第8話『日常』
「…え~と、ここではどういう分量で作ってるんだ?マニュアル、マニュアル……」
今日もレストランプレアデスの厨房では、せっせと恵がデザートの仕込みをしていた。ここで働き始めて一ヶ月、ようやく仕事にも慣れて来た。
「…う~ん、500ccかぁ~……。もっと入れた方が、美味しいと思うんだけどなぁ~…」
恵は今までレストランのマニュアル通りにデザートを作っていたが、今日から始まる秋限定の定番デザート創作を機に、少しアレンジを加えてみたい衝動に駆られた。
「う~ん、牛乳も入れないのかぁ~。…少し入れた方が、舌触りがぐっと良くなると思うんだけどなぁ~…コストだってほとんど変わらないし…」
悩みに悩んだ挙句…。
「…私流にやっちゃおうかな。…やっちまえ!」
秋のメニューへと切り替わった初日、プレアデスのフロアでは客達がざわめいていた。
「ねぇ、なんかこの秋限定ケーキ、去年より美味しくなったと思わない?」
「うん、格段に……きっとリニューアルしたんだね!すみません!」
ある客は店員を呼び"ケーキのテイクアウトは行っていないのか?"またある客は"会社のイベント用にケーキを出したい"など、恵が作った秋限定ケーキは大評判となっていた。
閉店後の厨房で、恵は一人洗い物をしていた。
(ふぅ~、疲れたぁ~……。今日はマニュアル通りに作らなかったけど、大丈夫だったかなぁ?…マズイなんてクレーム来てたら…、どうしよう……)
「御影くん!」
不安を募らせている中、進次郎が急ぎ足で厨房へと駆け寄って来た。
「あっ、支配人…。お疲れ様です…」
「お疲れ…。なぁ、君……。デザートに何かした?」
「えっ?」
恐れていたことが起きてしまった。きっと味が違うという客からのクレームが殺到して、進次郎が忠告に来たのだろう…と恵は思った。
「はい…あの…、マニュアルを見ないで、自分の感覚で作ってしまいました……ごめんなさい!』
「…何で謝るんだ?お客さんには大好評だったよ」
「…えっ?」
意外な言葉に恵の目は真ん丸になった。
「前より美味しくなったって、テイクアウトを希望してるお客さんが殺到してるよ」
嘘みたいな本当の話に、恵は涙腺を若干緩ませながら歓喜の声をあげた。
「良かった~!不安だったんです…。クレームが来てたらどうしようって…。でも勝手な事してごめんなさい…、今度から支配人に相談してから…」
「いや…、俺は君の直感を信じるよ…。自分が思う通りに、やってみたらいいんじゃないかな?」
「……ありがとうございます!」
進次郎の暖かい言葉が恵の心に染み渡った。
深夜、閉店後のバー『オリオン』で、克哉と進次郎は酒を交わしながら売り上げの明細を確認していた。
「おい進次郎、今日はずいぶんとテイクアウトが多いな」
普段はテイクアウトを利用する客なんて滅多にいないプレアデスだが、今日は克哉が驚くほど数が多かったのだ。
「新パティシエの成果さ…」
「…あ?」
進次郎がニコニコ顔で克哉に語り始めた。
「御影くんだよ。梨香がメモしていたマニュアルを見ないで、自分流でデザートを完成させたらしい。それが客に受けたのさ」
「……そうか」
「才能あるパティシエだよ…。あの子は……」
「………」
恵の気分は最頂点に達していた。新メニューが評判を得て、ずっと優しく接してくれた進次郎から激励の言葉をもらえた。夢のようなルンルン気分で家に帰ると、自宅電話の留守電ボタンが赤く点灯していた。
(誰からかしら?)
ピッ。"メッセージは一件です"
「恵、久しぶりだな…。元気にしてるか?来月は母さんの十三回忌だろ?それで電話したんだが…留守じゃ仕方ないな」
(父さん…。いけない、すっかり忘れてた…)
「身体には気をつけるんだよ…おやすみ」
ツーツーツー。"メッセージの再生を終わります"
(そっか、十三回忌か…。私も、もう25だもんね……。母さん……)
新メニューのデザートを自己流に創作して好評を得てから数週間後、その日オフだった恵は和沙に誘われ、昼から新宿で街ブラをしていた。
「え~と…、グルメ雑誌…、グルメ雑誌……」
「なんてタイトル?」
「読者が選んだ速報リッチレストランキング…」
「読者が選んだ速報リッチレスト…、長いタイトルね…」
「真弓が載ってたって言ってたのよ…、恵の話をしてたから…」
二人は本屋に寄り、あるグルメ雑誌を探していた。和沙が働いてるニューハーフパブで、同僚がレストランプレアデスのデザート特集記事を目にしたことを和沙に伝えたからだ。
「…ああっ!あった!」
和沙がようやくお目当ての本を見つけ、二人は雑誌の中身を立ち読みすることにした。
「…すご~い!プレアデスが1位に返り咲いてる!恵のレストラン1位だって!」
「本当だ……」
レストランランキングを見ると、前回8位だったレストランプレアデスが1位に返り咲いていた。
「やったじゃない、恵!読者アンケートに"以前よりデザートが美味しくなった"って書いてあるよ!」
「う…うん……」
ランキングのレビュー欄には、デザートを誉める回答が多く掲載されていた。
「恵が返り咲かせたのよ!すごいじゃない!」
「…まさかデザートが誉められてるとは……」
「良かったね恵!あんな馬鹿なオーナーがいるレストランなんてクビになって正解よ!」
「うん、そうだね…」
恵は照れ笑いしながら、その雑誌を三冊レジへと持って行った。家に帰ってじっくり読む用、保存用、そして来週のお墓参りに同行する父へのプレゼント用に…。
「ね?人生ってダメだと思ってても、良い方に転がるもんでしょ?」
「転がるもんだね」
「キッカケを作ったオカマの子に感謝してちょうだい?」
「オカマの子ばんじゃーい!」
「ばんじゃーい!」
「きゃー!ぎゃははは、ぎゃっぎゃっ、きゃー!」
恵は買った雑誌が入っている茶袋を脇に挟みながら、和沙と歓喜の声を挙げ昼の新宿をハイテンションで散策した。
そして、馬鹿オーナーがいたレストランでは事件が起こっていた。
「……なんだ?…この丸焦げのスフレは…?」
「え~ん…あきにゃん温度間違えちゃったのかなぁ?ふわふわ~じゃないけどぉ、食べたら美味しいから大丈夫だよぉ?」
「…こんなものを本気で出すつもりか?」
「なんで怒ってるのぉ?あきにゃん全然悪くないのにぃ~!」
「悪くない?大体、昨日出してたケーキはなんだっ?客からクレームが入ってたぞっ?」
「ひど~い!なんでそんな事いうのおぉ~?優しくない人、あきにゃん嫌い!」
「ふざけるな!」
「きゃああっ!あきにゃん辞める!怖い人嫌い!」
「おい!ちょっと待て!……嘘だろ…」
恵を懲戒解雇にしたオーナーの愛人は、技術力が低く、恵の後任になってから大失敗の連続。嫌気のさしたオーナーが激怒した途端、愛人はレストランから出て行き、責任を問われたオーナーはレストランから追放されることが決まった。このニュースは恵達の耳にも当然入ることとなり、信頼面も精神面も、恵は安定期に入ることとなった。