葦厨さん。こんにちは、今日もすごくおいしいです」
お気に召していただいて何より、と食事の邪魔をしないように挨拶だけで立ち去ろうとした葦厨の隣に月沖が並んだ。
「いやあ、瑞樹さんのおかげでドルチェ関連が充実してありがたい限りですよー」
意味ありげな笑みに、要らぬことを言い出しそうな気配を感じる。葦厨はこっそり足の一つも踏んでやろうとしていたのだが、その前に柚流がさっと紙袋を差し出してきた。
苦笑しているところをみると、どうやら助け船を出してくれたらしい。
「あなた、これ志染堂さんから。頼まれてたものですって」
「あ、ありがとう」
クラフト紙で作られたマチのない紙袋には志染堂と骨太な書体が印刷されている。いそいそと受け取った月沖が封を開け、中から分厚いハードカバーの本を取り出す。ナプキンで口元を押さえた瑞樹が、なぜか微かに眉根を寄せた。
「月沖さん、それは……」
「あ、ご存知ですか? 椿 将然の新刊、品切れだったのでお取り寄せを頼んでたんです。葦厨くんにもこのシリーズを貸したんですよ。どうだった?」
「ああ、面白かったです。主人公がいいですね」
くるりと振り返った月沖に尋ねられ、葦厨は素直に感想を述べた。
「じゃあこれも読み終わったら貸そうか?」
「いえ、自分で買いますから。――瑞樹さん? どうかしました?」
ふと気付けば、瑞樹がなにやら落ち着かない様子だ。
「……や……ええと、あの……今日は夕食も、来ます、ので」
「あら、ディナーは珍しいですね」
うれしいわ、と屈託ない柚流にはにかんだ笑みをみせた瑞樹が、そのまま葦厨と月沖に向き直った。
「うん、あの……ありがとうございます」
「え?」
「え?」
月沖と二人、なぜ礼を言われたのかわからず、首を傾げる。だが、そのままぱっと俯いてカッサータを口に運び始めた瑞樹にそれ以上問いかけることはできず、結局、会計を済ませて帰っていく姿を、なんだかわからないままに見送ることになった。