荻堂酉馬1
PM9:08
荻堂は、シャッターばかりが目に付く街を歩いていた。それほど遅い時間ではないが、個人商店などはもう閉店の時間である。
寒さからか、人通りもまばらで、荻堂も背中をやや縮め、白い息を吐きながら雪を踏みしめつつ、進む。
そして、一軒の店へと辿り着く。見るからに古ぼけた店は、裏通りの奥まった場所にあり、明らかに儲かっていない。
ショーウィンドウの中には油絵が飾られていたが、埃を被っており、営業をしているかどうかも定かではない。
よねづか古美術店、と書かれた看板も古ぼけており、店の前は除雪もされておらず、雪が貯まっていた。
渋々、荻堂はくるぶしの辺りまで降り積もった雪をそのまま踏みつけ、靴の中に染みこむ不快な冷たさを堪えつつ、古美術店の扉を開けた。
ベルが奏でる派手な音が店内に響き渡る。荻堂は手で雪を掃い落とし、くたびれた黒コートからショートピースを取り出した。そして、銀色のロンソン製バンジョーライターを取り出して、火を付けようとする。
「ちょっと荻堂さーん、困るなー」
すると、坊主頭にベレー帽を被り、アロハシャツのような柄のパーカーを着、白いスキニーデニムを履いた男が眉を顰めて荻堂を見た。
「相変わらずだな、米塚。店の中もお前と同じで、薄汚れてやがる」
店内は、米塚のセンスが滲み出ていた。古いレコードが店内の一部を埋め尽くしており、床は緑色のペイズリー柄のフローリングであるものの、掃除はあまり行き届いておらず、その辺に絵画がクリーム色の包装紙に包まれて雑然と折り重なっていた。物を売る、という状態ではない。
「ほっといてくださいよ。こんな時間に何しに来たんです?」
「なんだ、久方ぶりに来た客に対して、随分な態度じゃないか。そうそう、土産だ」
そう言って荻堂は厚く包装された本を米塚に差し出した。米塚は怪訝な表情でそれを受け取り、驚きのあまり目を見開いた。
「ちょっとちょっとちょっと荻堂さーん、ジャック・リプシッツじゃないっスか! めちゃめちゃ希少本じゃないっスか!」
「じゃ、吸っていいか?」
「それとこれとは別です! っつーか、こんなモンくれるってことは……」
「そりゃ、タダでくれてやるほど、俺もお人好しじゃあないね」
米塚は溜息をついた。
「まーた厄介事っスか。マジ勘弁なんですけど」
「まあそう言うなよ。結構苦労したんだぜ、それ」
「いいっスよ。どうせ荻堂さんに逆らう気なんか、これっぽちもないし」
「おやおや、殊勝な心がけだね。いい傾向じゃないか」
「で、何の件スか?」
「尤雲衢が死んだ。何か知ってんだろ?」
米塚の顔が強ばった。
「すーげー何も言いたくないんスけど」
「お前の口を割らせる手段は、何もジャック・リプシッツだけじゃないぜ」
米塚は臓腑すら吐き出すんじゃないか、という程の深い深い溜息をついた。
「ソ・ジュファンがここ数日、札幌に来ていたって話があります。目撃したって話だけで、裏取ったわけじゃないっスけどね」
今度は、荻堂の顔が強ばった。
「時期が合いすぎるな」
「そうっスね。違う時期なら、ジュファンも六年前の蟠りを忘れてこっちに羽根を伸ばしに来たんだ、って解釈も出来なくもないっスけど、この時期ってのがもう……」
「でも結局『ノチユ』関連で店は出しているだろう、奴も」
「そりゃ出してますけど、尤雲衢に比べればもう、売り上げも何も比べられるようなモンじゃないし。あれだけ鳴り物入りで北海道に尻尾振った結果が、尤雲衢に惨敗ってんじゃ、怨恨の線を疑うのが自然じゃないっスか?」
六年前、『ノチユ』が立ち上がる前、尤雲衢に対抗してソ・ジュファンが名乗りを上げた。マカオ等でカジノホテルを経営しており、手腕もそれなりに確かではあった。そして一時は尤雲衢をプレゼンで圧倒するも、蓋を開けてみれば惨敗。すすきのに数店舗のカジノを持つものの、尤雲衢には遠く及ばず、売り上げも伸び悩み続けていた。
「しかし、六年だぞ? 六年経って今ってのも……」
「尤雲衢はアメリカの警備会社に護衛を頼んでたじゃないっスか。かなりの金がかかってると思いますけど、関連店がどうかはさておき、『ノチユ』正規店舗には日本の暴力団は口を出せなかった。でも雇った理由はそれだけじゃなく、ジュファンの報復を恐れての行動だったんじゃないスかね」
「でも憶測だろう? 警備に神経を尖らせるのは、金持ちに共通の病気みたいなもんじゃないか」
「んー、どうなんすスね。一号業務、つまり施設警備だけを委託するのが普通なのに、四号業務まで頼んでいたってのがどうも。っつーか、警察とは仲良かったんでしょ。その辺の事情は俺よか知ってんじゃないっスか」
荻堂は苦笑した。
「宇佐見さんはどうだったか知らないが、少なくとも俺が知ってる限りじゃ、尤雲衢相手に大きく金が動いたりとかって話は聞かない。勿論、宇佐見さんがああいう人だったから、今でも疑ってる奴は警察の中にも大勢いるけどな」
「って事は警察もマジで理由がわからないって感じなんスかね。ってか、殺してすぐに金が手に入るって訳でもないとすると、怨恨の線しかないと思うんスけどね」
「確かにそうだな。いきなり王手ってのは、やっぱり虫が良すぎたか」
荻堂は、傍らに立てかけられていたレコードを手に取った。
「ドゥービー・ブラザーズなんて好きだったんスか?」
「いいや。サングラスに惹かれただけさ。それじゃあ、邪魔したな」
「何か判れば連絡します。ジャック・リプシッツの恩をすぐに忘れるようなことはないっスから」
荻堂は手だけで返事し、よねづか古美術店を後にした。