第17話『ぬくもり』
ピンポーン。
恵は克哉の住んでいるマンションに着き、最上階20階にある、克哉の部屋のチャイムを鳴らした。
ドン…、ドドン…。
中で物音がしている。しばらくすると、ドアが"ガチャ"と開き、ジャージ姿の克哉が顔を覗かせた。
「なんだ…お前…。…なんの用だよ?」
「…これ」
「んん?」
恵は、厨房にあった卵と日本酒で作った特製卵酒が入ったポットを克哉に手渡した。
「なんだお前、俺を看病でもしたいのか?」
克哉は薄っすらと笑みを浮かべて、ポットを受け取ると、半分しか開けていなかったドアを全部開けてくれた。
「…入れよ」
予想外の言葉に、恵は若干戸惑いながら"…お邪魔します"と中へと入った。
ワンルームながらも広くてシンプルな克哉の部屋には、余計な物が一切なく、テレビとミニテーブルと座椅子、そして真っ白なベッド以外部屋には見当たらなかった。
でも、なんとなく安心する克哉の匂いがいっぱいで、恵はドキドキしながら座椅子に座った。
「なんか飲むか?」
「…は、はい……あっ…でも…」
克哉はこれまたシンプルなシステムキッチンに立ち、お揃いのマグカップを棚から出して、大きな冷蔵庫からウーロン茶を取り出してカップに注いだ。
なんとなく、体調が悪い克哉を立たせて、飲み物を入れさせている感じにどうしていいのか分からず、うろたえてしまった。
「ほらよ…」
「…あっ、ありがとうございます…」
恵はマグカップを持ち、ウーロン茶をゴクゴクと飲み始めた。そして半分くらい飲んだ所でカップをテーブルに置き、正座をして克哉の方を向いた。
「オーナー…、私…、本当に迷惑かけてしまって…すみませんでした!ごめんなさい!」
克哉はキョトンとした顔をしている。
「あの…体調、大丈夫ですか?私のせいで…本当にごめんなさい…」
「ん?ああ…平気さ。途中で帰って、ちょっと寝たら楽になったから…」
恵は今にも泣き出しそうな顔で、克哉を見ている。さっきより元気そうで少し安心したが、やはり罪悪感は拭えない。
「…お前、本当に変な女だな」
「え?」
今度は恵がキョトンとした顔をした。
「酔って暴れたり、憎まれ口叩いたりする癖に、急にしおらしくなったりすんのはなんなんだ?二重人格か?」
克哉の指摘に、恵はしどろもどろしながら、下を向いた。
「だって…。私…」
進次郎に克哉の自宅を聞きだした時は、あんなに克哉のことを想っていたのに、克哉の前に居るといつも素直になれない。
心のすべてを、言葉にして克哉に伝えられたらいいのに…。恵はそう思っていた。
「このポット、何が入ってるんだよ?」
「…卵酒です」
「ふぅ~ん…。じゃあ飲んでやるか」
克哉はポットを開け、蓋のカップに卵酒を注いで飲み始めた。
「……うめぇじゃん」
「…本当ですか?」
「飲みやすいな」
「はい。厨房に卵酒に合う砂糖があったのでそれを使ったのと、少しバニラエッセンスとラム酒を加えてデザートっぽくしました。あと卵白も入れてるんです。リゾチュームという殺菌成分が卵白には入っているので、市販の風邪薬以上の効能があるんですよ」
克哉は"ハハッ"と小さな笑いをして、若干呆れた顔をしながら恵を見ている。
「お前…、本当に仕事のセンスだけは完璧だよな…」
そう言うと克哉は突然立ち上がり、ベッドの中へと潜り込んでしまった。
恵は"何をしているんだ?"という顔をして、克哉の行動をじっと見つめていた。
「おい、冷凍庫から氷のう取って来いよ」
克哉の謎の行動に、恵は"はい"と不思議な顔で立ち上がり、冷凍庫から氷のうを取り出した。
「…取って来ましたけど…?」
「…俺のおでこに乗せてくれよ」
恵は言われるがまま、克哉のおでこに氷のうを押し当てた。
克哉は目を閉じ、気持ちよさそうな顔をしている。
「ああ~、看病されてるな。…手で持ってないとズリ落ちて来るから楽だ」
克哉はそう言い、目を瞑ったまま無言を貫いている。
数分後、氷のうを持っている恵の右手が、あまりの冷たさに痛くなってきた。
「あ…あの…。冷たすぎて辛いんですけど…」
「…俺も寒すぎて辛かったぞ。誰かさんのせいでな…」
克哉は恵の泥酔事件を持ち出して来た。相変わらずの克哉に恵は"スクッ"と立ち上がり、氷のうをテーブルに置いた。
「はいはい私が悪かったわよ。それだけ元気があるなら明日は大丈夫そうですね、私もう帰りますから…」
「…なんだ、もう帰るのか?しおらしいのは一瞬だけだな…」
恵はマグカップに入っていた残りのウーロン茶を飲み干し、克哉のマンションを後にした。
最後は克哉に憎まれ口を叩かれたが、恵は嬉しかった。
訪問して、克哉に"帰れ"と言われたらどうしよう…とか、チャイムを鳴らして女の人が出てきたら…とか、色々な最悪の事態を想像をして、それぞれの対策法を考えていた中で、予想外にもすんなりと自分を受け入れてくれた。
恵のモヤモヤした気持ちを汲み取ってくれたのだろう。克哉なりの優しさと気遣いに、恵は満たされていた。
次の日、克哉は営業中からの出勤となった。
恵は懺悔するかのように、いつも以上に張り切って仕込みをし、レストランの開店後もせっせと働いた。
「…おす」
閉店後の厨房に、克哉が現れた。
いつもと変わらない無愛想な挨拶と顔。いつもと同じパターン。いつもと一緒。
でも今の恵には、それが何より嬉しいプレゼントだった。
「…体調はどうですか?」
「お前がグダグダ説明してた卵酒のせいか、ダルさも残ってねぇな。もう少し休みたかったけどな…」
克哉は背伸びをするポーズをして、恵の前で愚痴をこぼした。
「フフフ…」
仕事も充実していて、優しいスタッフに囲まれ、最高の友達もいる…。
そして…、誰よりも克哉という存在が、恵の中で一番になりつつあることを、気付き始めていた。
そんな克哉に少し近づけた気がして、恵は心から笑顔になれた。
ブルル…ブルル…。
そんな中、恵の携帯が突然震え始めた。
こんな時間に連絡をよこすのは和沙くらいだろうと恵は一瞬思ったが、何かがおかしい。
「…あれ?…知らない番号」
いつものリラックスタイムより若干早い…、和沙からの着信ではないようだ。
なんとなく嫌な胸騒ぎがした恵は、そのまま電話に出た。
「…もしもし?……はい、御影英樹は私の父ですが…」
恵はその後、言葉を失ってしまった。
克哉は表情を変え、恵をじっと見つめている。
「………いつですか?……はい……はい……わかりました、すぐに向かいます」
恵は涙を浮かべ、声を震わせながら必死で応対していた。
事情を察した克哉は、電話を切った恵に寄り添うような格好で両手を宙に浮かせた。
「…大丈夫か?…一緒に行くか?」
「大丈夫です……、ありがとうございます……」
電話は、父が亡くなったという病院からの知らせだった。
恵は目をゴシゴシと擦りながら厨房を後にし、更衣室で着替えをしてから、駆け足で地上へと降りた。
すぐにタクシーを捕まえ、連絡をくれた病院へと向かった。
タクシーの中で、パニック状態になっていた頭の中を冷静に整理していた。
何故突然こんなことに…。一体父に何があったのか…。タクシーの中から見える夜の街並みを、恵はただ呆然と眺めていた。