雛の檻-間宮響子-
三月三日が近づくと、空気が変わる。
乾いた冬の匂いの奥に、湿った土の匂いが混じる。
それは春の兆しではない。
——それは、土の中から何かが起き上がろうとする匂いだ。
霊能力者・間宮響子は、その匂いを知っていた。
依頼主の家は、関東近郊の古い城下町の外れにある。瓦屋根の大きな屋敷。庭には梅が咲き始めているが、その枝はどこか歪にねじれていた。
出迎えたのは四十代半ばの女性、藤代美琴。
顔色は土気色で、目の下に濃い隈が沈んでいる。
「娘が……娘が、人形と話すんです」
通された座敷の奥に、それはあった。
七段飾りの雛人形。
だが——
響子は、座敷に足を踏み入れた瞬間に立ち止まった。
重い。
空気が、異様に重い。
普通の家なら、雛人形には祝福の気配が残る。家族の願い、母の祈り、祖母の愛情。だが、目の前の段飾りから立ち上るのは、腐臭にも似た、粘つく怨念だった。
内裏雛の女雛が、わずかに笑っている。
「……これは、いつから?」
「去年の三月三日です」
娘の沙耶、七歳。
その日を境に、夜中に誰かと話すようになったという。
——おひなさま、かわいそう。
——ずっと、くらいところにいたの。
——さやが、だしてあげる。
美琴は震えながら言った。
「人形は、私の実家から送られたものなんです。母が亡くなって、遺品整理のときに見つかって……」
響子はゆっくり段飾りに近づいた。
五段目の右端。
市松人形のような童女の顔をした、奇妙な雛が混じっている。
「……これは?」
「わかりません。最初からあったんです」
違う。
最初から“いた”のではない。
“入り込んだ”のだ。
響子はそっと霊視を開いた。
瞬間——
座敷が暗転する。
湿った闇。
狭い箱の中。
息ができない。
爪で木を引っ掻く音。
血の味。
小さな指。
泣き声。
——だして。
——ひなまつり。
——おひめさまに、なりたい。
響子ははっと息を呑んだ。
この人形の中には、子供がいる。
いや——違う。
“入れられている”。
江戸末期、この地で行われていた風習。
飢饉の年、女児を間引きし、その魂を人形に封じ、家の守り神とする呪法。
生きたまま、箱に入れられた少女。
それが、雛にされる。
「……馬鹿な」
響子は呟いた。
だが霊視は嘘をつかない。
人形の中の少女は、死ねなかった。
雛祭りのたびに出され、祝われる。
だが自分は祝われない。
祝われるのは“偽物の姫”。
本物の少女は、暗闇の中。
——さや、いいな。
——あそべる。
——いきてる。
その夜。
沙耶の悲鳴で家が揺れた。
響子が駆け込むと、七段飾りの前に沙耶が立っていた。
両手を広げ、無表情で。
「おひなさま、いれかわりたいって」
ぞっとするほど大人びた声だった。
次の瞬間。
女雛の顔が、ゆっくりと回った。
ぎぎ、と木が軋む音。
目が、動く。
白目が剥き、黒目がぎょろりと響子を捉える。
口が裂ける。
中は、闇ではない。
——歯だ。
小さな乳歯が、びっしりと並んでいる。
段飾りの人形たちが一斉に首を傾ける。
三人官女が笑う。
五人囃子が、音のない笛を吹く。
沙耶の体が、後ろに倒れた。
響子は咄嗟に抱きとめる。
軽い。
あまりにも軽い。
まるで中身が抜けたように。
座敷を見る。
七段目。
右端。
市松顔の雛が、増えている。
その顔は——
沙耶だった。
凍りついた笑顔。
「いやああああああああ!!」
美琴の絶叫。
だが沙耶の体は、腕の中で息をしている。
ただ、目が空洞だった。
魂が、薄い。
人形の中に、引き込まれかけている。
響子は念珠を握りしめた。
「出なさい」
低く、命じる。
だが、女雛が笑う。
——やっと。
——かわりが、きた。
畳の上に黒い染みが広がる。
水ではない。
髪だ。
無数の黒髪が畳の目から這い出し、響子の足首に絡みつく。
冷たい。
生きている。
人形の首が、次々と外れ転がる。
ころり。
ころり。
その首は、すべて七歳の少女の顔。
違う時代の着物。
違う髪型。
だが同じ年頃。
歴代の“かわり”。
響子は歯を食いしばる。
この家系は、代々娘を供物にしてきた。
雛人形は飾りではない。
交換装置だ。
三月三日。
魂を入れ替える儀式。
今年は沙耶の番。
響子は叫んだ。
「もう終わりにする!」
念珠が裂け、光が弾ける。
座敷に満ちる白光。
少女の泣き声が重なる。
——さむい。
——くらい。
——こわい。
——おかあさん。
その声が、やがてひとつに溶ける。
女雛の顔が、ぱきりと割れた。
中から出てきたのは、骨。
小さな白骨。
それが床に崩れ落ちた瞬間、七段飾りは音もなく崩壊した。
静寂。
春の匂い。
桜の花びらが一枚、座敷に舞い落ちる。
沙耶は目を開けた。
「……あれ? きょうこさん?」
涙が溢れる美琴。
すべて、終わった。
——はずだった。
それから一年。
間宮響子は、別の依頼先で雛祭りを迎えた。
小さなマンション。
若い夫婦と、三歳の娘。
段ボールから取り出された、新しい雛人形。
量産品の、無害な顔。
だが。
響子は凍りついた。
五段目、右端。
市松顔の童女が一体、混じっている。
その頬には、見覚えのある小さなほくろ。
沙耶のものだ。
人形は、ゆっくりと瞬きをした。
誰にも気づかれない角度で。
そして、笑った。
——つぎは、だれ?
三月三日は、祝祭ではない。
それは、選別の日。
あなたの家の押し入れにも、古い雛人形はないだろうか。
箱の中で。
暗闇の中で。
小さな爪が、今も。
内側から。
かり、かり、と。




