一話
普通とは何か。
気付けば頭を支配するようになった、終わりのない疑問。一般常識とか、普通に考えてとか、そういった言葉に多少の嫌悪を抱くのは私、朝倉紬が普通の枠組みに入らない人間である証なのかもしれない。
もはや毎朝のルーティンと化したこの考え事は、いつものように終わりを迎える。
「紬、おはよっ」
曲がり角から姿を現し、終わらない問答を遮るように私に声をかけるのは、親友であり、私の想い人でもある宵崎冬華だ。
「おはよう、冬華」
私達は中学から一緒で、今年高校二年生になったばかりだ。幸い、友達の少ない私と、男女問わず人気のある冬華は同じクラスであり、これがぼっち回避に成功している理由である。まぁ、別に無理して誰かと一緒にいたいというわけでもないのだけれど、彼女といられるに越したことはない。
「紬に会えて安心した、遅刻回避確定じゃん。今日寝坊したと勘違いして、起きてそのまま出てきちゃったんだよね~」
そう言って冬華は、少し茶味がかったウルフカットの髪を整えるように指で梳かす。中学の頃から先生に注意を受けていたけど、これは地毛らしい。
「私が基準なの?」
「そうでしょ、紬は真面目だもん」
会えて安心しただとか、真面目だとか、そんな私に都合のいい言葉を投げかけてくれる彼女は、私の鼓動がどれだけ早くなっているか、きっと知らないのだろう。
とりとめのない雑談をしながら、今日の体育はマラソンだと思い出した私達は、がっくりと肩を落として学校へと向かい、校門に着いた。
校庭に足を踏み入れる時点で、演劇部の主役を担い、学校中から人気のある冬華は、相手の学年関係なく黄色い挨拶を浴びている。
……正直こういう時、冬華の隣にいるのが私でいいのだろうかといつも思い悩むことは、彼女には言わないでおく。
「あ、紬の絵、飾られてる」
下駄箱で上履きに履き替え、廊下を歩いていると、冬華は足を止めた。
彼女の視線の先にあるのは、一年の終わりに私が描いた風景画だ。と言っても、写生やデッサンが不得手な私の、想像上の風景に過ぎないのだけど。
私が、こうあってほしいと願い、思い描く風景。彼女はそれに見入っている。
「冬華......、あんまり見られると恥ずかしいよ」
「なんで?私、中学の時から紬の絵、好きなんだよね」
さらりと私の心臓にダイレクトに響く言葉を真顔で言う彼女は、私の狼狽に気付きもしない。
上手とか綺麗とか、そんな批評じみた言葉よりも、あなたの絵が好きだと言われることは、何よりも嬉しい言葉であるのは絵描きにとっての共通事項だろう。
私の絵に見入る彼女を動かせない私が困っていると、救済の予鈴が鳴る。
「ほ、ほら、予鈴鳴ったよっ。そろそろ教室行かなきゃ」
「ん、そうだね。ごめんごめん、足止めちゃって」
無邪気に笑いながら軽く手を合わせる彼女を、私には責める理由がどこにもない。冬華は、ずるい。
ちなみに補足しておくと、私の絵はあくまで寂しい壁を少しでも彩るためのもので、特にコンクールで受賞したというわけではない。
朝のホームルームで必要最低限の連絡事項を伝えて、担任は職員室へと戻る。退屈な座学の授業を三限まで終えると、地獄の四限、体育のマラソンだ。美術部の私には、かなり気が重い。
座学で凝り固まった身体をほぐすとか、昼食をとった後の運動は総じてつらいということを考慮しましたと言わんばかりの時間割だが、嫌なことには変わりない。
男女で教室を分けて体操着に着替える。この時、周りの女子たちは体操着を投げ合ったりくすぐり合ったりしているが、私は邪な気持ちを覆い隠すように、あえて冬華から距離をとってさっさと着替え、彼女の更衣が完了するのを、スマホをいじって待つ。
「お待たせ、紬。何見てんの?」
「あっ、えっと、好きなバンドのSNS」
「あー、いつものね。じゃあさ、だるいマラソン中は脳内でそのバンドの音楽でも流してたら楽しいんじゃない?」
「ん、楽しいかどうかは......だけど、体感早く終わるかも」
校庭に向かいながら、私達はどうにかマラソンを乗り切るための作戦会議を繰り広げた。
地獄のマラソンが始まる。まだ春先だから、さほど暑くはないのが唯一の救いかもしれない。
私と冬華は、二人で並んで走ることはしない。あくまで各々のペースで走る。
演劇部で、筋トレや発声練習などの基礎トレーニングをしている冬華と、美術部で運動は苦手な私のペースが一致するはずもなく。
変に気を遣わずに自分の速度を貫いてくれるところも、彼女を好きな理由の一つだ。
私は冬華が言ったように、好きなバンドの曲を脳内再生することでなんとか走り切ることができた。考え事が止まらない時に、それを遮断するような疾走感のある曲の多いこのバンドには、いつもお世話になっている。
「紬、おつかれー。なんとか乗り切ったね」
「うん、ありがとう。冬華もお疲れ様」
「ね、疲れたー! 早く着替えてお弁当食べよっ」
急かすように私の肩を押し、教室へと戻る。彼女のその行動ひとつで、ただでさえ上がっている息が、今にも切れそうになるというのに。




