第四話『君に謝ったところで何にも変わらない』
「君にはこれを飲んでもらう」
そう言って彼が差し出したのは空のグラスだった。
「おい、ふざけているのか?」
前言撤回をしおう。やはり、この人間は信用に値する人物ではなかった。俺をバカにするためにわざわざ泣いたフリなんかしたんだ。
「いいや、違うよ。今から注ぐんだよ」
それを聞いて俺は少し安心をした。何もかも洗いざらい吐き出した俺が全国ネットで曝け出されるのかと思った。まあ、そんなことしても誰もこんなつまらない人生に興味を持つことなんてないだろう。
「で?何を注ぐんだよ。やばい、薬とか渡されるのか? まあ、現実的に考えればそうなんだろうな……」
「それだけだったら、どれほど良かったんだろうな……」
「え?」
「いいや、こっちの話だ。気にしないでくれ」
彼が今までにどんな人生を歩んで俺に分かるはずがなかった。それでも、きっと俺には考えられないような辛い道を進んでいったのだろう。その苦労が顔の皺に深く刻まれていた。ストレスで一気に老け込んだような印象を与えていた。
「コップを私の前に置いてくれないか。それと、液体が注がれたらすぐに飲むんだ。何があっても必ず、だ。それ以外のことは考えないでほしい。でも、君は動揺をしてしまうだろうな。それでもいいから、飲むことだけは忘れないでくれ」
「ああ、何をしようとしているのか分かんないけど、何があっても飲むよ」
「そう言ってくれるとありがたい」
彼はそう言うと懐からナイフを取り出して、自分の手首を切った。当然のように、手首から血が流れていく。深く切っていたのか、血は滝のように流れていく。
「おい!おじいさん、何してんだよ!死ぬ気かよ!」
血が流れ続けているのに、またその傷をナイフで切ろうとしているおじいさんを止めようとした。だが、俺の制止を振り払おうと、ナイフを俺に突き付けた。
「邪魔をするな!こっちは真剣なんだ!」
彼の怒号で俺は委縮して、それ以上は動けなかった。
彼の手首は真っ赤に染まっていた。血は一向に止まる気配がなく、出血死するのは明らかだった。彼の行動原理が分からなかった。一体、どのようにして俺に力を授けたいというのだろうか。いや、頭の中では分かっている。彼は液体を空のコップに注ぐと言った。
俺の予想通り、おじいさんは手首から流れた血をコップに注いだ。つまりはそれを飲めということだろう。俺は後悔していた。こんなことになるんだったら、初めから外に出なければ良かった。住所なんて晒されてもいい。今の状況よりも大分マシな話だろう。
「すまないけど、これを飲んでくれ。拒否権なんてないからな。もう始まってしまったことなんだ。後戻りなんてできないんだ」
どこまでも彼は真剣だった。もしも、俺が断れば殴りかかるに決まっている。臆病な俺は抵抗なんてできずに殴られ続けるだろう。痛いのは嫌だった。そもそも、俺は性格上断るのが苦手だった。
俺はコップに注がれた血を飲んだ。当然ではあるのだが、鉄の味がした。吐き気がする。拒絶反応を起こしているのか、舌が痺れてくる。今すぐにでも吐き出してやりたかった。だけど、おじいさんの顔はそれを許してくれはなかった。
「ごめんな、君だけに背負わせて。全部私のせいだ。君は何も悪くないのに……」
おじいさんの声はよく聞こえなかった。まあ、もしも聞こえたとしてもきっと今の俺には理解できないだろう。俺はまだ半分以上も残っている血液を飲まなければならなかった。これが世界最強の力が得るとは到底思えなかった。俺は馬鹿にされているのだろうか。そうだとしたら、わざわざ自分の手首を切ったりするであろうか。自傷行為をしてまで与える力というのはどういうのだろうか。
俺がやっとの思いで飲み干した時には、おじいさんは息絶えていた。俺が血液を飲まずに助けに入っていたら救えた命かもしれない。いや、あの血の量を見る限り、死ぬ確率のほうが高かっただろう。それに、飲むのを止めてしまっていたら、俺が殺されてしまっていただろう。彼は死ぬ直後まで、俺が飲むのをじっと待っていた。
「おい、どうした何があった!」
俺たちの騒ぎを聞きつけたのだろうか、マスターがいる倉庫の扉が開こうとした。
この状況をマスターに見られるのはマズイ。おじいさんは死んでいて、俺は生きている。それだけで俺がおじいさんを殺してしまったと勘違いする可能性がある。動機だってある。あのマスターだったら俺がネットの掲示板で脅迫されたことを知っているかもしれない。
だから、この状況をマスターに見られるわけにはいかなかった。今からおじいさんの死体を隠すには時間がかかってしまう。俺がとった行動は逃亡だった。それ以外は妙案が思いつかずに、マスターに見つかる前に店を出て、全速力で遠ざかることしかできなかった。
その途中、俺は明らかな間違いを犯してしまったことに気付いていた。マスターは俺の家の住所を知っている。そして、あの現場を見れば、確実に逃亡をしている俺の犯行と疑われてしまう。
最悪だった。
俺はあのおじいさんのせいで人生をすべて失ってしまう。それも冤罪という形で。初めから関わるべきじゃなかったんだ。住所が晒されるほうがまだマシだった。犯罪者というレッテルを貼られてしまったら、二度と剥がすことは出来ない。裁判で無実になったとしても、周りからは冷たい視線を送られてしまう。きっと家族にも迷惑がかかってしまう。
逃げることは決して得策ではない。いずれは立ち向かわなければならないのだ。誰かが俺に対して大切なことを言っていた気がする。今の状況とは関係のないのかもしれないが、これからのことを考えれば重要なことであった。だが、それを思い出すことが出来なかった。俺はただ逃げ続けることしか出来なかった。
あの現場には俺がいないと思えるように。
気付けば俺が引きこもりになる前に通っていた書店にいた。俺は身を隠すようにそこに入っていた。このまま家へ向かっても、そこには警察が待ち構えているかもしれない。ならば、事が済むまではここにいたほうがいいであろう。店内に入ってみると俺が知っている書店とは随分と変わっていた。外装と言い、店内は昔より小綺麗になっていた。マスターと歩いていたときもそう思ったが、俺が外に出ていない間に随分と街の景色は変わっていた。俺だけが取り残されているようだった。
「いらっしゃいませ」
あの不愛想だった頑固おやじのような店主はおらず、誰に対しても笑顔を振りまいている愛想の良い若い娘がいた。きっとこの笑顔に勘違いする人間が何人もいるのだろうと思った。まあ、俺には関係のないことだった。
俺は外から見られないように、店内の一番奥の部屋へと向かっていた。そこはどうやら児童書を扱っている本棚であり、ひとりの子供が床に寝そべって本を読んでいた。躾のなってない子供だと思い、親の顔が見てみたいと思ったが、周りには親らしい人はいなかった。
注意する勇気もなく、ただ時間を潰すために近くにあった本を取って立ち読みしていた。俺が手に取った本は子供が温泉宿の女将になる内容のものだった。同人誌でお世話になったことはあるが、原作を読むのは初めてだった。案外面白いものであった。気づけば頬も緩んでいた。傍から見れば、気味の悪い人間だと思われてしまうだろう。
「うわああああん」
床に寝そべっていた子供が急に泣き出していた。私の顔を見て怖がったのか、それとも悲しい本を読んだのかは分からなかった。子供はいつだってそうだった。そして、いつも俺はロリコン野郎の犯罪者と勘違いをされてしまうのだ。ただでさえ、おじいさんの自決に巻き込まれてしまって、犯人扱いされそうになっているのに。こっちの事情も知らずに目立つような行動をしようとする。何としてもこの少女の口を黙らせる必要があった。
「うわああああん」
先ほどよりも大きな声で泣く。このままだと、店の人間が俺のところに駆けつけてしまうだろう。ロリコン扱いされて、警察に連れていかれて、おじいさんの殺害の疑いもかけられてしまう。そんな状況は最悪だった。どうして、俺はこんなにもツイていないのだろうか。本屋で身を隠そうとしているのに、少女が俺の近くにいる。この少女さえいなければ、この場をやり過ごすことが出来たのに。この少女さえ消えてしまえば……
俺は少女の口を塞ごうと触れた瞬間だった。
彼女は跡形もなく消えてしまったのだ。店内に響き渡っていた少女の泣き声もなくなっていた。あるのは少女が読んでいた絵本だけだった。初めから少女はいなかったかのように、消えてなくなったのだった。
店の人間が駆け付けた時、俺は呆然としていた。明らかに少女を消してしまったのは俺だった。俺はただ店の人間に「少女を消してしまいました」と呟くしかなかった。