drizzling rain for the white snow
桜が舞っていた。
そんな春だった。
きりりとした目をした君が、青い空に向かって鳴いていた。美しい青の毛並みが太陽に照らされて白く輝く。
「ウェイズ」
私は堪らなくなり、そんな君に声をかけた。
「何だい、白雪」
優しい君の声を聞くと、なんだかとても安心した。
「ウェイズ、こっちに来て」
「いいよ。少し待っていなさい……」
ゆったりとした足取りでそばに向かってきた君の体に触れようと伸ばした手が、何にも触れる事は無く、宙を掻いた。もがくように君に触れようとした手が却って君の姿を消していく。そのことに気付いて慌てて手を止めたころには、もうそこに君はいなくなっていた。
*
「ウェイズ、これからよろしくね」
五歳の春、私の誕生日。両親から与えられた私の最初のパートナーは、ウェイズという名の青い猫だった。人には誰しも、適性がある。そして、たまたま私に最初に発現した適性が、青い、金の眼の猫だっただけという、薄い、薄い、そんな繋がり。でも、私たちは初めて出会ったその日から、きっと固く結ばれていた。
「しらゆき、というのれすか。ぼくのほうこそ、よろしくなのれす」
一人と一匹は、幼いながらに手を握り合って契約を結んだ。私にとっては初めての、ウェイズにとっては最初で最後の。
それから、私たちはずっと一緒に過ごした。
ひと時も離れることなく、ずっと。
ある時、私は聞いた。
「ウェイズ、君は私のパートナーで本当によかったの?」
十になった夏、私の人生を揺るがすような知らせがやってきた。
私は如何やら、この世界で底辺らしい。
「勿論さ。私のパートナーは白雪以外にありえない」
君は、底辺の私にそう笑いかけた。――その笑顔に、心が凪いでいった。
それでも世界は残酷だ。
私の弟、ペガサスと契約した一つ違いの弟の、その友達、いや、信者のような奴らは挙って私を貶し、それを知っているはずの弟は私に何も話しかけてこなくなった。そのうえ三つ上の兄二人は、揃ってウェイズを傷つけ、私を見下すようになってしまった。
彼らの契約獣は、ウェイズよりも下の位の闇猫と黒鳥なのに。
一匹としか契約ができないだけで、みんなと変わりは無いのに、もう世界は私に牙しか向けなくなったみたいだ。
そんな日々が、また五年。
ウェイズの体は、前のように活発でなくなり、青く美しかった毛並みにも艶がなくなっていた。
「ウェイズ……」
「どうかしたか、白雪」
「ごめんね、」
泣くつもりなんかなかったのに、涙があふれてきた。誇り高き蒼猫で在る筈のウェイズが、それ以前に私の唯一のパートナー、私の半身の、ウェイズが、こんな姿になってしまっていることに耐えきれるわけがなかった。
「君は何も気にする事は無い。私が全てから守ってやる」
「でも、でも、ウェイズ、もう、体が持たないよ!」
「このくらい、なんてことないさ。安心しろ」
五年前と同じように、ウェイズは微笑んだ。安心なんて、できなかった。むしろ不安ばかりが募っていく。だのに君は言うのだ。「私はまだ死なないさ」なんて。
私の方が君より寿命が長いことは明白なのに、「ずっと守る」って。
それから四年、ウェイズは生き続けた。私を守るためだけに。それなのに。
「ウェイズ……なんで。君はもっと生きられたはずなのに、なんで、こんなことのために死んでしまったの?」
私に向かって落とされた大きな岩から守ろうとして、ウェイズは、それに叩き潰された。蒼猫としては、本当に無様な死に方だった。
「もっと生きられたのに。私のパートナーじゃなければ、もっと……」
蒼猫の寿命は、その人間の最初のパートナーであれば、三十年ほど生きられる。ウェイズは、その半分以下の、十四年だ。――たったの、十四年だ。
全部、私が、
わたしが、
能無し、だった、せいだ。
何度謝ろうとも絶対に私は私を許さない。
許せない。
絶対に。
私は私を……
そこで、私の記憶は途切れた。
目が覚めるとそこは知らない場所だった。
月明かりが草木を照らし、その緑から顔を出すように、点々と花が咲いている。
「そっか……。いまはるなんだ……」
それに応える様に、少し肌寒い風が私の髪を揺らした。
「じゃまだな、これ」
足首まで伸びたそれを無造作に掴む。それだけで、傷んだ髪の毛が何本も千切れた。顔を顰めて、辺りを見回す。
とがった石が、目に映った。
「これでいいや」
首元の辺りに石を押し当て、力を籠める。握った瞬間にもうたくさんの髪が抜け落ちていった。ぶちりと千切れた髪の毛が草の上に積もっていく。
何故だか笑いが込みあげてくる。
暗い森に、ただひたすら、少女の狂ったような笑い声が響いていた。
しばらくたって、糸の切れた人形のように、少女は積もった髪の毛の上に音もなく崩れ落ちた。
*
「ウェイズ……ウェイズ……」
何かを求めるように、少女は目を瞑ったまま手を伸ばす。その手は何にも触れることなく地に落ちた。
そんな彼女を愛しく見守る瞳があった。白い翼のネックレスをした……そう、その少女の、唯一の弟だった。
「雪ねえ、ボク、やっと捕まえたよ。時雨を褒めてよ、早く起きてさ。昔みたいにいい子いい子ってやって? でないと、ボク、本当に何するかわかんない。あの憎たらしい蒼猫を殺してあげたボクを褒めてよ」
彼は恍惚とした表情でそう言った。力無い少女の右手のひらを両の手で恭しく取って、顔へと寄せる。
「雪ねえを孤立させたのも、あの状況にしたのも、忌々しい蒼猫を粛清したのもボク。ぜーんぶ、ボクがやったんだ! だから褒めてよ、雪ねえ。もうそろそろ、おはようの時間だよ」
その言葉に呼応するように、少女の瞼が微かに揺れ動いた。ゆっくりと開かれた瞳は、明るさに目を慣らすように瞬きをして彼に焦点を合わせた。
「まさか……なんで……時雨が」
「雪ねえ! 体の調子はどう? 立てる? ボク、雪ねえが起きてくれるのずっと待ってたんだよ!」
満面の笑みを浮かべる弟に、姉はどこか怯えたような表情を見せていた。
「ウェイズ……! どこ……」
少女は悲痛な叫びをあげた。勿論返事など、あるはずもない。だが――もう、そんなことしか言えないほどに、壊れかけていた。
「わかってるくせに。ウェイズは、いないよ? 言ったじゃん、ボクが殺したんだよ」
「嘘……うそ、うそ、うそだ、そんなのうそ、絶対うそ私は信じない、絶対、信じない、ウェイズはほら、ここにいる!! ここに、いるんだ……いるんだか、ら」
「……壊れちゃった? あーあ。ま、いいんだけどね。あの糞猫の代わりに愛されるってのも癪だけど……重ねてみてくれるんなら、いいや」
少年は満足げに笑い、少女の体を抱いた。そっと。優しく。抱きしめた。
*
「ウェイズ、いる?」
私が言うと、
「あぁ」
君の声が返ってきた。
なんだか、少し若返ったような気がするけど、やっぱりウェイズの声は安心するなぁ。
「ウェイズぅ……」
甘えたように近寄ると、君はそっと私の頭に手を置いた。
そう、ウェイズは、私に、人間になって会いに来てくれたんだ。
*
「愚かだなぁ、姉さん。……でも、そんなところも大好きだよ。いつか、あんな猫と重ねないでボクを見てくれたらいいのにね」
白雪の頭を優しく撫でながら、時雨は彼女に聞こえぬように呟いた。
「全部ぜーんぶ、あいしてる」
狂ったように甘く言うと、白雪は嬉しそうに顔を綻ばせて言った。
「わたしも。ウェイズ」
そして少年は、くすりと嗤った。
桜が舞っていた。
そんな20の、春だった。