第7話『初出勤』
「いいか?初日でも容赦しないからな。腕がなければ即クビにするぞ」
「…分かってます」
家での準備を整えてレストランに戻った瞬間、克哉にキツイ忠告をされ厨房に入った恵。
(何よ…あの言い方はないんじゃないの?…こうなったら、う~んと美味しいお菓子作って見返してやるんだから!)
悔しさがバネとなり、初出勤ながら順調にデザートの仕込みを行っていく恵。最新の設備は、パティシエの労働量を最小限に抑え、多くの注文にも対応できるよう配慮されている。
「イチゴタルトを2つ追加!」
「はい」
「あとミルククレープも1つ!」
「はい」
「バナナシフォンケーキ1つお願いします」
「はい」
開店の時刻となり、何人ものフロアスタッフが次々と恵に注文を伝える。
設備は素晴らしいと言えども、初めて見るレシピ通りのデザートをこのハイペースで作るだけでも一苦労だ。
「あ~!忙しい、忙しい…」
てんやわんやしている内に時が経ち、夜が更けていた。
「御影さん~!オーダー以上で終了で~す」
「はい」
フロアスタッフから営業終了の合図。初出勤が無事に終わり、閉店後の厨房で恵はグッタリと調理台の上に身体を傾けていた。
(ふぅ~、なんとか働けた…。さすが人気店ね、回転が速い。こっちも作りがいがあるってものだわ…。でもどうして、こんな中途半端な時期に私を雇ってくれたのかしら?前に働いてたパティシエはどうしたのかしら?……う~ん)
恵が頭の中で色々と考えていると、カツカツと革靴の音が厨房に向かって迫ってきた。
「…お疲れ」
「……お疲れ様です」
克哉が初めて挨拶らしい挨拶をして来た。
「どうだ?働いた初日の感想は…。怠けた生活をしていた身には酷じゃなかったか?」
相変わらず嫌味を織り交ぜてくることに変わりはなかったが。
「そうですね、材料も良いモノばかりで、これなら誰でも美味しいお菓子作れますよ。とっても一般庶民が毎週来れるようなレストランじゃないですね、ええ」
「そうか…。設備は実際使ってみてどうだ?」
「器具も揃ってるし、働きやすい環境だと思います、ええ。25歳の寂しいオヤジ女には大変助かりますよ、ええ」
「………」
何処かトゲのある恵の言い回しに、克哉は眉を寄せ苦い顔をしたまま無言になってしまった。
「…では、勤務時間も過ぎたので、これで失礼させて頂きます。厨房の電気消しといてくださいね」
恵が厨房から去ろうとした瞬間、克哉が声を上げた。
「おい!」
一瞬"ビクッ"となったが、ここで負けては男に舐められると、平然を装ったまま恵は克哉の方を向いた。
「なんですか?」
「…俺の事を嫌うのは構わないが、今後私情だけは挟むなよ。俺の命令には必ず従う事…」
「私情なんか挟んでません。ただ思った事を言ってるだけです。命令にも忠実に従いますわ」
「…従ってくれるなら、それで結構…」
「私も一つ聞かせてください」
「…なんだ?」
腹の中のモヤモヤした感情を軽くお互いにぶつけた所で、恵はずっと気になっていたことを質問した。
「このレストランとあのバー、どういう関係があるんですか?」
「…プレアデスとオリオンは、俺が経営してる…」
「じゃあ、アナタはこのレストランのオーナー?」
「ああ」
オーナーという存在に恵は懲戒解雇された。恵の中でのオーナーイメージ像は最悪のまま止まっている。
これだけ二枚目で店を二つも経営していれば、女がホイホイ寄って来て、その影響でまた不当解雇されるのではないかと薄々感じていた。
「…なんだ、その顔は…」
明らかに嫌な顔をしてる恵に対し、克哉が不満そうな口調で問いかけた。
「…いいえ。ただ、オーナーというものにトラウマがあるので…」
「…トラウマ?」
「…It's a Sweet World…」
「あ?」
「いえ、何でもありません…」
「……おかしいのは顔だけにしとけよ」
事情を知らなければ絶対に分からない恵の発言に、克哉は謎めいた顔をしたまま厨房から去ってしまった。
(………顔はおかしいってこと?)
克哉の最後の発言に、恵は時間差で怒りを感じ始めた。
(私の前に働いてたパティシエは、きっとオーナーに嫌気が差して辞めたのね。はぁ~、あの男の発言でまた私がぶち切れて懲戒解雇されませんように…)
「御影くん…」
恵が厨房の明かりを消して帰ろうとした所に、進次郎が後ろから"ポンポン"と肩を叩いて来た。
「お疲れ様」
振り返ると満面の笑みで恵を見ている。
「ああ!お疲れ様です!し…進次郎さん…。苗字なんでしたっけ?」
「永瀬だ」
「あっ…、永瀬さん…、お疲れ様です…」
「ちなみにオーナーは慶徳克哉って名前だよ、覚えておいてくれな」
「そうなんですか…。私、あの人がオーナーって事も、さっき初めて知ったんで…」
「ハハハ…。今日来てそのまま厨房に入ったんだもんな…、無理もない。俺はこのレストランの支配人をしてるから"支配人"でいいよ」
「支配人ですか…よろしくお願いします!」
克哉とは大違いの対応に、恵はしみじみ"世の中にはいろんな種類の人間がいるな"と感じていた。
「さすが、パリに留学していただけあるな…。入った当日にマニュアル通り作れるなんて…」
「いえ…、そんな……。ん…?」
進次郎に誉めてもらったのはいいが、一つ腑に落ちないことがあった。
「…どうして、支配人が留学の事知ってるんですか?」
「ああ、君の友達が言ってたんだよ…」
「…和沙ったら、また余計な事言って…」
「ハハハ…。友達が言わなくても、君の履歴くらいもう入手済みだよ…」
「…えっ?」
ガビーンと顔面が真っ青になっていく恵。
「…前に働いてたレストランで、何があったんだ?…懲戒解雇されているけど……」
オーナーを殴って血祭りにした事実は知られていないらしいが、普通に働いていれば滅多に食らわない懲戒解雇をされたという事実がバレてしまった。
「…えっ、…え~と……」
「まぁ、ウチは実力重視の店だから、話したくないなら無理して話さなくてもいいよ」
「……すみません」
ホッと胸を撫で下ろした恵。どうやら懲戒解雇の事実が知られても、即クビにはならないようだ。
「…克哉とは知り合いだったの?」
「えっ?」
「いや、君が初めてプレアデスに来た時…、克哉の事知ってたみたいだったから…」
懲戒解雇された当日に酔っ払って大暴れして寝てしまった店のオーナーだったから…とは言えない。
「知り合いっていうか……、その……」
「ハハハ…。本当に謎が多いな君は……。じゃあ正式な契約書を渡すから、サインして明日履歴書と一緒に持って来てくれな」
「…分かりました!」
「…ウチに来てくれて、ありがとう…。明日も頑張ろうな!」
紳士を絵に描いたかのような爽やか進次郎は、笑顔で厨房を去って行った。
色々質問され言葉に詰まったが、なんとか切り抜けられたと安堵の表情で、恵もレストランを後にした。
家に帰ってシャワーを浴び、ベッドに横になっていると和沙から電話があった。時間は深夜2時。レストランが午前0時に終わる恵と、風営法で1時に仕事が終わる和沙には一番のリラックスタイムだ。
「初出勤どうだった~ん?」
電話に出ると、興味津々声で和沙が問いかけてきた。
「まぁ…、仕事の内容は満足よ。設備も凄いし…、材料も良いモノ使ってて作りやすいわ」
「今度のレストランも一人でやってるの?」
「うん、メニューが少ないから。生地、オーブン、仕上げ、グラシエ…。全部一人でやってるよ」
「…ふ~ん」
トラブルがなかったことに若干不満そうな和沙に、恵が切り出した。
「そう言えば和沙!レストランの人達に余計な事言ったでしょ?留学してた事とか…」
「え?あ…、ああ~、言ったわよ…。でもいいじゃない!留学経験は素晴らしい経歴よ!就職に有利なステータスなんだから!」
「他に何か言ってない?」
「い…言ってないわよ、アンタが旅行先でウンコ漏らした話とかしてないわよ」
「ちょっとぉおおおーーーー!」
和沙への説教が始まり、午前三時…午前四時…と、夜がどんどん更けて行った。