篠永楼2
AM5:49
篠永楼が父親、母親、そしてその兄と会ったのは、五年も昔のことになる。
そして、そのいずれもと篠永は死別している。
家族は、皆『うぃすてりあ号』というフェリーに乗っていた。
父の篠永紘一郎は、当時与党幹事長だった。選挙前の休暇を、家族水入らずで過ごしたいということで、わざわざ北海道に戻ってきていた。
母はその旅行に同行、兄は中学の教諭であり、生徒を連れての旅行として『うぃすてりあ号』に乗った。父の紘一郎は兄の教諭としての姿も見ておきたかったのだろう。兄はそれを知り、苦笑いを浮かべていたのを覚えている。
楼も行く予定だったが、たまたま他の用事が急に入り、行けなくなってしまった。
だから、楼はその三人が笑いながら行ってきます、と言って出て行く姿を最後に、三人の姿を見ていない。
その後、『うぃすてりあ号』は保釣抗日聯軍と名乗るテロ組織に占拠される。
その名の通り魚釣島の所有権を強く主張する中国のテロ組織だった。
しかし、彼らの望み通りに事は進まなかったようで、彼らは『うぃすてりあ号』を爆破。乗客乗員のすべてが帰らぬ人となった。
中国政府は、保釣抗日聯軍が共産党との繋がりが深い組織であったにも関わらず、関与を一切認めず、証拠となった声明文を公表、組織のメンバー全員を裁判もろくに受けないままに全て死刑に処した。
真相は闇の中のまま、うぃすてりあ号事件は保釣抗日聯軍による最悪のテロ事件として幕を下ろした。
篠永楼にとって、そんな国際的な事情など関係ないことだった。彼にとっては貴重な親族を失っただけに過ぎない。
篠永紘一郎が与党幹事長であったために、親族だけの密葬というわけに行かず、自然葬儀は盛大なものとなった。
棺には遺体などもちろん入っていない。形だけの葬儀。自分の父や母、兄が死んだという実感が湧かないまま、篠永楼はその葬儀の準備に追われた。
そして、当日、寝る間もなく、寝ることもできずに篠永楼はその葬儀を取り仕切った。
その篠永楼に対し、一人の男が声をかけた。
実年齢は還暦を超えているはずだが、スーツの下からでもはっきりとわかる、鍛え上げられた肉体と、そして年齢を感じさせない、どこかハリウッド俳優を思わせる彫りの深く端正な顔立ち。
父と同じ党に所属していた鐙貫之だった。
父とは親友であり、高潔であるためにスキャンダル等一切ない、清廉潔白な政治家であった。
「楼くん、紘一郎は本当に気の毒だった。やるせない気持ちでいっぱいだ。もし、私が休暇を断っていたら……。いや、中国との交渉を上手く進められていたら……。心から悔むよ」
「鐙さんのせいではありませんよ。これは事故のようなものです。仕方の無い……ことですよ……」
楼はそう言いながらも、きゅっと唇を噛んだ。
もちろん、納得などできていない。国家間の諍いに巻き込まれて亡くなったから、より現実味がない。
でも、事故ではないのだ。故意に引き起こされたものなのだ。
「楼くん、紘一郎から私は君を託されている。何か困ったことがあったら遠慮無く言いなさい。とりあえず……」
そう言って、鐙貫之は懐からチケットを取り出した。
「『うぃすてりあ号』の沈んだ場所まで船をチャーターしている。良かったら利用してほしい」
額を考えれば、相当な金額になるはずだ。
しかも断られることも十分に考えられる。それでも、鐙はどこか納得できていない楼の心理を汲んで、船をチャーターしてくれたのだろう。
また、父が与党幹事長だったということもあり、篠永楼にしてみればさっぱりわからない交友関係や、葬儀の仕切りも実は鐙の事務所スタッフが相当にバックアップしてくれていた。
子供の頃から何度も見知った顔でもあるし、篠永楼にとって唯一頼れる存在でもあった。
そんな折り、鐙が退席した後に、篠永楼の肩を叩くものがいた。
見れば白髪頭の初老の男だった。
「篠永楼くん、かね?」
「はい、そうですが」
「君のお父さんとは仲良くさせてもらっていた。警察庁の栢原鑑蔵という者だ。今回の事は心からお悔やみ申し上げる」
栢原は一礼した。
「い、いえいえ」
「で、君は今度入庁するんだろう、ウチに」
篠永楼は警察庁に入庁する予定になっていた。キャリア組として、だ。
「ええ。その予定でした」
「この一件、君は本当に保釣抗日聯軍がやったと、そう思うか」
あまりに唐突な質問だった。
事実すら受け止め切れていないのに、その事実すら疑う気持ちなど、篠永楼にはなかった。
「……わ、わかりませんよ、そんなこと」
「君は知っているかわからんが、保釣抗日聯軍は白色テロ、つまり政府、共産党主導で様々な嫌がらせをするための組織だった。これまでに荷担した犯罪行為と呼べるものも、デモ隊と衝突してけが人を出したり、火炎瓶を投擲したり、脅迫文を方々に出したり、船をチャーターして魚釣島周辺で威嚇行為をしたりと、はっきり言ってしまえば可愛いモンだ」
「何が言いたいんです?」
栢原は薄く笑みを浮かべて言った。
「とても乗客乗員数百人を爆殺できるような、そこまで過激なことをやってのけられる組織的な体力もなければ、資金もない。チンケな組織だったんだよ」
「……でも」
「それでも、政府は関与を否定しつつ、関係者全員の死刑をすぐに決めた。あまりにも早すぎるだろう。だから、何か裏があってもおかしくねぇ。口封じだって、考えられねぇか?」
篠永楼は困惑した。
「筋立てが乱暴すぎやしませんか」
「とりあえずのアタリを付けるのは大事だぜ。勘って奴でもあるがよ。で、だ。老婆心だが、入庁してもこの件を正面から捜査できると思わん方がいいぜ」
「……それは」
「この事件は公安の外事が取り仕切っている。そして、連中の中では終わったことになっている。連中の縄張りを踏み荒らしてみろ、いくらキャリアでも無事じゃ済まんぞ」
自分から言っておきながら無茶を言う人だな、と篠永楼は苦い顔をした。
「この件を探るならこっそりだ。こっそりやれ。その際手は貸す。伝手も、関係筋も、知人もみんなお前に協力させる。それが守れるか?」
この人はとんでもないことを言っている。
「はい、もちろんです」
そして、栢原は篠永楼にのみ聞こえるよう囁いた。
「俺ぁよう、許せねぇんだ。紘一郎を殺した奴を。のうのうと生きてやがるそいつをふん縛って、お前に仇を取らせてやりてぇんだ。俺たちは正義の味方じゃねぇ。でもよ、あんな良い奴を殺すような悪人をとっちめることくらい、してやりてぇじゃねぇか」
鐙貫之、そして栢原鑑蔵。この二人との出会いが、篠永楼の運命に大きな流れを産みだした。
そして、篠永は起きて時計を見る。まだ朝だ。出勤まで間がある。
今日は非番なため、昔の繋がりで同窓会を開こうとしている。違う高校だが、生徒会同士の繋がりがあり、よく見知った相手だ。
懐かしい顔ぶれに久しぶりに会える。篠永楼はこんな時だというのに、少し心が躍っていた。