無実の悪役令嬢・番外編 あの事件の共犯者は、野放しにしません
『無実の悪役令嬢、処刑まで三十日で真犯人を捕まえます』(全30話・完結済み)の番外編です。
本編の第二十九話と第三十話のあいだ、事件の「後始末」のお話。
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王宮の地下牢の扉が開いた時、ジェラルド・ホーンは、眩しそうに目を細めた。
恰幅の良かった体は、ひと回り小さくなっていた。頬はこけ、髭も伸び放題だった。それでも、自分の足で階段を上がってきた彼は、門の脇に立つフィリアの姿を見つけると、その場で立ち止まった。
「――フィリア様」
「お迎えに来ました。ジェラルド様」
ジェラルドは、しばらく口を開けたまま、何も言えずにいた。
鑑定式から、十日が経っていた。ヴィオラの罪が明らかになった後も、彼の釈放の手続きは、なかなか進まなかった。一度「犯人」として拘束した者を、宰相府の誰も、自分の名前で出したがらなかったのだ。最後は、セドリックが自ら署名した。
「……私は、忘れられているのだと思っていました」
ジェラルドは、かすれた声で言った。
「真犯人が捕まったと、牢番の噂話で聞きました。それでも、誰も来なかった。このまま、私のことなど、誰も思い出さないのだろうと」
「遅くなって、申し訳ありません」
フィリアは、深く頭を下げた。
「あなたは、私の代わりに、牢に入れられていました。私が離宮で調べ物をしていられたのは、あなたが『答え』として置かれていたからです」
「頭を上げてください。あなたも、同じ目に遭われた方だ」
ジェラルドは、ゆっくりと首を振った。それから、ふと、声を落とした。
「一つだけ、伺ってもいいですか。――あの男は」
フィリアは、その問いの意味を、すぐに理解した。
帳簿を手伝わせてほしいと、ジェラルドの屋敷に入り込んだ男。痩せ型で、指が異様に長く、灰色がかった銀髪の――。
「ルカは、まだ捕まっていません」
ジェラルドの顔が、僅かに強張った。
「必ず、捕まえます。そう、お約束はできませんが――」
「いいえ」
フィリアは、自分の言葉を、途中で言い直した。
「お約束します」
◇
その夜、ラングドン邸を訪れたセドリックは、疲れた顔をしていた。
「宰相府の次官を、拘束した」
応接間の椅子に腰を下ろすなり、彼はそう切り出した。
「鑑定式の前倒しを評議会に持ち込んだのも、ジェラルドの件を急いで片付けようとした調査班を動かしたのも、お前たちの証拠に異議を申し立てたのも、同じ男だった。マルクスが洗っていた金の流れの先に、三日月商会からの支払いが見つかった」
「――お義母様から、お金を」
「ああ。本人は、ヴィオラ卿の頼みを聞いただけだ、と言い張っている」
セドリックは、苦いものを飲み込むような顔をした。
「宰相府には、ヴィオラ卿と親しかった官僚が他にもいる。全員を裁けば、王宮が止まる。だから、その多くは、表向きは静かに役目を退いてもらうことになる。――だが、次官だけは、別だ。金を受け取り、一人の商人を身代わりに仕立てようとした。爵位も官職も取り上げて、裁きの場に立たせる」
「ありがとうございます、殿下」
「礼を言われることではない。本来なら、もっと早く、私が気づくべきだった」
セドリックは、それから、僅かに声を落とした。
「――ルカの行方は、まだ掴めていない。近衛が総出で追っている。カインも、離宮の任が明けた翌日から、その捜索に回っている」
フィリアは、小さく息を呑んだ。ここ数日、カインが顔を見せなかった理由が、ようやく分かった。
「それと、もう一つ。三日後に、王家の役人が、この屋敷のヴィオラ卿の私室を検める。封印はしてあるが、中の品は、まだ誰も調べていない」
セドリックが帰った後、フィリアは、一人で考え込んだ。
(ルカは、なぜ、まだこの国にいるの)
本当に逃げるつもりなら、国境を越えれば済む話だ。それなのに、近衛が総出で探しても、国境の関所にそれらしい男が現れたという話は、一つもない。
フィリアは、鑑定式の後、ヴィオラが語った言葉を思い出した。
――ルカは、昔からの知り合い。私が、彼の弱みを握っていた。
(弱みを「握っていた」。つまり、何か、形のあるもの)
(お義母様が捕まった今、それは、どこにあるの)
ヴィオラは、大神殿の鑑定式の場から、そのまま連行された。この屋敷には、一度も戻っていない。私室は封印されたまま、まだ誰も中を検めていない。
もし、その「形のあるもの」が既に王家の手に渡っていれば、ルカは、とうに国を捨てているはずだ。捨てずに留まっているのは、まだ取り返せると思っているから。
答えは、同じ屋根の下にあった。
◇
「――あんたは、自分の部屋にいろ」
翌日の夕方、呼び出されてやって来たカインは、フィリアの話を最後まで聞くと、真っ先にそう言った。
「話は分かった。ルカが取り返しに来るなら、役人が検める前の、この二晩のどちらかだ。だが、待ち伏せは近衛の仕事だ」
「分かっています。囮になるつもりはありません」
フィリアは、屋敷の見取り図を、卓の上に広げた。
「ただ、どこから入ってくるかは、分かる気がします」
フィリアの指が、庭の奥の一点で止まった。
「使われていない、古い温室。アレンが閉じ込められていた場所です。あの子は、『母様のお知り合い』だという男に、ここへ連れて来られたと言っていました。この屋敷の人間でも、滅多に足を向けない場所です。そこを選べたということは、ルカは、この庭の抜け道を知っている」
カインは、見取り図を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
「温室の裏から、使用人の通路を抜ければ、東の棟に出られる。ヴィオラ卿の私室は、その二階だ」
「ええ」
「……あんたが近衛にいたら、隊長は楽をできただろうな」
フィリアは、小さく微笑んだだけだった。
カインは、見取り図を畳んで、懐にしまった。
「今夜から、温室と東の棟に人を置く。あんたは、アレンの部屋の近くにいてくれ。あいつが、また怖い思いをしないように」
フィリアは、頷いた。それは、囮よりも、ずっと大事な役目に思えた。
◇
一晩目は、何も起きなかった。
二晩目。月が雲に隠れた頃、アレンの部屋の前の廊下で椅子に座っていたフィリアは、東の棟のほうから響いた、短い物音を聞いた。
何かが倒れる音。低い声。それから、静寂。
フィリアは、燭台を手に立ち上がりかけ、それから、アレンの部屋の扉を見た。控えていた侍女に、弟のそばを離れないよう頼んでから、東の棟へ向かった。
ヴィオラの私室の扉は、開いていた。
床に、一人の男が膝をついていた。後ろ手に縛られ、その肩を、カインが押さえている。倒れた椅子の脇に、書き物机の引き出しが一つ、引き抜かれたまま転がっていた。
灰色がかった銀髪。痩せた体。左手には、汚れた布が巻かれている。
男は、燭台の灯りに顔を上げ、フィリアを見た。それから、カインを見上げて、薄く笑った。
「……レスターか。近衛の訓練以来だな」
「ルカ」
カインの声は、ひどく平らだった。
「近衛を辞めた後、何をしていたかは、もう全部知っている」
「だろうな」
ルカは、それ以上、何も弁解しなかった。
フィリアは、転がった引き出しに目をやった。中には、紐で束ねられた、古い書状の束が入っていた。封は切られていない。ルカの長い指は、あと僅かで、それに届くところだった。
「これを、取り返しに来たのですね」
「あの人は、それで私を飼っていた。あの人がいなくなった以上、私が取り返して、何が悪い」
「悪いかどうかを決めるのは、私ではありません」
フィリアは、書状の束を拾い上げると、封に手をかけることなく、カインに渡した。
「王家の役人に、封をしたまま、お渡しください」
ルカは、意外そうに、フィリアを見た。
「中を、見ないのか」
「あなたの弱みに、興味はありません。――ジェラルド様は、今日の昼、ようやく牢を出ました。私が知りたいのは、一つだけです」
ルカの長い指が、背中の縄の上で、僅かに止まった。
フィリアは、ルカの前に立った。燭台を持つ手が、僅かに震えていた。
「アレンを、温室に閉じ込めたのは、あなたですか」
ルカは、しばらく黙っていた。
「……怪我は、させていない」
「そういうことを、聞いているのではありません」
フィリアの声は、静かだった。だが、その静けさに、ルカは、初めて目を逸らした。
「――ああ。私だ」
フィリアは、それ以上、何も言わなかった。言いたいことは、山ほどあった。だが、それを口にすれば、自分が何をしてしまうか、分からなかった。
カインが、ルカを立たせた。廊下の向こうから、近衛の足音が近づいてくる。
連れ出される直前、ルカは、戸口で足を止めた。近衛に背を押されても、しばらく動かなかった。
「……あの男は、何か言っていたか」
フィリアは、一瞬、誰のことか分からなかった。それから、昼間の門の前を思い出した。
「あなたは捕まったのかと、聞かれました」
「そうか」
ルカは、それだけ言うと、もう振り返らなかった。
◇
夜明け前、東の棟の窓辺で、フィリアはカインと並んで立っていた。庭の向こうで、空が少しずつ白み始めている。
「――さっきの、最後の問い」
フィリアは、窓の外を見たまま言った。
「あの人なりに、気にしていたのでしょうか」
「さあな」
カインは、短く答えた。
「気にしていたとしても、やったことは変わらない」
「ええ。変わりません」
フィリアは、小さく息を吐いた。
「でも、これで、ジェラルド様との約束は果たせました」
「あんたが約束したのか」
「はい。昼間に、勝手に」
カインは、呆れたように眉を上げた。それから、少しだけ、口の端を緩めた。
「……勝手な約束を、守らせる羽目になった」
「ご迷惑でしたか」
「迷惑なら、最初から離宮で断ってる」
窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。
ジェラルドは家に帰り、次官とルカは、これから裁きの場に立つ。
フィリアは、白んでいく空を見つめながら、ようやく、あの三十日が本当に終わったのだと思った。
「――少し、眠れ」
カインが言った。
「あなたも」
「俺は、報告がある」
いつかの夜と同じやり取りに、フィリアは、思わず小さく笑った。
番外編「残された者たち」をお読みいただき、ありがとうございます。
感想で「共犯者はどうなったの?」「宰相府の人たちは?」というご指摘をいただきました。おっしゃる通りで、本編ではルカや宰相府の次官、そして身代わりにされたジェラルドのその後を、きちんと書けていませんでした。ご指摘、本当にありがとうございます。この番外編で、あの三十日の「後始末」をつけさせていただきました。
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