篠永楼1
PM10:17
扉がノックされる。
それに対し、銀縁眼鏡をかけた白髪頭の男が応対する。
「おう、入れよ」
男はしわが刻まれた顔を、ドアの方へと向け、自然とその鋭い視線もドアに突き刺さった。
そして、男が入ってくる。
黒い髪を斜めに流した、自然な笑みを浮かべた男だ。
「かけたまえ」
「はい、失礼します」
若い男は一礼すると白髪頭の男性の真向かいに腰かけた。
そして、白髪頭は茶を出しながら言う。
「いつぶりかな? 確か、入庁の時にも一度会った気がするが」
「はい、その時以来ですね。しかし、またどうして北海道に?」
白髪頭は苦笑した。
「当然、何かあったからに決まってんだろ。しかし、驚いたのはむしろ君のほうだよ。わざわざキャリア組のレールを外れて薄野署に来るとはね」
「栢原さんなら、その理由は言わずとも知っているでしょう」
ふむ、と栢原は頷いた。
「うぃすてりあ号事件の件は、今もって腑に落ちねぇさ。外事も肝心なところで役に立ちゃしねぇ」
「栢原さんも外事の言う、保釣抗日聯軍が主犯だと考えているんですか?」
「姚黒奇がやったという証拠を、中国でご丁寧に揃えてきた以上、それ以上何がある?」
白髪頭は茶をすすり、ゆっくりと首を横に振った。
「白色テロで親兄弟が死んだなんて、受け入れられませんよ」
「君はその真相を知りたいがために入庁した。でもどうだった? 真相にはたどり着けたか、篠永くん」
篠永は黙ってうな垂れた。
「だからこそ、僕はここに来たんです。うぃすてりあ号事件の発端となった、この北海道に」
「もっとも、世間は尤雲衢が殺されたということで持ちきりだがね。現場も見たんだろう、どうだった?」
「薄野署管轄の事件じゃないですからね。早々に追い出されました」
「そりゃあ、本部仕切りに決まっているだろう。しかし、これで『ノチユ』が撤退ともなれば、北海道はまた揺らぐな」
「もしかして、栢原さんが来たのはその件に関して、ですか?」
「まさか。宇佐見事件のようなことがないか、しっかりと監視しに来たってだけだ。俺の仕事は監察だからな」
「宇佐見事件は災難でしたね」
栢原は首を横に振った。
「災難なモンかよ。ありゃあ、俺たちに対する宣戦布告そのものだったよ。舐められてんだよ、俺たちは」
「今もですか?」
「今もだろうな。だからここに来たんだよ、俺は」
「宇佐見嘉壽男のような人間がまだいる、ってことですか?」
「……宇佐見事件は組織ぐるみだった。人じゃねぇよ。もっと多くが関わった事件だったのさ。宇佐見嘉壽男は生贄に過ぎねぇ」
宇佐見事件。当時、生活安全部に所属していた宇佐見嘉壽男が、暴力団とのつながりが強い情報提供者、いわゆる「S」に対する資金に行き詰まり、覚醒剤、拳銃の密輸、窃盗車の売買に与していた事件である。
宇佐見がその違法な取引で得た資金は莫大であった。そして次第に生活ぶりも派手になっていったが、道警はその資金を見て見ぬ振りをしており、宇佐見が逮捕されるまでは不自然なほどに期間が空いていた。
普通、監察は各地方の警察本部に置かれているが、道警の場合は特殊であり、警察庁自体が監察を行っている。つまり、観察の目が行き届きづらい場所での事件ということもあり、組織ぐるみでの犯行だと考えられ、かつ、監察に対する宣戦布告というのは言い過ぎたことではないのである。
「今も宇佐見事件は終わってねぇ。どこかで宇佐見のやり方をそのまんま継いでるらしいってネタも掴んでんだよ。だから俺が来た」
「そんな折りに尤雲衢が殺された。北海道の裏で何かがあったと考えた方が自然、ですね」
「決まってんだろ。直接の繋がりはねぇかもしれねぇけどよ、今、裏じゃあ石を引っ剥がされた地虫共が散り散りに逃げてる真っ最中なのさ。そういう時こそ、引っ張れる最大のチャンスだろうが」
栢原は笑みを浮かべた。その笑みは、明らかに狩人の如く凄絶であった。
「微力ながらお力添えできれば」
「何かあれば連絡するがよ、お前の方でもしっかりアンテナ張ってろよ。絶対、何か起こるぞ、この数日中に」
栢原は頭の上に人差し指を立てて見せた。
そんなことは解っている。何かとてつもないことが起きる。それは篠永も、北海道に戻ってきてすぐに感じていた。そして、今もってそれは、既に起きていた。