第15話『波乱の渦』
恵は二度寝をして元気に出勤していた。
(そろそろバニラエッセンスの在庫がなくなるわ…。う~ん、目がボヤけてラベルの文字が見え難い…。私も歳かしら?)
「ちょっとアンタ!」
恵が仕込み前の在庫チェックをしていると、厨房に見知らぬ女が現れた。
「……はい?………私?」
「アンタしかいないでしょ?」
女はするどい眼光で恵のことを睨みつけている。
「……どなたですか?」
「いいからどいて!」
「ちょっ…、ちょっと!」
女は"ドンッ!"と恵を押しのけ、勝手に調理器具のチェックを始めた。
「やだ~、このボウルは大きくて使い難いのに…。前あったヤツはどこにしまったの?」
「あの……」
「まぁいいわ、自分で探すから…。アンタ、もう明日から出なくていいからね」
「…はぁ?」
恵が呆れ顔で女の行動を見ていると、女は振り向き、恵にドヤ顔で言い放った。
「私が復職したの、だから諦めて……」
「そんな…」
「そんな?アンタ何様のつもり?私はここで10年も働いたのよ?アンタは半年でしょ?キャリアが違うの…」
"ここで働いていた…"その台詞に、恵は確信した。
「…あなた、前に働いてた梨香さんですか?…オーナーが復職しろって言ったんですか?」
「アハハ。10年働いたベテランの私と、半年のアンタ。どっちを取るかなんて慶徳オーナーに聞く前に分かる事じゃない?プレアデスのデザート基盤を作ったのは私よ?アンタは私が休んでいる間の代理だっただけ、分かった?私は退職届も出してないし、解雇通知もされてない…。アンタはもうお呼びじゃないのよ。しっしっ!」
突然の出来事に恵が戸惑っていると…。
「おい!」
厨房に克哉が現れた。とても怖い顔をして…。
「あっ、慶徳オーナー!お久しぶりです!」
「……何してる?」
梨香が克哉に擦り寄って行っても、克哉は表情一つ変えずに、梨香を睨んでいる。
「やだ、復職したんですよ?ずっと休んでて、ごめんなさい…」
「お前はもうウチの人間じゃないだろ?」
「…何言ってるのよ」
それまで自信タップリだった梨香の顔が、曇り始めた。
「出てけ」
「…ふざけないで、訴えるわよ?私は退職届も…」
「お前の場合、無断欠勤が一定期間続いた。…労働者とまったく連絡が取れない場合、懲戒解雇だ…」
「無断欠勤は私のせいじゃない!事情があったの…。お金をもっと稼がなくちゃいけなかったの…」
「…ホストに貢いでるんだろ?」
「貢いでない!愛のためだったのよ…。安い給料じゃ足りなかったの!それでも我慢して戻って来てあげるって言ってるんじゃない!」
梨香は騒ぎ、頭を掻き毟りながらイライラを克哉にぶちまけていた。
「…結構だ」
「ふっ、こんな見習い女を雇って、キャリア10年の私を捨てる気?」
「キャリアは関係ない…、実力だ」
「はぁ?…私に実力がないとでも?」
「ホストに狂ったお前には、もう実力も価値もない…」
「なんですって?不当解雇よ!解雇通知書を貰ってない!裁判起こすわよ!」
「…簡易裁判所に公示送達の申し立てをしてある…。訴えたければ、どうぞご勝手に…」
「ううっ!」
梨香は言いくるめられ、グゥの音も出なくなっていた。
「それから店の鍵を返せ。またレジの金を取られたら、困るんでな…」
「レ…、レジ?…何の事?私は知らないわ…。証拠でもあるの?」
梨香がプレアデスから消えた日、レジの金が何者かによって持ち出されていた。
パティシエには開店前に仕込みをさせるため、店の鍵を持たせている。
「…監視カメラのデータには、バックアップ機能がついててな…」
「……!!」
進次郎が消されていたと言っていた映像データは、バックアップとして残されていた。
監視カメラには、梨香がレジから大金を持ち逃げする所がハッキリと映っていたのだ。
「この店で10年働いたんだ…。退職金代わりだと俺は思ってる…」
「…くっ!」
「警察に言うつもりはない…。だから鍵を返せ…」
追い込まれ、窮地に立たされた梨香は、無言で店の鍵をバッグから取り出し、克哉に渡した。
「10年間、お疲れ様…」
梨香は厨房から去った。克哉と恵を鬼の形相で睨みつけながら。
恵は克哉に駆け寄り、突然の出来事を頭の中で整理しようとした。
「……オーナー。いったい、今の出来事は…?」
克哉は真実を恵に語った。
梨香は真面目なパティシエだったが、仕事一筋過ぎて私生活が充実していなかった。
ある日、フラリと入った歌舞伎町のホストクラブにハマリ、そこで優しく接客をされ、自分が知らない世界を見てしまった梨香は、一人のホストに貢ぐ生活が始まり、金欠状態になった。
そしてレストランの金を横領し、証拠を隠滅して逃げてしまった。そこへ恵がやって来て、穴の開いたパティシエ枠の後任となったのだ。
「…俺も、アイツの精神的な部分に気付いてやれれば、良かったんだがな…」
克哉は恵にすべてを語った後、残念そうな顔をしてそう呟いた。
騒動の後、恵は仕込みを再開し、レストランも無事に開店した。
仕事を終えて恵は帰宅し、リラックスタイムで和沙と電話をしていた。
「へぇ~、歓迎会があるの…。オリオンでやるなら、私も入れるわよね?」
「えっ?…和沙はレストランの人間じゃないでしょ~?」
「あら…、私を部外者扱いするつもり?私のおかげで就職できたって言うのに…」
「はいはい、分かった分かった。…おいで」
遅れながらも、恵の歓迎会をバーオリオンで開いてくれるというニュースを進次郎から聞かされた恵は、その話をウッカリ和沙にしてしまった。当然"行く"と騒いだ和沙。
「うっふふ~。歓迎会にはオーナーとか支配人さん来るのかな?」
「…多分、来ると思うけど…」
「あの二人は格好良いよね~。中身は全然どんな男か知らないけど、とにかく顔だけはいいのよ。しゃぶりたい!本気で狙っちゃおうかな~!」
「はいはい…。明日早いから、もう切るわよ…」
「えっ、ちょっと!」
プツン。
和沙のお得意技"テンションが上がりすぎて周りが見えなくなる"が発動したので、恵はとっとと電話を切って就寝した。
数日後、電話で話した歓迎会がレストランの営業後に、バーオリオンで行われた。もちろん和沙もド派手なドレスを着て参加していた。
「それではこれより、レストランプレアデス新パティシエ、御影恵くんの歓迎会をとり行ないます」
進次郎が歓迎会の挨拶を、バーに設置されているカラオケ用の小さなミニステージに立ちながら始めた。
「まずはじめに、慶徳オーナーより一言ご挨拶をいただきます…。では、慶徳オーナー」
「なんだよ、面倒くせぇな」
克哉は嫌そうな顔をしながら、進次郎からマイクを渡され、ステージに立った。
「え~、あ~。新パティシエとして御影恵さんを迎えることができ、本当に嬉しく思います。ん~、レストランプレアデスは10周年を迎えました。20年、30年と歴史を積み重ねていくためには、常に優れた技術とセンスが必要です…。え~、御影さんが考案した新デザートは好評です。新しい発想と若い感性を持っています…。あ~、私たちも頑張りますので、一緒にレストランプレアデスで頑張って行きましょう。……こんなんでいいか?」
「では、新パティシエの御影恵さん…」
進次郎が恵を指差し、克哉からマイクを渡された恵は、従業員達の拍手を浴びながらステージに立った。
「え~、本日は私のためにこのような会を開いていただき、本当にありがとうございます…。私はホテルのレストランで働いていたのですが、突然クビになってしまい…」
「男をぶん殴ったからよ~!」
和沙のデカイ一言に、会場は爆笑に包まれた。
「…ゴホン。…レストランプレアデスさんに雇って頂き、大変感謝しています…。慣れない仕事でご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、やる気だけは人一倍あります。どうか皆さん、これからもよろしくお願いします」
オーナーも支配人も従業員達も、みんな笑顔で恵を見つめながら、惜しみない拍手を送っていた。
「それでは御影恵さんのご活躍をお祈りし、ここにお集りの皆さんのご多幸とプレアデスの発展を祈念いたしまして…、乾杯!」
「かんぱぁ~い!」
進次郎が仕切った乾杯の挨拶が終わり、歓迎会もフリータイムへと突入した。約20人の従業員とオーナー、支配人、バーのスタッフ、そして部外者の和沙まで居ればオリオンは満卓状態。
「や~だもう。お店の女の子に真弓って子がいるんだけど、この間お客さんと喧嘩しちゃって大変だったのよ~」
「ああ、それで途中でお帰りになられたんですか」
和沙はターゲット通り、ボックス席のフカフカなソファに座っている進次郎の隣をキープし、肌を密着させながら飲んでいた。
(私の歓迎会に男漁りに来るってどんな親友よ)
恵はそんなことを思いつつ、自分の歓迎会ということに若干浮かれながら五杯目の"星空のカクテル"をカウンター席で飲んでいた。
「お前酒癖悪いんだからゆっくり飲めよ」
克哉が隣に座ってきた。
「大騒ぎした挙句、股開いてカウンターで寝る女なんだからな…」
嫌味な顔をして、若干酔いがまわっている克哉は、恵の顔を隣から覗いて来た。
「知りません」
「…な~に今更トボけてんだよ」」
「何よ!うるさいわね!オーナーだって今ちょっと酔ってるじゃない!口調がいつもと違って変!ついでに鼻も少し赤くなっててトナカイみたいよ。トナカイさぁ~ん」
「…お前、本当に気が強い女だな…。そんなんじゃ誰にも守ってもらえねーぞ?…顔だって大したことないんだからな」
「なんですって?オーナーだって大したことない男じゃない!守ってくれなくて結構よ!私は万が一のことがあっても自分で自分の身を守れる女ですものー!」
恵と克哉はそんな押し問答をしながら、二人で6杯…7杯…と急ピッチで酒を注入していた。まるで飲み比べのように。
「はぁ~……。やっぱりオーナーはオーナーだわ……お酒強いんですね……」
恵は朦朧とする意識の中で、克哉に白旗宣言をした。
「あ…当たり前だ…。バーのオーナーが下戸でどうすんだ…よ…」
克哉もかなり酔った状態になっていた。二人はカウンター席でグッタリしながら、歓迎会の終幕を見届けた。
「…俺が送っていくのか?」
「仕方ないじゃない。アタシはオカマだから力ないもん!」
「進次…」
「支配人さんはダメよ!アタシを家まで送ってくれる約束したんだから!死んでも渡さないわ!」
克哉は泥酔してカウンターで熟睡している恵の対処に困っていた。
和沙に任せようとしても、和沙をOKサインを一切出さなかった。進次郎と二人きりで帰りたかったからだ。
「克哉、御影くんの家まで運んで行ってやれよ」
「…アイツが住んでる家なんて知らないしなぁ…。近所まで車で送ったくらいで…」
「マングースマンションの301号室よ。4丁目のムスバーガーの前にあるでしょ?」
「……家は分かったが、どうやって運ぶんだよ」
「おんぶしてあげれば?恵はアタシより体重軽いし、タクシー呼ぶ距離でもないからいいじゃない」
「…進次郎、お前も手伝っ…」
「だから支配人さんはダメって言ってるでしょ?アタシを家まで送ってくれる約束したんだから!邪魔しないでちょーだい!」
「……はぁ~」
克哉は一人で、恵を家まで送るハメになった。
歓迎会で集まった従業員も全員帰り、バーのスタッフもいなくなったオリオンの店内で、克哉は何度も恵を擦っていた。
「おーい、起きろよ!」
「むにゃむにゃ…」
何度叩いても呼びかけても起きる気配のない恵。時だけが無駄にどんどん過ぎていく。
「……仕方ねぇか」
克哉は諦め、カウンター椅子に座っている恵を自分の背中へと移動させ、おんぶしてマンションまで送り届けることにした。