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雛の檻-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/03/02

 三月三日が近づくと、空気が変わる。

 乾いた冬の匂いの奥に、湿った土の匂いが混じる。


 それは春の兆しではない。

 ——それは、土の中から何かが起き上がろうとする匂いだ。


 霊能力者・間宮響子は、その匂いを知っていた。

 依頼主の家は、関東近郊の古い城下町の外れにある。瓦屋根の大きな屋敷。庭には梅が咲き始めているが、その枝はどこか歪にねじれていた。


 出迎えたのは四十代半ばの女性、藤代美琴。

 顔色は土気色で、目の下に濃い隈が沈んでいる。


「娘が……娘が、人形と話すんです」


 通された座敷の奥に、それはあった。

 七段飾りの雛人形。


 だが——


 響子は、座敷に足を踏み入れた瞬間に立ち止まった。


 重い。


 空気が、異様に重い。


 普通の家なら、雛人形には祝福の気配が残る。家族の願い、母の祈り、祖母の愛情。だが、目の前の段飾りから立ち上るのは、腐臭にも似た、粘つく怨念だった。


 内裏雛の女雛が、わずかに笑っている。


「……これは、いつから?」


「去年の三月三日です」


 娘の沙耶、七歳。

 その日を境に、夜中に誰かと話すようになったという。


 ——おひなさま、かわいそう。

 ——ずっと、くらいところにいたの。

 ——さやが、だしてあげる。


 美琴は震えながら言った。


「人形は、私の実家から送られたものなんです。母が亡くなって、遺品整理のときに見つかって……」


 響子はゆっくり段飾りに近づいた。

 五段目の右端。

 市松人形のような童女の顔をした、奇妙な雛が混じっている。


「……これは?」


「わかりません。最初からあったんです」


 違う。

 最初から“いた”のではない。

 “入り込んだ”のだ。


 響子はそっと霊視を開いた。

 瞬間——

 座敷が暗転する。


 湿った闇。

 狭い箱の中。

 息ができない。

 爪で木を引っ掻く音。

 血の味。

 小さな指。

 泣き声。


 ——だして。

 ——ひなまつり。

 ——おひめさまに、なりたい。


 響子ははっと息を呑んだ。

 この人形の中には、子供がいる。

 いや——違う。


 “入れられている”。


 江戸末期、この地で行われていた風習。

 飢饉の年、女児を間引きし、その魂を人形に封じ、家の守り神とする呪法。


 生きたまま、箱に入れられた少女。

 それが、雛にされる。


「……馬鹿な」


 響子は呟いた。


 だが霊視は嘘をつかない。

 人形の中の少女は、死ねなかった。

 雛祭りのたびに出され、祝われる。


 だが自分は祝われない。

 祝われるのは“偽物の姫”。

 本物の少女は、暗闇の中。


 ——さや、いいな。

 ——あそべる。

 ——いきてる。




 その夜。


 沙耶の悲鳴で家が揺れた。

 響子が駆け込むと、七段飾りの前に沙耶が立っていた。

 両手を広げ、無表情で。


「おひなさま、いれかわりたいって」


 ぞっとするほど大人びた声だった。


 次の瞬間。

 女雛の顔が、ゆっくりと回った。

 ぎぎ、と木が軋む音。

 目が、動く。

 白目が剥き、黒目がぎょろりと響子を捉える。

 口が裂ける。

 中は、闇ではない。


 ——歯だ。


 小さな乳歯が、びっしりと並んでいる。

 段飾りの人形たちが一斉に首を傾ける。

 三人官女が笑う。

 五人囃子が、音のない笛を吹く。

 沙耶の体が、後ろに倒れた。

 響子は咄嗟に抱きとめる。


 軽い。

 あまりにも軽い。

 まるで中身が抜けたように。

 座敷を見る。

 七段目。

 右端。

 市松顔の雛が、増えている。


 その顔は——

 沙耶だった。

 凍りついた笑顔。


「いやああああああああ!!」


 美琴の絶叫。


 だが沙耶の体は、腕の中で息をしている。

 ただ、目が空洞だった。

 魂が、薄い。

 人形の中に、引き込まれかけている。


 響子は念珠を握りしめた。


「出なさい」


 低く、命じる。

 だが、女雛が笑う。


 ——やっと。

 ——かわりが、きた。


 畳の上に黒い染みが広がる。

 水ではない。

 髪だ。

 無数の黒髪が畳の目から這い出し、響子の足首に絡みつく。


 冷たい。

 生きている。

 人形の首が、次々と外れ転がる。


 ころり。

 ころり。


 その首は、すべて七歳の少女の顔。

 違う時代の着物。

 違う髪型。

 だが同じ年頃。


 歴代の“かわり”。

 響子は歯を食いしばる。


 この家系は、代々娘を供物にしてきた。

 雛人形は飾りではない。

 交換装置だ。


 三月三日。

 魂を入れ替える儀式。

 今年は沙耶の番。


 響子は叫んだ。


「もう終わりにする!」


 念珠が裂け、光が弾ける。

 座敷に満ちる白光。

 少女の泣き声が重なる。


 ——さむい。

 ——くらい。

 ——こわい。

 ——おかあさん。


 その声が、やがてひとつに溶ける。

 女雛の顔が、ぱきりと割れた。

 中から出てきたのは、骨。

 小さな白骨。

 それが床に崩れ落ちた瞬間、七段飾りは音もなく崩壊した。


 静寂。

 春の匂い。

 桜の花びらが一枚、座敷に舞い落ちる。

 沙耶は目を開けた。


「……あれ? きょうこさん?」


 涙が溢れる美琴。

 すべて、終わった。


 ——はずだった。





 それから一年。


 間宮響子は、別の依頼先で雛祭りを迎えた。

 小さなマンション。

 若い夫婦と、三歳の娘。

 段ボールから取り出された、新しい雛人形。

 量産品の、無害な顔。


 だが。

 響子は凍りついた。

 五段目、右端。

 市松顔の童女が一体、混じっている。

 その頬には、見覚えのある小さなほくろ。


 沙耶のものだ。

 人形は、ゆっくりと瞬きをした。

 誰にも気づかれない角度で。


 そして、笑った。

 ——つぎは、だれ?






 三月三日は、祝祭ではない。

 それは、選別の日。

 あなたの家の押し入れにも、古い雛人形はないだろうか。


 箱の中で。

 暗闇の中で。

 小さな爪が、今も。

 内側から。

 かり、かり、と。

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