荻堂酉馬2
AM2:08
荻堂は眠気覚ましに、くたびれた黒コートの中からショートピースを取り出し、火を付けた。紫煙を肺腑に吸い込むと、脳に煙が行き渡り、そして末梢神経にまで染み渡っていくのがわかった。
少しばかり眠かった。が、それどころではない。事態が大きく動いたのだ。
深夜二時を過ぎ、電車は既に終電も終わっているため、仕方なくタクシーを拾う。
すすきのまで、と行き先を告げると、タバコは困る、と運転手が告げた。苦い表情を浮かべながら、荻堂はショートピースを踏み消し、車に乗った。
「生きづらい世の中になったもんだね。夜を金に換えているアンタはタバコを吸わないのか?」
すると、運転手は苦笑しつつ言った。
「商売道具の中じゃマズいんで、外に出て吸ってますよ。匂いすら嫌われる時代です」
「夜を眠りでやり過ごせる連中は、夜を乗り切る片道切符すら許しちゃくれないんだな」
「夜闇の何割かは、タバコの煙でできていたと思っていたんですがね。変われば変わるもんです」
運転手は苦笑した。
そして、まもなくすすきのに着き、荻堂は黒コートの中からくしゃくしゃになった五千円札を差し出した。
運転手はいったいどこで何をするんです、なんて余計なことは聞かなかった。こんな夜更けにすすきのに繰り出すというのに、まともな用事であろう筈がない。聞かないのは最低限の礼儀というものだろう。
荻堂はそこから、凍った路面の上を歩き始めた。本当に芯から冷える日は、逆に雪も降らない。革靴を通して冷気が感じられるが、身を切るような寒さはそれ以上だった。本能からか、身を縮め、ペンギンのように摺り足で歩く。格好はよくないが、こうすると転びづらいのだ。
そのまま表通りを抜け、裏路地を歩くと、寂れきった町の一角に、雑居ビルが見える。
ビル自体も老朽化が進み、テナントもあまり入っていないのだろう、ある一階を除いては明かりすら灯っていない。
階段を登り、煌々と明かりの灯るその階まで登る。すると、村田組と表札に書かれたドアが目に入った。
一フロア丸ごと借り切っているようで、入り口こそ狭いものの、中はそれなりに広いのだろう。
荻堂は扉をノックした。だが、出て来る様子はなく、仕方なく携帯電話を取りだし、電話する。
「やあ。荻堂なんだがね、ちょいと近くに寄ったんで、開けちゃあくれないか? 頼むよ」
そう言った途端、扉が開き、この寒空の中、胸元まで開いたアロハシャツを着た男が駆けてきた。そして、一礼する。
「見ない顔だね、君新人?」
荻堂は顔をのぞき込むと、笑いながら言った。
「は、はい」
そして、新人は荻堂からコートを受け取り、さらに深々と一礼した。
「荻堂さんにはホントにお世話になっていますのに、すぐに出られず誠に申し訳ありませんでした」
「ホントだよ。凍え死ぬかと思っちまった。で、俺がなんで来たか、組長はわかってると思うかい?」
一瞬、男は考え込むが、すぐに切りかえした。
「いえ、覚えがないようです」
「そう。そりゃすげえ困っちゃうね」
明かりの消えたオフィスを潜り、一番奥の部屋に通される。普段、建設会社として通常営業もしているのだろう。だが、もちろんフロント企業であるため、オフィスの施設はかなり簡素だった。
一室に足を踏み入れると、高級そうなスーツを着た金のネックレスをした男や、やたらと厳つく、確実に筋物だとすぐにわかるような連中が数人、大理石のテーブルの前に座っていた。
そして、一番奥にはサングラスをかけた、肥えた男が足を組みながら座っていた。肌の血色が極めて良く、ピンク色の肌と肥え具合が豚を連想させる。
「悪かったね荻堂さん。さ、どうぞお掛けになって」
そして、椅子を引かれ、茶を出された。周りは筋物が五、六人こちらににらみを効かせている状態で、到底リラックスできるムードではない。
「いえいえこっちこそね、まあ突然こんな時間に来たんだから、そりゃあすぐには出られないかもしれないってのはわかってますよ。どうぞお気遣いなく」
そう言って荻堂はわざとらしく茶をすすり、深々と椅子に腰掛けた。
「気遣いありがとうございます。それで、今日はどんな御用でしょうか」
へりくだった口調で組長が問いかける。それに対し、荻堂は至って普通に返す。
「尤雲衢、殺されたって知ってます?」
だが、その言葉に組長は動揺した。
「知ってますよ。お悔やみ申し上げます」
「あんた、何か知ってる素振りに見えるけれど、そんな事はないだろうね?」
身を乗り出し、荻堂は指を指した。周りの筋物が不敬だといきり立つが、組長はそれを手で制した。
「ここいらで『ノチユ』に関わりのないところなんてありませんよ。もっとも、あそこは海外の兵隊を連れてきていたようで、わたしらが直接関わりがあった訳じゃありませんがね」
「さすが村田組長。躱すのがうまいね、どうも。もちろん、この組が殺したなんて思っちゃいない。でもこちらの件は、いくらか知っててもおかしくないかなって思ってね」
そう言うと、荻堂は黒いコートから四つに畳まれた紙を取り出した。
「なんとなく気になってね、『宇佐見資金』をチェックしてみたら、なんと五億の金が動いてるんだよね。大ごとだよ、これは」
組長はぎょっとした顔をして見せた。確かにその『宇佐見資金』と呼ばれる口座の出納記録のコピーには、はっきりと総計五億の金が引き出されたことが記されていた。それも、村田組の名前で。
組長は青ざめた。
「し、知らねえ! 誓って知らん! だいたい、アンタ達が黙認してくれているこのプール金に、こっちが手をつけるなんて真似をすれば、どういう目に合うか知らんわけがないだろう!」
荻堂は大理石のテーブルを叩き付ける。
「知らねぇでハイそうですかってこっちが引っ込める類いの話じゃあない。わかってんの?」
「だが荻堂さん、ホントに知らねぇんだ! この金なんて何があろうと下ろすこともできねえ」
荻堂は椅子から立ち上がり、組長の元へと歩み寄り、その顔を睨み付けた。
「そんなことは重々承知してんだよ。チェック体制の不備を指摘してるんじゃなく、この金はどこに行って、今どうなってるか知りたい、俺はそう言ってるんだけど?」
組長は口篭るばかりだ。
「いくら黙認してるって言ってもさ、こんなこと起きたら黙認できねえんだよ。寝た子起こすような真似しでかして、知らぬ存ぜぬでどうにかなる問題じゃねえワケよ。ただでさえ、『ノチユ』のオーナーが殺されてんだ、場はこの数十年見たことない程に、大荒れなんだよ。いったい、どう落とし前つけてくれるつもりだい?」
荻堂は、口調こそどこか小馬鹿にしたようで、穏やかで、しかも口元も笑みを浮かべてはいたものの、目は少しも笑ってはおらず、組長をじっと見据えていた。
組長は、突然深々と頭を下げた。
「すまなかった。ことが荒立つ前に来てくれて本当にありがとう、荻堂さん。だが知らねぇモンは知らねぇ。だからこの件は必ず、一両日中には片ァ付ける。ウチの代紋舐めくさった落とし前をきっちり払わせてやる」
荻堂は組長の肩をぽんと叩いた。
「頼みますよ。アンタがハメられたにせよ、一両日中に片が付かなかった時には、わかってますよね、組長」
口調こそ穏やかだったが、荻堂の目は微塵も笑ってはいなかった。
「ああ。それとこの件、何か少しでも掴めたら、逐次アンタに知らせる」
「お願い。あ、あと送ってちょうだい。すげえ寒かったんで」
「もちろん。ヤス、送ってさしあげろ」
「へい!」
新人がコートを持って現われた。荻堂は黙ってコートを受け取って、羽織り、一同は荻堂を見送った。荻堂は、煙草に火を付けると、そのビルを後にした。
「いやー、面白くなってきたね。そうだろ?」
笑いながら言った荻堂の言葉に、新人は呆然とした。終始、この荻堂という男は声も荒げずに組長を圧倒し続けたのだ。只者ではない。この剛胆な来訪者の到来は、この街に吹き荒れる嵐の前触れなのだな、と新人は強く思った。