第10話『ふたりの距離』
克哉オーナーに呼ばれ、恵はフロアに向かった。
「……あの」
「来たか…」
克哉は仁王立ちで恵を待っていた。威圧感タップリで恵は内心ビクビクしていた。
「何か…ご用でしょうか?」
「…残業だ」
「は?」
「俺と一緒に来い…」
「えっ!ちょっと!急にそんな事言われても…、私にも予定ってものが……」
「…予定?お前に何の予定があるんだ?…いいから来い、残業代は出すから…」
無理矢理克哉に引っ張られ、強引にエレベーターに乗せられ地上まで降ろされ、腕を掴まれたまま克哉の黒い車に押し込められた。
「あ…あの…ちょ…ちょっと…」
恵が文句を言う暇もなく車は発進した。
呆れ果てた恵は不機嫌な顔をして助手席に座っている。急に残業と言われても何をするのかさえ知らされていない。
「私達は何処へ向かってるんですかっ?」
たまらなくなり、恵が少しイライラした口調で克哉に質問を投げかけた。
「…製菓材料を調達しに行くんだ。業務用輸入食材の卸売商社…」
「…オーナーが一人で行けばいいじゃないですか。なんで私も?」
「……お前に新しいデザートを考案して欲しい…」
「…私に?」
「ああ…」
どうやら恵に一から新デザートを開発しろと注文をしているようだ。
「そんな…。私はホテルでも、メニューに載ってるお菓子しか作りませんでした。新しいお菓子を作るなんて…。出来ないですよ…」
確かにレストランプレアデスの秋限定デザートメニューは評判だった。でもそれは元のマニュアルがあって、それにアレンジを加えただけのモノであり、最初からメニューを考案となれば話は違ってくる。
「…大丈夫さ」
「大丈夫って?」
「……お前の作ったデザートは、……評判がいい。………だから大丈夫さ」
「………」
恵は初めて克哉に誉められたような気がして、どんな顔をしていいのか分からず、下を向いてしまった。
「…ウケなくても文句言わないでくださいね」
「…ああ」
必死で照れ隠しの返しをして、二人は卸売商社へと向かった。
「わぁ~、すごい!これなんかパリにいた頃でもなかなか手に入らなかった香料ですよ…」
強力なコネがあっても、なかなか取引してくれない卸売商社だと車内で聞かされていたが、価格の安さと品揃えの良さは恵が唖然とするほど凄かった。
「必要なのを選んでくれ」
「…そう言われても。まだ新しいお菓子のイメージも出来てないですし…」
「もう少し時間が必要か?」
「…ごめんなさい。でも、どんな材料が揃っているのかは、大体把握できました」
「そうか」
「これだけ種類が豊富なら、なんでも想像したものを実現できそうです」
二人は下見だけをして卸売商社を後にし、再び車に乗った。
「ふぅわぁあ~……」
恵は克哉が運転する車内で、大きなあくびをしてしまった。
「…眠そうだな」
「眠いですよ。もう朝じゃないですか…」
「……悪い」
レストランの閉店時間は0時。恵が洗い物を終えて家に帰るのはいつも1時過ぎ。
今日は残業という名のドライブを長時間させられて、もう空が明るくなって来ていた。
「…オーナーは、これからオリオンに行くんですか?」
「…ああ」
「いつ寝てるんですか?」
「…昼間」
「何時間くらい?」
「……5時間くらいか」
「それでよく身体が持ちますね」
「…昔は2時間だったぞ。…俺も、もう歳なんだな」
恵は克哉から感じる初めての人間っぽさに、不思議な安堵感を覚えた。
いつもはロボットのような冷たい口調と態度で接してくる克哉だが、今だけはほんの少しだけ、自分に心を許してくれているような気がしたのかもしれない。
「音楽でもかけてくださいよ」
「…音楽?」
ちょっと調子に乗って、克哉に注文をしてみた恵。
克哉が流し始めた音楽は、聴き覚えのあるインストゥルメンタルだった。
「あっ…この曲…。プレアデスとオリオンで流れてる曲ですね…」
「…ああ」
「前から気になってたんですけど、この曲にタイトルってあるんですか?」
「…ああ」
「なんてタイトルなんですか?」
「………星空の記憶」
「星空の記憶………素敵なタイトルですね。…オーナーと初めて会った日、オリオンの前を通った時に、星空の記憶が聞こえて来て…」
「………」
「あの時、星空の記憶が流れていなかったら…、私はオリオンに入っていなかったから…。入ってなかったら、今レストランで働いてる私は、いないような気がして…。まだ仕事を探していたかもしれないから…」
「………」
「…星空の記憶は、私にとって…、大切な曲になりました」
「……そうか」
恵は初めて、心の思いを言葉にして克哉に伝えた。星空の記憶が流れると素直な気持ちになれる。隣にいる克哉は、何故かいつもの憎たらしい克哉とは違って、少し格好良く見えた。
考えてみれば、一番最初の出会いで恵は、克哉のことを王子様だと思い込み、和沙伝授のぶりぶりハマチ作戦で狙おうとしていたのだ。
そして今また、克哉のことを一瞬でも格好良いと思っている自分が恥ずかしくて、恵は気持ちを隠すように振舞った。
「まぁ…ホテルを懲戒解雇された日に、誰かさんにオヤジだの無職だの散々言われて、頭に来たけど…」
「お前…、あの日にクビになってたのか?」
「そうですよ?人が傷ついてる時に…、本当に腹が立ちましたよ…」
「ハハ…。すまなかった…」
気づくと、もう車は恵が住んでいるマンションの近所を走っていた。
もう少し克哉と話をしていたい…。突然溢れ出たそんな気持ちを心の隅に持ちつつ、恵は鍵をかけた。
「…あ!もうこの辺で大丈夫です…」
「了解」
自分の気持ちとは裏腹に、恵は車を止めるように指示をして、マンションよりだいぶ手前の道で車を降りた。
「新しいお菓子、家で色々考えてみます…」
「…ん」
「今日はお疲れさまでした…おやすみなさい」
「…ん」
恵は"バタン"と車のドアを閉めて、克哉を見送った。車が視界から見えなくなるまでずっと…。