プロローグ
「ふぅ~、やっと終わった…」
都内の有名ホテルに隣接するレストラン『クレモンティーヌ』の厨房で、一人の女が安堵の声を上げた。
「あ~、疲れたぁ~……。今日は団体客多くてずっと立ちっぱなしだったもんな~」
彼女の名前は御影恵、高等学校の調理科を卒業後フランスへと留学し、パリ近郊の小さなお城を改装した日本人向けのパティシエ学校に通い経験を積み、帰国後このレストランで女性パティシエとして働き始めた。
明日の日替わりデザートとして提供する、ラズベリーをたっぷり使ったワインゼリーの仕込みをようやく終えて、棒のようになった足を幾度となく片手で揉み解しながら、用の済んだ調理器具を洗い始めた。
「あぁ~、足がパンパンだわ。帰りにマッサージ行こうかな?……いやいや、お金は節約しないと。いつ何があるか分からないんだし……」
パティシエの世界はそう甘くない。
ほとんどが男性従業員という男社会の上、恵の月給はわずか14万円。ボーナスも寸志程度で、社会保障もない。
朝から買い出しと下準備が始まり、閉店後も片付けと翌日の仕込みで毎日17時間労働。休日も週に一日しかなく、25歳の女性には辛くて厳しい、試練の日々を送っていた。
「御影!」
恵が洗い物と自分の両手を使った足のマッサージを終えた所で、フロアマネージャーが厨房に顔を出した。
「マネージャー、お疲れ様です。……どうしたんですか?」
「オーナーが君を呼んでるよ」
「……オーナーが?…私を?」
恵がオーナーに呼び出しを受けたのは就職以来初めてのことだった。
「今すぐ事務室に来てくれって」
「……いったい何の用かしら?」
「さぁ、それはオーナーに聞いてみないと」
レストラン『クレモンティーヌ』のオーナーは、元々雇われシェフだったが、輝かしい技術力を買われて頂点まで登りつめた実力者。現在は経営に専念しているため、厨房に立つことはない。
そのため、従業員がオーナーと顔を合わせる機会は皆無に等く、恵には呼び出しを受ける心当たりも、オーナーとの接点も一切なかった。
「分かりました……。じゃあこのワインゼリー、冷蔵庫に入れておいてください」
「はいよ」
甘酸っぱい大人な味に仕上がったワインゼリーをフロアマネージャーに託し、恵は駆け足で事務室へと向かった。この先訪れる波乱に満ちた生活の幕開けとも知らずに……。