第1話『さらばクレモンティーヌ』
コン、コン。
事務室の扉を叩く音が、廊下に小さく響き渡った。
「どうぞ」の声を聞き、恵は扉を開けた。
「…失礼します」
中へ入ると、オーナーが革の椅子に座り、手に持った書類をパラパラと捲っている。
事務室は、まるでハウスキーパーが片付けたかのように整理されていて、左手には本棚、右手には応接間へと続く扉が見える。
これから何を言われるかも分からない初めてのシチュエーションに、恵は不安を募らせていた。
「ああ、御影くん。待ってたよ」
書類を一旦机の上に置き、オーナーが立ち上がった。
ツカツカと革靴の音を立てながら、扉近くにいる恵の方に歩み寄ってきた。
「あの……、私に何かご用でしょうか?」
「……う~ん、それなんだがねぇ……」
オーナーの顔が突然曇りだし、毛の量が薄い頭を掻きながら、目線を恵から逸らしてしまった。
「……少し言い辛いんだがねぇ~。君……ここで働いて何年になる?」
「……もうすぐ二年になります」
「そうなんだよねぇ~、二年も経つんだよねぇ~。月日が経つのは早い……」
奥歯に物が挟まったようなモノの言い方を始めたオーナーに、恵の不安は頂点に達した。
一体なぜ自分を呼び出したのか早く知りたくて、話を自ら戻した。
「あの、ご用件は?」
「来月で辞めて貰えないか?」
「……えっ?」
話を戻した瞬間、恵は脳ミソにストレートパンチを喰らってしまった。
頭の中が真っ白になり、現実を受け止められない恵に、オーナーは追い討ちをかけるように解雇の理由を語り始めた。
「お客さんの評判が、最近良くないんだよねぇ~君ぃ~。……デザートが不味くなったって」
「不味くなった?」
「ああ。……腕が落ちたんじゃないか?」
オーナーは人をバカにしているかのような位置まで眉毛を上げ、重度の歯槽膿漏であろう汚い歯茎を見せながら、解雇の理由を恵の力不足だと説明した。
あまりに理不尽な説明と、オーナー独特の口癖に、恵の心の中で別の感情が湧き上がっていた。
「…私はここで働かせて頂いてから、一度も材料を変えたり、作り方を変えたりしていませんが?不味くなった、腕が落ちた、という理由は納得できません」
「とーにかくねぇ!君はクビなんだよクビ。来月で退職してもらうよ!」
恵が若干強気に口答えした瞬間、オーナーが遮るように恵を捲くし立てた。
「……そんな、急に言われても…」
もう何を言っても無駄なのだと、恵が絶望の崖っぷちに立たされた所で、オーナーがトドメの一発を喰らわせて来た。
「家は伝統あるホテルに隣接している由緒あるレストランなんだ。……落ち目のパティシエはいらない」
「落ち目……ですって?」
崖っぷちから海へと蹴り飛ばされた恵はショックを受け放心状態となり、返す言葉が何も出てこなかった。
「話は以上だ。……じゃあ来月までよろしく頼むよ」
「……はい」
恵は土左衛門になって海に浮かんでいた。
事務室から出て、廊下をフラフラと歩き始めた恵の頭の中は、海霧のようにモヤモヤとしている。
「……」
霧が晴れると、オーナーの憎らしい顔と口癖、そして何より「落ち目のパティシエ」という言葉がリピート再生で脳内を流れる。
百回以上リピートされた所で、恵の脳内はオーナーへの憎しみで満ち溢れた。
「私がクビってどういう事?嘘でしょう?二年も働いて来たのよ。一生懸命頑張って働いたのに……。パリに留学までして、やっとパティシエになったのに……。こんな形で職を失うの?」
憎しみの波が、土左衛門になった恵を陸まで押し上げ、崖を這い上がらせていた。
「……やっぱり納得できない」
更衣室へと向いていた足を、事務室に方向転換して歩き始めた。
愛らしい容姿からは想像できないほど、昔から気の強かった恵は、不服と感じた判決には異議を申し立てるタイプだ。
恵が再び事務室の前へと戻り、扉を叩こうとした瞬間、事務室の中から聞き覚えのない頭の悪そうな女の声が聞こえてきた。
「……ん?」
事務室の扉が少し開いていた。
さっきは放心状態で事務室を出てしまったので、キチンと扉を閉めていなかったのだろう。
扉の隙間から中の様子を見てみようと、恵はそっと覗きを始めた。
「ねぇん~あのダサい女、本当に辞めてくれるかなぁ~?」
アニマル柄のカットドレスを着た巻き毛のキャバ嬢風な女が、オーナーの腕を掴みながら猫なで声で甘えている。
あんな見知らぬ女は、さっき事務室には居なかったはず……恐らく応接間に潜んでいたのだろう。
「だーいじょうぶぅ!解雇通知したんだ、嫌でも辞めさせるさ」
オーナーはキャバ嬢の金髪を優しくなでなでしながら、元から気持ちの悪い笑顔を更に気持ち悪くさせて、恵の大嫌いな口癖を垂れ流していた。
「あきにゃんね~、有名にゃホテルレストランで、あきにゃんのオリジナルお菓子をいぃっぱい作るのが夢だったのぉ~」
「そうか、アッハハ。あきにゃんは本当に女の子みたいな夢を持っていたんだな」
「うん!あきにゃんオンニャの子だもん。あ~ん、来月まで待てないよぉ~」
「一ヶ月なんてあっと言う間だよ。それまで一緒に、あきにゃんが作る日替わりデザートを考えような」
「あぁ~ん、嬉し~い!あきにゃんと一緒に新しいお菓子考えてぇえ~!」
事務室がなぜ整理整頓されているのか、自分はなぜ解雇されたのか、扉の隙間から恵はすべてを知ってしまった。
「僕たちみたいに、あま~くてトロけちゃいそうなお菓子にしようね」
「わぁおう! It's a Sweet World!」
プルプル怒りに震える両手を抑えることはできなかった。
恵は「バーン!」と音を立てて扉をぶち開けた。
「……おい!」
恵が事務室に入ると、二人の表情は凍りついた。
キャバ嬢は両手で口を押さえながら目を真ん丸くしていて、オーナーは真っ青な顔をして固まっている。
「…そういうこと~」
恵がホラー映画の幽霊にも負けないほどの、恐ろしいゆったりした口調で二人に歩み寄る。
「いや、あの……、これは……」
「あきにゃんコワーイ!」
動揺しているオーナーを思い切り睨みつけながら、まっすぐ二人へと向かっていく恵の語尾が段々と強まっていく。
「…客の評判が悪くなったですって?…デザートが不味くなったですって?デタラメ言いやがってこのウスラダヌキ!」
恵が暴言を吐いた瞬間、オーナーは顔を真っ青から真っ赤にお色直しして恵を指差した。
「きっ、君っ!誰に向かってそんな口を叩いているんだ!ん?ええ?」
「うっさいわよ!ウスラダヌキに言ってんのよ!……私を本気で怒らせたらどうなるか……」
恵の右手は既に準備万端だった。
この怒りは殴らないと収まらない、自分の性格は自分が一番良く分かっていた。
パァーン!!
「きゃあああああぁぁぁぁぁっっっ!」
強烈な衝撃音と、自分のことを「あきにゃん」というキャバ嬢の耳鳴りがするほど高い悲鳴がハーモニーを奏でた瞬間、顔面ビンタを喰らったオーナーは、目を真っ白にして床に倒れ込んだ。
しばらくすると、オーナーの鼻の穴から血がポタポタと垂れ始め、靴の擦り跡もない床を汚していた。