第1話 あたし、誰?
***が目を覚ましたのは、なにもないところだった。
真っ白で、境界線がどこにあるのかも、上も下もわからない。とても不鮮明な場所。
(………………?)
以前は暗いところにいたような気がする。それに、痛くて辛かった――ような気がする。
そこから、どうしてなにがあって、いつからこんな場所にいるのかは、わからない。
そもそも、目が覚めたような感覚は確かにあったのに、それなら今まで寝ていたのかといえば、それもはっきりしない。
ただ、色んなものの意味が、すりガラスの向こうにあるように、ぼんやりとしていた。
(…………………………)
ゆっくりと、思考が停滞していくのを感じる。
考えてもわからない。
わからないから、なにも、したくない。
***の意識は再び深く沈んでいく。
深く、深く。
ああ、これで……、全部、終わる……。
今度は、もう、目覚めることのない、ところへ――――
『あ、起きた?』
間際に、ひとつの声が響いた。
それはまさに青天の霹靂。
大きな声ではない。幼さを含んだのんびりした声だった。けれど、それは***の世界に波紋を与える一滴としては充分な威力があった。
世界の一変。
さざ波が広がるように意識は次第に鮮明なものへと切り替わる。頭の先から手足の先に感覚が芽生え、視界に映るすべてのものが輪郭を得た。
「っ!? な、なに? ――ひっ!」
突如、先ほどの声とは別の声が聞こえた。それもごく間近なところから。
慌てて周囲を見渡そうと身じろいだ途端、身体のバランスが上手く取れなくて、その場でへたりとしゃがみ込む。それで自分が今まで立っていたということを知った。
急激な変化についていけなくて、かたかたと身体が震える。
荒い息遣いが聞こえる。
なに者かが近くにいる。
得体の知れないものに呑み込まれていきそうな恐怖。
「来ないで!」
***は、精一杯の力を振り絞って叫ぶ。
それから、あれ? と気づいた。
「あーー、あ、あーーー?」
喉へ触れた指先に、振動を感じる。
「……こ、これ、あたしの声? そっか、あたしの声か……」
二番目に聞こえた声が自分のものだとわかって、身体のこわばりがほどけていった。
脱力しながら、はーっと大きく息を吐く。
それにしても、自身の声のはずなのにどうしてわからなかったのか。
「変なの」
『何が?』
「ひぇっ!?」
ひとりごとに返事があるとは思わず、反射的に声のしたほうに顔を向けると、目と鼻の先にそれはいた。
つぶらな瞳。ウサギのような長い耳。柔らかそうな白い毛で覆われているそれは、幅が広いサカナのような形をしている。
そんな見たことのない珍妙な生き物が、***の真ん前にぷかぷか浮いていた。
『うん、問題なさそうだね』
珍妙な生き物は、のんびりとした声でつぶやく。
(あ、この声、最初に聞こえてきた声だ)
どう反応していいかわからずに無言のまま珍妙な生き物の様子を眺める。珍妙な生き物は、***の様子など気にしたふうもなく、おもむろに周囲を泳ぎだした。
くるりくるりと上や下、右や左を近づいたり離れたり、自由にすいすいと宙を泳いで回る。それに合わせて***の視線も動く。
(……な、なんか、ちょっと、いや、すごくかわいい)
顔も姿も、全体的にころりと丸っこいのがゆるくていい。
時々ぴこぴこ動く長い耳が特にかわいい。身体の半分から尾びれにかけて白色から徐々に濃い朱色に変わる色味は綺麗で目を惹く。
そして、薄い布のような大きな尾びれは、泳ぐ動きに合わせて優雅に揺れるたびに、先端のほうが外側からもろもろと崩れ、それが空気中に溶けるように消えていく。
ゆらりと揺れると、もろりと崩れ消える。ゆらゆら、もろもろ。
幻想的な光景に目を奪われながら、いったいどうなっているのかと目をこらした。
端が消えていくというのに、尾びれがちいさくなっていくということはなく、だからといって新しく伸びたり広がったりしているようにも見えない。
(さわったらどうなるんだろ)
好奇心に突き動かされるまま、近づいてきた尾びれに手を伸ばしてみた。
ところが、手は空を切るばかり。手が尾びれを突き抜け見えるのに手応えがない。
「……どうして?」
引っ込めた手のひらを眺めて首をかしげていると、珍妙な生き物が***の真正面まで来て動きを止めた。
じっとこちらを見つめているつぶらな瞳がかわいくて癒やされる。
ほわほわしながら見つめ返していたら、
『キミ、今なにをしようとしたの?』
と、静かに問いかけてきた。ハッと我に返る。
「あああっ! そそそ、そうだよね!? さわってみたいからって、欲望の赴くままさわったらただの変質者だよね!? 気持ち悪かったよね!? ごめんなさいっ!」
『いや、それは別にいいんだけど』
なにも考えてなかったと土下座する勢いで謝ったら、珍妙な生き物は片耳を左右に振って、特に気にしていない様子で答える。
「えっ!? いいの!? だったら、さわらせて!」
それならば、ぜひ! と、両手を差し出してお願いしてみた。
予想外の申し出だったのか、珍妙な生き物は驚いたように一瞬目を見開く。それから、ぱちぱちとまばたきをして身体をこてりと傾けた。
『どうしてボクにさわりたいの?』
「その尾びれがどうなってるのか知りたかったの。あと、……そのふわふわしていそうな毛も撫でてみたいし、ぎゅっとしてみたいな」
『どうして?』
「かわいいから」
尾びれに関してはただの好奇心ではあるが。
『っ、ふ、ふ~ん? ボクって罪な存在だよね。ふふふん』
***の答えがよっぽど嬉しかったのか、珍妙な生き物は照れくさそうに笑う。かわいい。
『けど、まあ、もうわかってると思うけど。とても残念なことに、今のキミがボクにさわることはできないんだ』
「それって、なにか理由があるの?」
『そうだね。その説明をしなくちゃね。でも、その前に――』
珍妙な生き物は片方の耳を背に、もう片方の耳を自分の身体の前に折り曲げて、うやうやしい雰囲気でお辞儀をした。
『遅れちゃったけどごあいさつ。改めましてこんにちは。ボクは、神様の使いです』
神様の使いとはなんぞや。と思いはしたが、それを聞く前に、丁寧にしてくれたあいさつに応えようと、***は目線の高さを変えずに居住まいを正した。
「こんにちは。はじめまして、あたしは――――」
名前を言おうとして詰まる。
「あたしは……」
自分の名前が思い出せない。
そんな馬鹿な。と、焦りながら考えてみるも、やっぱり思い出せない。
「――――あたし、誰?」




