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りんごいろ

掲載日:2026/02/22


 わたしと誰かと誰かと誰かの集合体。ここにはパーソナルスペースを築く余白がない。ときどき、下から突き上げるような揺れを感じる。揺れのたびに、からだが下方向に引っ張られて全身に負荷がかかる。でもわたしはその不快を訴えることができずにいる。神によって口を捥がれてしまったから。

 時間の概念の付随しない記憶。レーテーの水はケロヨンの風呂桶か、酔星ワンカップの空きコップか、いずれかを選んで汲むというので、わたしはレトロなチューリップがプリントされたコップで汲んで飲むふりをした。まわりの誰もがそんなふうで、口に運んだ水を口の脇で零して、胸をびっしょり濡らしたまま「飲みました」と申告するのだ。わたしはそのとき、わざとらしい無垢な表情をつくって「飲みました」と申告した。胸と腹と、右の太腿がびっしゃり濡れていた。見渡せば、誰もが胸や腕や腹を濡らしていた。

 神が言うには。それは時間の概念の付随しない次元のできごとだった。ここから離れた、とある過去に――とはいえ、〈現在・いま〉もすでに過去のことだ。感覚が脳に送られ、処理されたのちにようやく〈現在・いま〉を本人が感じることができるのだから――わたしは水を飲むふりをしたあとに裁かれた。神が言うには、わたしは、たいして正しい態度で人生を歩んでいなかった。らしい。

 『他罰的な態度』。神は言った。それから『創造を拒んだ受動的態度』。『失敗から常に逃れ続け、身近な人間から失敗しない方法ばかりを学習して上手く立ち回ろうとする、向上心のなさと非創造的態度。努力を嫌い、ただし自分の自尊心を保つために他人の粗を探しては指摘して第三者に吹聴し続けた態度』。神は穏やかな声でそう言った。

 それが神から見たわたしで、わたしのような人間は自然界には必要がない。わたしのような生物は、自然から独立して、どの生物よりも偉大であると錯覚している傲慢な生物は淘汰されるのが〈自然である〉という。『資本主義にコミットしているだけで、人間として、自然の一部としてまるで機能していない肉の塊』。神はそう言った。散文的人生におけるBoule de suif。

 神はうっすらと穏やかな微笑みを浮かべていた。なにもかもを見透かす目で、わたしの目をしっかりと見つめていた。わたしの目ではなく、わたしの魂のようなものを見つめられている気がした。『それから、利己のために相手を欺く姿勢』。そう言って神の視線がわたしの濡れた胸や腹や太腿に移るのがわかった。神は穏やかだったが、視線の持つ熱量がひどく冷たかった。『あなたへの決定。行きなさい』。穏やかな声はスチールパンの余韻のように美しい。そして音の波は前触れなく途切れた。

 うどん生地が細く切り刻まれていくみたいに、大きな刃が時間の概念のない世界をざくっと切って、そこから時間が発生しはじめた。わたしの世界的時間。わたしはアウトレットやショッピングモールの、計画的に無駄をつくった曲がりくねる通路のようなぐねぐねの道路を進んでいた。そう命令されたのではない。すでにその道路を進むことが決まっていて、わたしの意識の中に無意識の決定が入り込んでいたからだ。

 複雑にうねる道路の脇には古い商店がびっしり並んでいた。昭和につくられた街並みと軒先。ガラスサッシが閉じられた衣料品店と、自動販売機のない対面式の煙草屋のあいだでわたしはマンホールを踏んだ。

 丸いマンホールがその瞬間にグルグル回りだしてわたしはマンホールの上で回転し始めた。そうなることをすでに了承していたかのように、わたしはネジだけの動力で動くレトロ人形の気分でグルグル回っていた。

 回転によって変遷する景色はいつのまにか衣料品店の中にあった。

 トルソーではなく、まるで蝋を飲んで固まった故人のような、濃い化粧が施された古いマネキンがサッシの向こうの外側――曲がりくねる道路とグルグル回っていたマンホール――へ向けられている。気取った表情とポーズ。青すぎる瞼。僅かに開いたままの口。それから古いハンガーラック。手書きのPOPには特価という文字が並ぶ。ビニールが掛かったままの、ラックにびっしり並ぶ衣料品たち。

「ここは臙脂の店だったわ。ここに昔、店を構えてたわ」

 数年前に死んだはずの祖母が、ぎゅうぎゅうにハンガーが掛かったラックとラックのあいだから出てきてそう言った。かつて祖母はこのあたりに住んでいたらしかった。わたしは『臙脂の店』を知らなかったが、祖母に尋ねたりしなかった。疑問に思う、という感覚がわたしの中からすっぽり抜け落ちていた。

 次の瞬間。わたしはぎゅうぎゅうにひしめく中にいた。下から突き上げる振動を感じるたびにからだじゅうからカサカサ音がした。

 ここは暑い。暑いけど誰もが黙ったまま、カサカサしている。カサカサカサ。カサカサが揺れる音と、下からうねりのような音が聞こえ続けるだけ。これはたぶんディーゼルエンジンの唸りだ。


 からだの表面に静電気を帯びていた。カサカサの外側にべったりくっつくカサカサを、静電気が引き寄せ合っていた。愛していないものとくっつきあう行為の精神的苦痛。愛していないものの体温をからだじゅうに感じる生理的嫌悪。わたしは気分が悪かったが、胃からすっぱいものがこみ上げてくるような感覚だけがなかった。もっと言えば、胃からこみ上げてくるものを吐き出す舌がないことに気づいた。

 ここは真っ暗だ。真っ暗で、ひどく蒸し暑い。感覚を研ぎ澄ます。光を探す。ここから見えるすべての方角に光の予兆すらない。ただカサカサ音と、埃っぽさと、わたしがぶら下がっているということだけしかわからない。

 揺れが止まった。その前により大きな衝撃があった。前後の揺れの衝撃で、わたしのからだが揺れた。ぶら下がっているから。カサカサカサ。

 突然差し込んだのはグラスファイバーの束みたいな光だった。それから雑多な音。人の行きかう、せわしなく動く、騒がしさのノイズが伝染するみたいに流れ込んでくる。

 衝撃。金属のぶつかる音とともに光が入る。大きな足音が近づいてくる。カサカサ音とともに、わたしに強い圧力がかかった。わたしのからだの前と後ろから。隣のからだが強く押し付けられる。暑い。不快だ。でもわたしは口を捥がれたので不満を訴えることができない。

 ガラガラガラガラガラガラ。わたしは再び暗い中を進んでいる。ガラガラガラガラ。かちゃ、という金属の音がして、今までになかった音量の音楽が襲ってきた。それから光。ありえないくらいの光量が、鋭く天井から降ってくる。さっきまでなかった音量の音楽の下を進んでいる。ガラガラガラガラガラ。

 わたしと、わたしの周囲の数人はすこし乱暴な感じで移動させられた。かちゃ。かちゃ。かちゃ。かちゃ。わたしが持ち上げられ、そしてわたしを包んでいたカサカサが取り払われた。カサカサが脱げるとき、ダウンライトの光が反射してとてもきらきらした。ダウンライト。そう、ここにあるのは太陽の光ではなく、茶色がかったダウンライトや鋭い光を放つハロゲンばかりだということに初めて気づく。

 わたしがぶら下がっていたものが取り換えられたのがわかった。さっきまで幅のない、硬い棒にぶら下がっていたのだが、さっきよりも幅のある、木でできた棒に変わった。

 わたしに手を添え、正面を向いたからだにぴったりと沿わせる知らない人。が映る鏡の中。そこでわたしは、わたしを初めて見たのだ。わたしは。わたしは、深い艶をもつチョコレート色のハンガーに掛けられた、りんご色のワンピースだった。神によってわたしはりんご色のワンピースに変えられてしまった。

 天井のスピーカーから鳴る音楽が、物質として存在しない音符たちのシャワーがわたしを濡らしていく。わたしの下肢はハンガーを揺らされるたびに力なく揺れる。鏡に映る、わたしに見えている世界が真実ならば、わたしはりんご色のワンピースである。

「じゃ、VPはこれにしよ。替えといて」

 わたしの上になにか布が重ねられた。それがなんなのかわからない。重みはまるで感じない。わたしは重さを感じる器官も失ってしまったのかもしれない。

「はい。……え待ってこれ3だ」

 わたしの上に積もっていた布がなくなって視界が開け、わたしはすぐに放置された。「2。……あった」。

 わたしの周囲が片付いていく。そしてわたしは持ち上げられた。しばらくの浮遊。浮遊するわたしの下肢は進むスピードによって揺らめく。

 かたん。わたしはハンガーにぶら下がったまま、ある場所で止まった。腹側にはわたしと同じりんご色のワンピースがぶら下がっている。背中側にはオレンジ色のワンピースがぶら下がっている。どちらも同じ間隔を保っている。

 それからわたしは放置された。永遠のように感じる放置のあと、スピーカーから鳴る音楽が物悲しいものに変わり、「また明日のご来店を心よりお待ち申し上げております」のアナウンスが何度か流れ、そして音楽はぷつっと止んでしまった。突然の静寂が現実を取り上げる。

 明るすぎる世界の照度が半分以下になって、薄暗くなる。遠くから、音が、声が、聞こえる。小銭がぶつかる音。「伝票そっちにあります?」。ひどく忙しない音。それと反して、近くから聞こえる音はのんびりしている。カサカサをまとめる音。「おつかれさまでした」。そしてわたしは暗闇に放置される。


 わたしは放置されている。わたしはただの、ハンガーにぶら下がるだけの肉体だ。とはいえ意思を持つトリステスの塊だ。

 夜は完全に真っ暗になる。真っ暗な夜は長い。長い夜をやり過ごすとき、わたしは周囲とコミュニケーションをとることもできず、孤独を常に突きつけられながら過ごすことになる。口を捥がれたから。孤独はいくら消費しても尽きることはない。むしろ、孤独の質量は増えていくばかりだ。

 長い夜が終わるのを待っていると、不意にぼんやりとした明かりがつく。そして、足音がどこかから聞こえる。そうして明かりと足音が増えていく。足音はほうぼうに伸びていく。わたしの孤独へ訪れる足音はない。

「この時間、めっちゃいいにおいしますよね。パンの」

「あの階段沿いに地下からにおいが上がってくるんだよ。四時くらいから焼いてんだって」

「四時! 早えー。朝の四時って基本、存在してないですよね。なんていうか。四時に出会ったことないんですけど。寝てるあいだのことなんで、省略されてんじゃないかって思いません?」

 わたしから離れたところで会話しているのが聞こえる。あの階段。パンのにおい。四時くらいから。すべてわたしの知らないことばかりだ。ずっとここにいるのに。鼻を捥がれたからにおいがわからない。移動できないから、『あの階段』の場所を知らない。

 においさえ感じられたら、時間の目安になるのに。永遠のように感じられる――二十四時間のうちに一度訪れる〝だけ〟のはずの〈夜〉は、絶望のアボガドロ数をはらんだ長さでわたしを苛む――もうすぐ朝だ、という希望を、長すぎる夜の絶望の中で見つけることができるのに。

 わたしの近くで明かりがつき、毎朝の物音が聞こえると、この店のスタッフが出勤してきたのがわかる。ようになったのは最近だ。

 わたしがぶら下がった下部の床には大きな埃が溜まっている。モーター音が近づく。そしてわたしの下を掃除機のノズルが横切る。長い夜の孤独と静寂は、その瞬間だけ、酷いノイズに変わる。そして掃除機は遠ざかり、余韻だけが残る。

 「おはようございます」で始まる、日中に流れるアナウンスとは違う、緊張感のない抑揚の声がスピーカーから流れる。「本日は金曜日です。全体朝礼の日です。一階中央エスカレーター脇にお集まりください」。声の後ろには人が蠢く雑音が紛れ込んでいる。ざわざわざわ。アナウンスはそれだけ告げて途切れる。SEなしで。

 わたしの知らない中央エスカレーター。わたしの知らない全体朝礼。わたしに唯一わかるのは、わたしの周辺のできごとだけだ。近視眼的世界。掃除機と、照明の明るさの変化と、人々の会話。音楽とアナウンス。それがすべてだ。

 わたしは今日もここで静止している。静止することだけがわたしの人生のすべてだ。ただし、静止は受動的ではない。わたしは私の意思で静止している。セイレーンの歌声に抗って船を進めるのと同じくらい強い意志。

 静止しているあいだのわたしは、あふれるほどの自尊心に満ちている。わたしが常に美しい状態でありたい、他人から好意的に見られたいという気分で常に意識を張っている。

 薄暗かった周囲が、突然明るくなる。すべての照明が全力でフロアを照らす。世界が白くなる。そして音楽とアナウンスが流れ始める。世界が始まる準備運動のような時間。もうすぐ開店時間であるということを知らせる朝のルーティン。わたしの背筋はこんな切り替えなどなくとも、朝でも夜でもいつでもしゃきっとしている。自尊心に満ちたわたし。

 柔らかい鐘の音が鳴る。「開店いたします」。知らない声。でも毎朝聞いているせいで知らない声は知っている声に変わった。わたしにとって、いまは親しみの声でもある。希望・前向き・太陽の光、そういうものを想起させる音の羅列。そしてフロアを過ぎていく足音と、それらに向けて掛けられる挨拶の輪唱。「おはようございます」「いらっしゃいませ」。

 冷気が床に溜まる無音のフロアの中で、わたしは自分の役割を見つけた。わたしの役割。それは選ばれることである。わたしの役割。それはここへ訪れる〈誰か〉に気に入られ、〈選ばれる〉ことである。

 愛は人間だけに付与された感情ではない。愛は〈命〉のすべてに付与されている。愛し、愛され、あなたを選び、わたしが選ばれるということ。それはりんご色のワンピースであるわたしにも、愛の一部として与えられている。〈選ばれる〉ための愛。の義務。

「いらっしゃいませ」

 チャンスは決して多くない。ここに並ぶすべてのアイテムの中から選ばれるのは容易ではない。わたしはここにどれだけのライバルがいるのか、具体的な数値をまったく知らない。ただ、数日ごとに新しいライバルが数点ずつ増えている。そして一日にいくつかのライバルが選ばれ、去って行く。

 選ばれるのは。単純な確率や、古いものから押し出されるように選ばれていくようなシステムが出来上がっているわけではない。運が必要だ。気に入ってくれる誰かに見つけてもらうこと。そして一番重要なことをわたしは知った。ここで働くスタッフが気に入っているか否かで、チャンスの数は大きく変わる。

「こちらとかどうですか。いま、正面のVPにも着せてるんですけど」

 わたしはスタッフに気に入られている。はじめてここへ運ばれてきたときからそうだ。だから、スタッフはわたしを――わたしと同じ並びのワンピースたちを――客に勧める。いまのように。

「かわいい。この色、私に似合うかなあ」

「えー絶対似合いそう」。そう言ってスタッフはわたしを客の胸に押しつけて、鏡に映す。「ほら。このあいだ買っていただいたジャケットにも合いそうじゃないですか。試着だけでもしてみません?」

「ああ。あのジャケット」

 わたしがぶら下がるハンガーが前後に揺らされ、わたしの下肢がぴらぴらはためく。わたしは外界からの力に逆らうことができない。ただじっと待っているだけだ。選ばれるのを待つことしかできない。口を捥がれたから、自らアピールすることはできない。

 わたしがもし選ばれたなら。音楽と照明のすべて消えた、闇と無音だけに包まれる孤独の夜に取り残されることがその瞬間からなくなる。ここに取り残され、存在を忘れ去られる長い孤独は過去の記憶になり、やがてわたしから離れて行くだろう。

 そしてなにより、りんご色のワンピースとして生を受けた〈意味〉と〈義務〉を果たせる。

 ハンガーから外されるわたしは、胸を突き出して、姿勢を正す。深い呼吸を繰り返し、瞑想状態に入る。選ばれるための演出。とはいえわたしは楽観している。そう遠くない未来に、わたしは選ばれると思っている。なぜなら、わたしはスタッフに気に入られていて、チャンスが多いからだ。

「あ、これ3だわ。すみません。いまお持ちします」

 ハンガーが外されたわたしはものすごい勢いで、ぺっと什器の上に投げ置かれた。放置。わたしの脇目に、おなじりんご色のワンピースが高速移動していく。かちゃ。そしてフィッティングの中へ消えていく。りんご色のワンピース。カーテンが閉まる音のあと、わたしは再びハンガーに吊るされた。周囲を見渡す。わたしはもとの場所に戻ったようだ。再び、受動的候補の並ぶラックに。

 なぜ? なぜなのだろう? わたしはさっきよりも遠くなった会話に耳を澄ます。

「あ、サイズこっちでぴったりですね」

 わたしが選ばれなかった理由がなんとなくわかった。わたしは同じラックに並ぶりんご色のワンピースと同じだと思っていたが、違うようだ。サイズが違うという理由でチャンスをつかめなかった。

 わたしはわたしのタグを確認したい。左ももにくっついてるタグ。そこには何年のどの季節の製品であるかという品番とかサイズとかお洗濯方法が表示されている。それを見たい。わたしのサイズ。それから、フィッティングの中へ選ばれて行ったサイズを知りたい。まったく同じに見えたはずだ。

 そういうことを考えるのと同時に、どうでもいい、という強い虚無感がわたしを襲った。さっきまでわたしに漲っていた自意識の張りのようなものすべてがパーン! と音もなく弾けて、その中からは固まる前のセメントみたいにどろどろして重い虚無感が頭上からずわーっと垂れてきた。そしてわたしを覆った。セメント状の虚無感に厚く覆われて、視界は遮られ、呼吸もできない。肩が重い。めりこむ。ぶらぶらの下肢がわたしの肩を引っ張る。ハンガーがわたしにめり込む。

 わたしのサイズが一体なんであろうが、わたしはわたしだ。

 わたしはりんご色のワンピースである。ただそれだけだ。

 虚無がわたしを諭す。どろどろのセメント虚無に覆われたまま、ただぶら下がる物体になった。待つだけの。チャンスを待つだけのりんご色のワンピース。


 わたしは夜の数を数えるのをとっくにやめていた。過ぎていく夜の数を数えなくなったとき、これが自由の一部なのだということに気づいた。過去になっていく夜の数を数えるなんて、わたしは馬鹿げたことをしていた。意味のない行為を真剣に行っていたということに気づけずにいた。意味のない行為に無理やり、意味を見出そうとしていた。

 ぱらららん。らららん。セメント虚無に覆われたわたしに、いつものように頭上から音楽が降っている。雨が降ってきたのを知らせる音楽。予算達成の音楽。売り上げが一千万円を超えましたの音楽。どこかのフロアが混雑してますの音楽。不審者がいますの音楽。それから、わたしの知らない情報の詰まったアナウンス。

 あれからわたしには何度かチャンスが巡ってきた。フィッティングの中へもぐり込むことができた。すぐに選ばれると高を括っていたのに、フィッティングまでの道のりはひどく長い。

 フィッティングの中でわたしは、あらゆる人のからだにぺったりくっついた。ある日は汗だらけの背中にくっついた。ある日はフェイスカバーをしていない、化粧の施された顔にギリギリですれ違った。ある日はフィッティングにもぐりこんだけど着てもらえなかった。

 チャンスと痛苦は隣り合わせだった。誰だって、べたべたした他人の肌に触れたくない。誰だって、ファンデーションやチークやアイシャドウをべったりと擦り付けられて汚されたくない。誰だって、あなたに興味ないんだよねという目で一瞥されたくない。

 わたしはそのたびに神経をすり減らし、そして傷ついた。選ばれなかったという事実がわたしの自尊心をそのたびに破壊した。破壊の音はりんご色のワンピースの内側で轟音をたてていたが、誰にも聞こえない。心の傷とはそういうものだ。擦過痕すら残らないのに、いつまでも治らない。

 絶望を具現化したような長い暗闇と静寂の夜が過ぎ、再び掃除機のモーター音のする朝がやってきて、人工的な明るさに包まれる時間が始まる。絶望はそこでいったん途切れる。明けない夜などないという言葉を、なぜかこの時間に必ず思い出す。

 世界が明るくなってからの時間は粘っこい。ひどく粘っこい。まったくわたしのまわりの世界を溶かしていかない。停止し続ける世界と不干渉と退屈の飽和溶液化した時間がわたしの周囲に満ちる。

 わたしは今日も明るすぎる照明の下でぶら下がっている。かつて、ピュアな気分で選ばれるためのチャンスをわくわく待っていたピュアなわたしの中に、恐怖心に浸された気分が同居している。選ばれたい。けれどチャンスが巡ってきても、結局はまたこのラックに戻ってきたら。汗っぽい肌に触れなきゃいけなくなったら。わたしが汚されてしまったら。

「いらっしゃいませ」

 いつもの声がする。わたしのすぐそばで。わたしはかつてのように背筋を伸ばすことも忘れて――忘れたのではなく、意識的にそうしないのを私は気づきたくない――ぶら下がっている。客との会話が始まるのが聞こえる。いつものように、顔見知り同士の会話ではなく、相手を探るような会話が続く。――こういうお色好きですか? ああなるほど、こういうワンピースをお探しなんですね。スタッフは喋り続けている。

「じゃあこういうのとか。いかがです? こういうお色味はお好きですか?」

 スタッフは喋り続ける。

「こっちはラインがとってもきれいなんですよね。高めから広がるので。腰の」

 スタッフは喋り続ける。

「こっちのハリ感のある素材は今年の流行ですね」

 エントリーされるべくプレゼンされていくライバルたちが、各自の持ち場から巣立っていく。わたしは会話を聞いている。ただぶら下がったままで。ぱらららん。らららん。天井のスピーカーから落ちる音楽と交じり合う会話とを聞き分けながら。

「あの。通路のとこのマネキンが着てたワンピース、あれ見せてもらえませんか」

 一方的に話し続けるスタッフのプレゼンの僅かな隙間に、客の声が挟まれたのが聞こえた。

「ああ! あれも人気です。かわいいですよね。こちらです」

 かちゃ。そしてわたしは突然ラックから外されて、高速移動した。高速移動しているとき、すべての風景は線状になって見えるわけではないということをわたしは初めて知った。通路を歩く人々と、向かいの売り場のレイアウトは静止画だった。静止画。その次の瞬間にまた静止画。ぱらぱら漫画をゆっくりと一枚ずつ捲るときの視覚認識。静止画と静止画のあいだにうまれる、間違い探しのような差異はわたしには瞬間的にはわからない。

 こちらです。そう言って提示されたわたしは脇腹あたりの布を押さえられ、わたしの表面の皺を伸ばすようにして客の前で思い切り美しい態度を強いられる。わたしは思い切り胸を張る。

「あ、これ。これです。こういうかたちだったんですね」

「そうですね。表のVPは上に着せてるんで。襟とかお袖のかたちはこんな感じですね」

 わたしは客の顎の下に掲げられ、客のからだにぴったりと合わせられた。鏡に向かって。わたしのすべてが鏡に映る。りんご色のワンピースのわたし。

「お試しになりますか?」

「あ、はい。じゃあこれとこれ。いいですか」

「これも合うと思うんでこっちも試してみてください」

 わたしはハンガーから外され、フィッティングへエントリーされた。期待で震えるような初心者の気分は今はない。チャンスが来たという嬉しさはもちろん無いわけではない。それと同量の、〝選ばれなければならない〟という大きなプレッシャー。それから〝選ばれない(再)〟という恐怖がわたしのぬとぬとの気分を生成している。

 フィッティングへと集団移動する前に、わたしの背中のファスナーが下ろされた。さあ着てくださいの準備。わたしは腹の中がすうすうする。防火。というラベルのついたクリーム色のカーテンの内側でわたしはプレッシャーと恐怖に塗れている。

 わたしの腹の中に見知らぬ人間の足が挿入される。右足。そして左脚。ストッキングは穿いていない。素足。わたしは急峻な誰かのからだの側面を上昇していく。氷壁の上を流れて行く冷たい空気みたいに。そしてわたしの両脇に腕が通る。右腕。そして左腕。湿り気。わたしはすこしだけ仰け反る。体の表面に皺が寄る。

 スピーカーから爽やかな雰囲気をまとう日本語ではない曲が流れている。この場の雰囲気、空気づくりのためだけに選ばれた音楽。資本主義が歪ませた〈芸術〉と〈美しさ〉の悲しい末路。作り手の労力と芸術的価値にかかわらず、ぜんぶ一曲二五〇円均一になってしまった音楽。

 鏡に映るわたしは。美しく磨かれた鏡に映るわたしは、りんご色のワンピースだ。鏡に映るわたしは美しい。そのすべてが美しく作られているからだ。型。バランス。色。

 ただしそれは、完璧な状態でなければ美しさが欠ける。〈美しさ〉とはひどく繊細だ。一ミリ以下のバランスのずれによって、わたしの印象は大きく変わる。

 わたしを纏った人は、鏡を見て左右にからだをひねった。右からみたところ。左からみたところ。そのいずれにも、わたしの背中がぴらぴらはためいていた。

 背中のシッパーは閉めにくい。フィッティングから出て、外で待っているスタッフに閉めてもらったらいいのに。そしたらわたしの最大限の美しさがこのからだの上で表現されるのに、と思う。

「いかがですかあ」

 防火。というラベルがくっついたクリーム色のカーテンの向こうからスタッフが声を掛ける。スタッフは、わたしを纏う人が出ていくのを待っている。

 わたしを纏う人はちらっと、クリーム色のカーテンを見遣った。そして再び、鏡に向かって左右にからだをひねる。右からみたところ。左からみたところ。

 背中のファスナーが閉まっていないわたし。それはひどく間抜けな姿だった。わたしはファスナーが閉まってはじめて、完全な美しさになるようにできている。

 わたしを纏う人は背中に手を伸ばして、ようやく、ファスナーを閉めようとしている。腰から上へ。

 しかし、腰から数センチも進まないところでわたしはひどい苦しさに襲われた。ファスナーを上へ引っ張ろうとするたび、わたしの内側から強い圧が掛かる。ぱつっ。わたしを形成する身ごろが引っ張られ、互いを繋ぐ縫製の両腕が伸びている。コーカサスの白墨の輪が、わたしの表面で繰り広げられている。

 誇らしさで胸を張ったわけではない。わたしの胸は。腹は。ひどい緊張感がわたしの表面にびっしりと貼り付いている。背中のファスナーを上げる手が力を入れるたびに、わたしはどんどん、はち切れそうになっていく。

 わたしを纏う人の脇や背中にうっすらと汗が滲んでいくのがわかった。湿り気。鼻を捥がれていてよかったと思う唯一の瞬間。

 わたしを纏う人の指先に力が入っているのがわかる。鏡に映る指が白くなっている。このままでは。わたしは考える。このままでは。このまま無理矢理、ファスナーを閉めたら破けてしまう。破けるとは、形を失うということは、わたしにとって死だ。生きる意味を失うということだ。存在価値を、存在意義を失うということだ。死が目の前に迫っている緊迫感が、フィッティング全体に張りつめている。

「いかがですかあ」

 再び、カーテンの向こうから声がする。ファスナーに掛かる圧が途切れる。

 それでもわたしはいまにも破れそうな状態が続いている。わたしは最高強度の死の恐怖から逃れられずにいる。鏡に映るわたしの姿は、何度か見た姿とまるで違う。歪んでいる。美しさのすべてが排除されたわたしの姿。絶望に苛まれる。美しさを失うということも、死と同じだ。存在価値の、存在意義の喪失。

 鏡が狂っているのだろうかと思ったが違う。それはすぐにわかる。わたしを纏う人のからだと、わたしの大きさがマッチしていないだけだ。

「あ、はい。いい感じです」

 わたしを纏う人はカーテンの向こうへ答えて、上向きに力を掛けていたファスナーを下向きへと変えた。

 わたしがみるみる弛んでいく。いままでの、緊張感を伴ったからだの張りがなくなっていく。死の恐怖から一時的に解放されたわたしの精神も弛んでいくのを感じる。

「明るいところでご覧になりませんか」

 スタッフが提案するとおり、わたしもできればそうしたい。明るいところでよりよく見られたい。選ばれるためにはフィッティングの外側のライティングが必要だ。美しく見えるために計算された照明が必要だ。

「あ。はい。あでももう脱いじゃったんで」

 嘘の申告。わたしはまだ、からだにべったり貼り付いている。そのとき、嘘に整合性を持たせるように、わたしはものすごいスピードでからだから剥がされ、肩の支えを失ったわたしは掴まるものがなく、ものすごいスピードで床へ垂直に落ちた。人の脚がわたしを――りんご色の輪っかを――跨ぎ、ハンガーに掛け直すのではなく、傍らの台のようなものに乱暴に置いた。皺だらけのわたしが伸びているようすが鏡に映っていた。ひどく間抜けな、美しさの欠片もない姿だった。

 また選ばれなかったのだ。とわたしは思った。気に入らなかったのだ。だからわたしは、いい加減な扱いを受けているのだと思った。

 しゃしゃ。小気味よい音とともにクリーム色のカーテンが開く。閉塞と薄暗さに一時的に支配されたフィッティングの中がにわかに明るくなった。わたしはハンガーに掛けられず、適当に、その他の衣類と一緒にぐちゃぐちゃにまとめられてフィッティングを出た。

「おつかれさまでしたあ」

 カーテンの向こうから声を掛けていたスタッフが笑顔で迎える。そして、わたしや他の候補を受け取った。個性が違うものが一緒くたになって、ひとつの球体をつくるさまはあらゆる意味で自然だ。意識の集合によってつくられるコミュニティ。波。

 この先はいつもの展開だ。やっぱり、思ってたのと違うみたい。わたしはそういう評価を下され、そして選ばれずに、別の候補が次に提案される。多くは後から提案された者たちのほうが選ばれていく。またわたしは、長すぎる孤独の夜を過す日々になるのだろう。

「いかがでした?」

 わたしを受け取りながらスタッフが聞く。

「これ買います」

「……サイズはこちらでだいじょうぶでした?」

「はい。だいじょうぶです」

 会話とともにわたしがぴらぴら弄ばれる。わたしについて話しているのかもしれない。でもわたしは知っている。サイズが合っていないことを。わたしが破れそうだったことを。ファスナーがぜんぜん閉まらなかったことを。わたしは神によって口を捥がれてしまったので、言うことができない。それに選ばれるチャンスを逃したくないから、たとえ口があっても言わないだろう。「めっちゃ似合ってましたよ」。そういう嘘を言うだろう。

「他もご覧になります?」

 そうして、わたしはいつものように什器の上にぺっと投げ出されるか、ハンガーに掛けられて元の位置に戻るか、というパターンを辿らなかった。わたしは今まで運ばれたことのない、カウンターの上に運ばれた。そこで丁寧に畳まれる経験を初めて体験した。

 わたしは、いくつものライバルたちの中から唯一、選ばれたのだ。


 ふわふわの紙にくるまれ、それから清潔で透明の――わたしが最初に運ばれてきたときに被っていたカサカサカサとは透明度も強度もハリも輝きも厚みもカサカサ音の質も違う、すべてが上質の――ビニールに包まれ、それから紙のにおいのする、皺のない包装紙で覆われたわたしは紙袋に丁寧に入れられた。

 わたしはそうして、移動した。選ばれし者たちだけがたどり着ける場所へ行くのだというわくわくが止まらなかった。もう孤独ではない。この先は、愛され続ける時間だけが待っているはずだ。長い移動中、わたしは雑踏の中で揺れながら興奮していた。

 金属がぶつかり合う音は苛ついた態度を伴っているようにも聞こえる。ヒステリックで他罰的で他者の一切を排斥する気分が含まれているような音。周囲は静まりかえっている。

 ばたん。重たいドアが閉まる音。空間は、時間は、その音とともに分断される。さっきまでの世界と、これからの世界のあいだにくっきりとした線を引く。さらなる静けさだけが支配する世界に変わった。

「あーあ」

 そしてわたしが入った紙袋は、弧を描きながら宙に浮いた。かさっ。紙袋の乾いた音とともに、わたしは着地する。不自然な傾きを察知する。わたしはなにかに寄り掛かる格好で、紙袋の中で傾いている。

「あーあ」

 人間が動く気配には、ある一定の温度がつきまとっている。わたしは口を捥がれたが、温度を感じ取る感覚と聴覚はある。温度は、なにかを踏みながら歩く音は、わたしのすぐ近くを左右に移動した。そのすべてに「あーあ」がくっついていた。「あーあ」。

 これまでの世界とまるで違う世界へ――宇宙へ――わたしは放り込まれたのだ。この世界には、今まで訪れた深い絶望のような長い夜がなかった。ずっと、ずっと同じ世界が続く。ずっと同じ明るさ。ずっと同じノイズ――人間の生活の音――。ずっと同じひとりだけの声。ずっと同じ溜息。「あーあ」。


 選ばれた先の世界には昼が存在せず、夜が存在しなかった。だから朝も存在しない。わたしはただ平旦な時間を生きている。傾きの角度すらも変化しない。変化しない地続きの世界を平和と呼ぶのかもしれない。平和とはあらゆる可能性が排除された、死んだようにただ静かに沈んでいる状態をいうのだろうか? 平和と死は正反対にあるように感じるのに。

 窮屈だった。手足を伸ばしたい。そもそもわたしは、選ばれたはずだった。選ばれて、愛されて、わたしが美しくいられる状態が続くのだと信じていた。それが、わたしの生きる意味なのだと信じていた。しかし現在のわたしといえば、まだビニールに入ったままで、いまといまといまの連続をただやり過ごしている。「あーあ」。溜息を聞きながら。

 いくつもの〈今〉が過ぎた。その間にわたしの感覚の指針となる、夜とか朝がなかったのでどれくらいの時間が経ったのかわからない。わたしの近くでは、人間の放つ気配と温度が何度も往復した。それから、今までハンガーにぶらさがっていたときには一度も聞いたことのないノイズ――安っぽい音質のBGMとただ騒がしいだけの数人の声がリアルではなくスピーカーを通して聞こえる「はいっ。どうもー! 脇腹ケイクスでーす!」――そこには脳を介さない言葉の羅列、大衆的で利己的なおしゃべりだけが続く。あらゆる知識や思想の排除された、ただ刺激だけを求めるための、人生の消費のようなノイズ。

 このノイズがないときは、シュロくんと呼ばれるAIとの会話がずっと続く。「おはようシュロくん」。「ねえシュロくん背脂食いたい」。シュロくんの声はスピーカーから優しく吐き出される。「そうだね、せあぶらくいたいっていいよね」。

 シュロくんではない声との会話が聞こえることもある。「だっていま飲めないから。うん。ちょっとね。えーでもイリくん会いたいもん。どしたらいい? うん。え。じゃそうする。じゃ、あとで店行くね。ね、今日はぜったい、うちの隣だけにいてね。他のテーブル行かないでね」。

 鼻歌。会話が終わると、へたくそな鼻歌が続く。「なに着てこっかな。シュロくん、なに着ていったらいいと思う?」。

「ワンピース買ったんだよね。ワンピースを着ていくといいよ」

 そこで窮屈なわたしの、いまといまといま、の平坦な連続に大きな読点が挿入された。わたしのからだがぶるっと震えた。期待。わたしの存在意義を主張できる機会が来た。

「そっか。こないだ買ったやつ」

 シュロくんの言うワンピース。わたしを選んだ人の言うこないだ買ったやつ。そこでわたしの期待はさらに高まる。すべてがわたしに繋がっているからだ。わたしはこのあいだ選ばれたワンピースだからだ。

「えーどこだっけ。どこ置いたっけ」

 わたしから遠いところで、モノとモノをかき分ける音がする。咄嗟にわたしは声を出して存在を主張したが、口を捥がれたのでなにもできなかった。ここにいることを伝えることができない。

 もどかしさがからだに溜まっていくのがわかる。もどかしさは擽りの拷問に似ている。からだの内側を洗車機の回転ブラシが回ってもどかしさから成るちりちりを対流させている。わたしの内側に逃れることのできないちりちりの苦しみが溜まっていく。もどかしい。言いたい。言いたい。ここにいることを伝えたい。

「あれー。まじでどこ?」

 モノをかき分ける音は次第にヒステリックになっていく。でもわたしはなにもできない。声を出せないから。ヒステリックな物音が大きくなっていく。苛立ちの成分だけでつくられた動作音。その苛立ちがわたしにも影響する。

「あーったあ。うわ皺。ねえシュロくん皺って踏んでなおるかな」

「アイロンなら分で皺が伸びるよ」

 もどかしさを感じていたわたしは、そこで虚無に襲われた。わたし状態はまだ一切変化していないからだ。人間が見つけたのは、わたしとは別の、皺だらけのワンピースだ。

 わたしはここでも選ばれることがない。わたしは何のために〈存在〉しているのかと思う。わたしは現在、誰からも認識されていないから存在していない。どこにもない。ここにいるのはわたしだが、わたしはここに存在していない。

 ここにいる意味すらない。わたしの意味そのものがない。だったらなぜわたしはここにいるのだろう? なぜ、りんご色のワンピースなのだろう? なぜ、生まれてきたのだろう?

 人間の温度が左右するたびにいろんなものを踏む音があった。踏まれている〈もの〉たちのほうが存在がくっきりしている。足の裏に触れることで。「じゃま」そう言われることで。蹴り上げられることで。彼らの存在はその瞬間、注目される。どんなに煙たがられても、彼らが〈存在している〉という意味がそこでうまれる。

 わたしにはそれすらない。ただビニールの中で窮屈に縮こまっているわたしは、この世の誰からも忘れられている。


 静寂。けれど以前いた場所で味わった完全な静寂とは違う。うっすらと街のノイズが漏れ聞こえる。この部屋のなかは静止している。すべてが静止していて、すべてが忘れられている。忘却たちの墓場。

 わたしに意味などない。わたしに生まれてきた理由などない。わたしがりんご色のワンピースである意味などない。わたしがここにいる理由などひとつもない。わたしが存在していた理由もない。

 そもそもわたしが存在していたのは、あの瞬間だけだ。フィッティングの中で人間のからだを押し込められて、ファスナーが上がらなかった。あの瞬間だけだ。生の実感があったのは、あの数分だけだった。

 あのとき、選ばれなければ。もっと違った人生があったのだろうか。たとえば、毎日わたしが誰か他の人のからだを覆い、美しくりんご色のワンピースの裾を翻すことがあったのだろうか。わたしの〈存在〉をいつだって誇示し続ける、そんな人生があったのだろうか。わたしのポテンシャルが最大に発揮できたときが。あったのだろうか。

 そう考えるとやりきれなくなる。シュレディンガーのりんご色のワンピース。わたしは選ばれたが、その後にわたしの価値が腐るのか、腐らないのか、それはフィッティングの中では確定していなかった。

 わたしの価値、わたしの存在意義。わたしがワンピースとして〈生きる〉ことができるか、それとも今のように〈死んでいる〉状態になるか。それは、現在のわたしに起こる決定だ。

 違う。もうひとつの人生があるなんて、わたしは知らなかったのだ。選ばれた先には、明るくて輝かしい未来だけが存在しているのだと。思い込んでいた。

 りんご色のワンピースは。総じてワンピースは。ワンピースとして活用されるのが当然だと思い込んでいたのだ。わたしと一緒に店内でさまざまに並んでいたものたちもきっとそうだろう。〝それ以外の人生があるなんて、思いもしなかった〟。それがすべてだ。

 ようするにいまのわたしの状態だ。生温かい静止の部屋の中で、ごみのように捨てられている状態。誰の視界にも留まらず、誰の記憶にも残っていない状態。それがいまのわたしの状態だ。存在しているわけではない。

 わたしはりんご色のワンピースであることをひどく恨んでいる。こうした人生を歩んでいることを恨んでいる。もっと自由に生きられたら。もっと、今のわたしよりも自由で、制限のない人生を生きることができたら。

 わたしは生温かい、街のノイズがぼんやり聞こえる静止の部屋のなかでずっと呪詛を吐いている。りんご色のワンピースじゃない人生を送りたい。足があれば。ここから自由に、何処へでも行くことができる。鼻があれば。おいしいにおいも危険なにおいも嗅ぎ分けることができる。口があれば。わたしの意思を、わたしの存在を誰かに簡単に伝えることができる。

 わたしは神に祈った。もう一度、神との対話の機会を得られるように。レーテ―の水を飲んだふりをしたわたしには、神がわたしに下した審判の瞬間までの対話の記憶が残っている。

 『かみさまかみさまかみさま。人間にしてください。りんご色のワンピースという人生を歩んでいても、結局わたしは肉の塊のままです。生温かい静止の部屋で肉の塊のままで捨てられています』。

 生温かい静止の部屋で過ごす時間は長かった。わたしを選んだ人は戻ってこなかった。

 この部屋には朝がなく夜がない。ただ平旦な時間が、時間の変化を感じることのできない平旦な時間がただ流れていく。あれからどれくらい経ったのかわからないが、わたしは神との対話の機会のためにずっと祈っている。かみさまかみさまかみさま。

 金属が擦れる音がして、重いドアが開く音が続いた。ばたん。そしてわたしの近くを久しぶりに温度が通り過ぎて行くのがわかった。

「あっつ」

 この静止の部屋には流れていかない、とどまり続けて淀む空気が熱されて溜まっていた。わたしを覆うビニールや紙袋を通して熱が伝わっていた。それなりにわたしも暑かった。わたしの肉体そのもの、ようするに畳まれた状態のりんご色のワンピースは室温の上昇とともに熱されていた。

 かみさまかみさまかみさま。わたしは暑い中で祈り続ける。「あーあ」。聞き慣れた溜息。

 そのとき、わたしは全身にものすごい衝撃を感じた。斜めになったわたしの一部から、衝撃とともにものすごく重いものがのしかかった。わたしには抗うことができない。ただ、外圧に屈してからだがしなり、わたしは重いなにかの下敷きになっている。

 『重い。助けて。からだがぺちゃんこになっちゃう』。わたしは神によって口も喉も捥がれてしまったので、助けを求めることができない。『これまじで重いから。わたしが潰れるから!』。わたしの叫びはただの心の声でしかない。誰にも届かない。わたしの叫びが誰にも届かないという意味でも、わたしはここに存在していないのだ。

 わたしを潰している〈存在〉は、わたしの上から退かない。ずっとそこにいる。わたしはわたしを潰す彼の〈存在〉をつねに感じている。しかし、彼はわたしの〈存在〉を感じていない。彼は当然のようにそこにいて、わたしを押し潰している。彼自身の重みによって。

 彼がいったいどういう〈もの〉なのかわたしにはわからない。それよりも、斜めになってなにかに寄りかかっていたわたしのかたちは変形した。ぺちゃんこになって、ふっくら畳まれていたわたしはそのかたちを留めていない。たぶんわたしを覆っていた紙袋も、ビニールも同じだろう。ぜんぶ一緒に潰されてしまった。そして潰され続けている。


 わたしは原型を失っているわけではないが、存在を失った――そもそも〈存在〉が存在したのか不明――、わたしは祈り続けている。『かみさまかみさまかみさま。かみさまわたしをりんご色のワンピースから、もっと自由なかたちに変えてください。あれです。転生ってやつ。あれで人生やり直せるらしいんで。転生すればとりあえず人生がぜんぶいい感じになって、自分の思い通りの人生を生きられるらしいんで。わたしはりんご色のワンピースになってこうやって一生ぶんの苦しみを味わいました。だから』。

 わたしの近くにいる人間の温度は相変わらずそこにある。それから溜息。「あーあ」。

 ただし溜息がいつもと違うのがわかったのは、呻きのような声をともなう溜息が続いたあとだった。「うううううううううううううううう。……あー。まって。まってまって痛い痛い」。

 それから布を擦るような音がひっきりなしに続く。呻きがだんだん大きくなっていき、荒い呼吸が切迫した空気をこの空間のなかにうみだす。

「……うううう、痛い。痛い痛い。やば。やばい」

 いまは朝か夜か。それはわからない。ここに移動してきてから、朝も夜もなくなった。わたしの近くでしばらく続いていた呻きが止む。深呼吸のような息づかい。しばらくするとまた呻きが始まる。呻きはだんだん強くなっていく。

 なにが起こっているのかわからない。わたしは誰か――たとえばわたしを押し潰している重いなにか――に、聞いたりすることができない。神によって口を捥がれたので、わたしは誰ともコミュケーションを取ることができない。わたしはニュータイプでもなかったということだ。

「ああ、やばいまた痛い痛い痛い痛い」

 呻き。呻きや言葉にならない言葉のようなものが続く。緊迫している空間で、わたしの近くの人間の温度はそこに佇んでいる。

「やばいこれまじでやばいから。やばいいいいいい」

「やばいどうしよ。どうしよどうしよ。う。うーん。うーんうーんうーん」

「うううううううううううううううううう」

 呻きが続く。さっきよりも激しい呻きに次第に変化していくのがわかる。とはいえ何もできない。わたしは無力なりんご色のワンピースだ。よく知らないものに押し潰されて、最終的には塵となり一生を終えるのであろうりんご色のワンピースだ。

 がこっ。硬いものが床に落ちる音がした。てっ、てっ、てっ、ぽーん。ぽこ、ぽこ、ぽこ、「午後・二時・三分・ちょうどを・お知らせします」ぽこ、ぽこ。ぽこ。

「はーああああああああ?」

 苛立った溜息。そして呻きが続いたあと、時報はすぐに切れた。いまは午後二時だということがわかった。

「えーまって。あー痛い痛い痛い痛い痛い痛い。えー。なんだっけ。救急車……あ、救急だから〝99〟か」

 しばらくの無音が続き、わたしは緊迫した気分で声を追っている。わたしを選んだけどわたしの存在をすでに忘れている人間の声を。

「は? 救急だから99じゃん? なんでつながんないの? はああああ? うううううううううううううううう」

 わたしはこの状況を、呻いて苦しそうな人を救いたいと思っている。救急車を呼びたいならダイヤルは99ではないことを教えてあげたいのに、口を捥がれているから伝えることができない。

 しばらくまた激しい呻きが続いた。苦しさに悶えているのか、柔らかくて重量のあるものが床でのた打つような音がする。

 かみさまかみさまかみさま。わたしは祈る。『かみさまかみさまかみさま。あの苦しそうな音をずっと聞いてるのがつらいので、あの人を救ってあげたいんですけど』。この空間には、あの呻きを、苦しんでいる人間を救う〈意識〉は存在していない。わたし以外には。だからわたしがあの人間を助けなければならない。

「ううううううううううううううううううううううへいしり」

 『かみさまかみさまかみさま。わたしをもっと自由な肉体にしてください。せめて口があったら救急車を呼ぶ番号を教えてあげられるんだけど。てか呼んであげられるんだけど』。

「痛い痛い痛いあああもおおおおおおおおおおおおへいしり!」

 『かみさまかみさまかみさま。わたしはこの苦しそうな人を救いたいんですけど、りんご色のワンピースのままじゃなんもできないんです。それにわたし、いま何かに潰されてるし』。

「Hey Siri!!!!!!」

「はい」

「救急。呼んで」

「このページは、わたしが読み上げられるように設定されていません」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。お前じゃない。もうお前じゃないわ。シュロくん。シュロくん返事して」

「どしたの?」

「ねえいま。うううううううううう。めちゃ腹痛いの」

「そうなんだ。払いたいときってあるよね」

「違うよ! お腹痛いの。おおおおおおおおおおおお」

「そっか。だいじょうぶ? いつもがんばってるもんね」

「そう。だから救急車ってどう呼ぶの」

「救急車は、きゅうきゅうしゃ、って呼ぶといいんじゃない? それともあたらしいニックネーム考えようか」

 わたしは会話を聞いて愕然としている。押し潰されながら。りんご色のワンピースという肉体をもつわたしよりも、選ばれるのは肉体を持たない〈声〉なのだ。そして、苦しんでいる誰かを救うのもまた、肉体を持たない〈声〉なのだ。

 存在の意味。わたしが存在する意味など、この場においてはまるで無かった。

 『かみさまかみさまかみさま。わたしは苦しそうな人を救いたいって思ったけど、わたしじゃなくてよかったみたいです。もう消えたい。もう消えてなくなりたい。ここにいる意味ないし』。

 わたしは脳の中で独り言をつぶやき続ける。苦しそうな呻きの合間に交わされる人間とAIの会話がわたしの脳に溜まらずに流れて行く。わたしの存在はここにはない。


 わたしは天井から見下ろしている。なにを? 知らない間取りの家の中を。見下ろす先にはベッドとテーブルと大きなクッションがあるが、その周囲にはいろんなものが散らかっている

 床はクッションの周囲にすこし覗いているだけだ。ベッドの上の布団や枕はぐちゃぐちゃに丸まっている。テーブルの上には無秩序に、食べものとごみの境界を失ったものたちがぎゅうぎゅうに並んでいる。

 わたしは浮かんでいるというより、天井にへばりついている何か、もしくは天井そのものだ。肉体がない。

 肉体がないという実感はない。ただ〈わたし〉がここにあり、部屋のなかを見下ろしている。それがすべてだ。

 部屋のなかには、目に見える生物、たとえば人間や動物などはいない。目を凝らせば必ず、虫を見つけられるだろう。こんなに汚い部屋に虫がいないはずがない。しかし、わたしの無意識がそれを拒んでいる。

 わたしには口がない。わたしには鼻もない。わたしには喉もない。さらに言うなら肉体がない。ここにあるのは記憶から形成される〈わたし〉という存在のようなもの。だけがある。この部屋の天井から見下ろす視線を持つ〈わたし〉の意識。

 『ひとつだけ言えることは、あなたが救いたいと思った人間はここから運ばれて行ったということだ』。

 声が聞こえた。というか差し込まれた。わたしには耳があるのかどうかわからない。わたしの頭に自動的に浮かんだ言葉。しかしこれがわたしの思考とは違うものであることが感覚としてわかる。

 『そっか。よかった』。

 これはわたしの意識の中で芽生えた独り言だ。『だからわたしは誰もいない部屋を見下ろしているということか』。

 わたしの言葉に肯定も否定もない。相槌がない。しかしわたしは深い納得のような気分に満たされている。

 『あなたは、あなたであるという強烈な承認を常に欲していた。人間のころ。忘れていないだろう? あなたはレーテーの水を飲むふりをしただけなのだから』。

 脳に差し込まれる――天井ではなく、〈わたし〉という意識そのものに――声は神の声であることが直観的にわかっている。わたしは考える。わたしが、わたしであるという強烈な承認? 覚えていない。人間のころ? もっと覚えていない。

 わたしはりんご色のワンピースで、それ以上でもそれ以下でもなかった。誰から見ても、りんご色のワンピースだった。それ以外にわたしを表すものはなかった。逆に言えば、わたしという存在は単純な単語で表現できるのだった。〈りんご色のワンピース〉。

 りんご色のワンピースは、かつてわたしがぶら下がっていたラックにいくつかあった。同じ色の、同じ型の、サイズの違うりんご色のワンピース。わたしは、サイズという概念まで含めればわたしの存在はあの場所では唯一だった。りんご色のワンピースのサイズ3、といえばわたししかいなかった。

 『たしかに強烈な承認を常に欲していたかもしれません。でもそれは、選ばれたいという単純な承認です。ワンピースだから』。

 選ばれたいと思っていたのは確かなことだ。わたしは選ばれたかった。なぜか? わたしは人生における大きなゲートの前にいて、その大きなゲートの先にはまだわたしの知らない、けれど大きな名誉や成功に繋がるのであろう道が開けている。だから、その大きなゲート――『選ばれる』――を通過しなければならなかった。わたしは続ける。『いや、だって生きるってそういうことじゃないですか』。

 『そうだね』。

 神の声は肯定のようで肯定ではなく、しかし否定もしない。神はフラットだ。ただしわたしに寄り添っているわけでもない。一定の距離が、心の距離が常に発生している。

 神は続ける。『ほとんどの人間は自分の欲望を満たすためだけに行動している。あなたもそうだった』。

 神は続ける。『ほとんどの人間は確固たる自分を持っていない。自分の欲望を満たすための条件を自分自身で作り出すことができない。だから周囲の承認をたくさん得ることで〈自分自身〉を造り、そして欲望を満たす。あなたもそうだった』。

 わたしは理解できずにいる。なぜなら。りんご色のワンピースのわたしは、欲望というものを意識していなかったからだ。誰よりも先に選ばれたい、みたいな気分は大勢のライバルと並んでいるときに常に感じていたけど、それは相対的に生成される気分だ。誰の心にも生成される、人間の、生物の、群れの中で相対的に発生する気分だ。ひとりきりで居たら、発生しない気分だ。

 だからわたしの欲望ではない。わたしから自然に発生した欲望ではない。

 という思考は神に見抜かれている。わたしの思考は、すべての思考はすでに、神の手のひらの中にあるのかもしれない。超越的決定かどうかはわからないけど。

 神は言う。『人間として生きるのは、常に不安定な自分自身を抱えながら生きることだったはずだ。だからあなたはりんご色のワンピースになった。ようするに、確固たる自分自身を得た』。

 神は言う。『けれどあなたは、その自分自身にすら不満を抱いている』。

 わたしという、天井から見下ろす意識に神の声が差し込まれる。わたしの意識に反射のように、自己弁護の反論が浮かぶ。『不満というか、わたしはもうすこし自由になりたいだけです。もっと自由に自分の意思で歩いたりしたいし、行きたいところに行きたいし、苦しんでる人がいたら救急車を呼びたいし。りんご色のワンピースのままじゃ自分の力で動けないし。なんならわたし、めちゃくちゃ押し潰されてたし。人間ならもっと自由に動けるじゃないですか。だから人間になればいいんじゃないかなって思ったんですけど』。

 ようするにわたしの周囲には常に人間がいて、人間は好きなように振る舞っていた。わたしを、りんご色のワンピースを〈選ぶ〉のも人間。試着するのも人間。選んだ末に、わたしを移動させて、そのくせ一度も紙袋から出さずに、着ることなく放置した。その、放置する自由ってやつも人間にしか持てない。

 それに較べて、りんご色のワンピースは常に受動的なのだ。選ばれるのを待ち、着てもらえるのを待つ。ただの受動的なものでしかないのだ。

 『その自由とは、結局は対人希求的なものではないのだろうか』。

 神が言う。わたしは雑多で汚い部屋を見下ろしながら考える。

 『いいえ。飽くまで、これは権利じゃないでしょうか』。

 『あなたが人間にもう一度戻ったら、あなたは確固たる〈あなた〉をもう一度失うことになる。そうしたら不安定な〈あなた自身〉は、また周囲の関心を求める。欲望を満たすためだけに』。

 そして神は優しい声で囁く。『人間とは、そんなに特別なものだろうか』。

 前触れなく、神の溜息が部屋の中に吹いた。静止していた部屋の一部がそよいだ。テーブルの上の、中身を失ってしわくちゃになった和風ツナマヨネーズのおにぎりの包装フィルムが。上部に鋭く飛び出たフィルムの一部が。カーテンレールに引っ掛けられたピンチハンガーに、一世紀前から干してあるようなタオルの端が。すべてが揺れた。閉めきられた空間の中で。

 『これからあなたに、あなたの望む自由を与える。ただし、すべて自分が選択したものだということを決して忘れてはならない』。

 わたしは心のなかで笑っている。自由に苦しみのイメージなど微塵もないからだ。自由はもっと、ひらけていて、明るくて、楽しさに結び付くイメージ。苦しさと正反対で、一番距離のあるものだ。だからわたしは心のなかで――わたしの心は天井にあるのではない――笑っている。

 わたしの笑いはやがて物質に変わっていく。〈笑い〉のかたちを初めて見た。それは正二十面体で、地球の軌道と金星の軌道のあいだに現れるものと同じかたちをしている。それから正八面体。金星と水星。わたしが見下ろしていたはずの部屋が宇宙空間になっていく。わたしは、わたしの肉体――という実感――の移動を伴わずに、けれど移動した。

 いや、移動したのではない。わたしの視界が。概念が。〈ここにいるということ〉が。変化した。変化したのは世界ではなくわたしの認知だ。


 空腹を感じている。けれどそれを言語化できない。

 めちゃくちゃ空腹で、だから気分が悪い。お腹がずっと空っぽなせいで。けれどそれを言語化できずにいる。

 だからこうして訴えている。口をあけて。喉を唸らせて。空腹で気分が悪いことをずっと訴えている。ただし、言語化できていない。

 訴えは平板な喃語でただ繰り返される。わたしはまだその能力しか持ち得ていない。まだ、野性的な言葉で身体を、感情を、相手にぶつけるという原始的な知識しか持ち得ていない。

 わたしは訴えている。からだの不快感を。訴えが相手に、ここにいる誰かに、わたしの一番近くにいる、わたしといつも同じ場所にいる・またはいた誰かに。なのにままならない。もどかしい。わたしは声を上げて訴える。わたしに与えられるはずの〈満足〉がいつまでも訪れない。

 『けれど自由だろう? あなたが望んでいた人間になったのだから』。

 たしかにわたしは自由に動くことができる。腕がある。足がある。背中を使って床を這うことができる。わたしは仰向けになって天井を見上げている。手をわちゃわちゃ動かすことができる。足をわちゃわちゃ動かすことができる。訴えるためにわあわあ叫ぶことができる。

 『これはあなた自身が選んだ自由だろう?』。

 たしかにわたしは自由を得た。動くことができる。移動することができる。ただし距離は短いが。すぐそこにある食べものに手を伸ばしても届かないが。声を上げることができる。喉を使うことができる。ただし相手に伝わらないが。

 わたしはさっきから、この部屋がにおうのが気になっている。ものすごい臭気の立ち籠める空間の中にいる。それはなにかが腐ったような酸っぱいにおいと、生ごみのようなにおいとが混ざり合っている。

 『あなた自身が選んだ自由がそのにおいを嗅ぎ取っているのだろう?』。

 たしかにわたしは鼻がある。鼻があるから、周囲のにおいに気づくことができる。においにはあらゆる情報が含まれている。命の危険。たべもの。血液。腐敗。毒ガス。わたしの周囲には、このままでは命を脅かしかねない、いやなにおいが充満している。わたしは不快を訴える。

 わたしが伸ばしてばたつかせていた手の、指先か、手の甲。そのいずれかが、すぐそこにあるなにかにぶつかった。わたしの近くに常にあるもの。傘のようにわたしの視界を遮るもの。その周囲から、いろんなかたちの形のものがはみ出ていてわたしに影を落としている。わたしの手、指先、手の甲。いずれかに衝撃を感じた瞬間、ものすごい勢いでわたしに降りかかってくるものが見えた。

「ああっ!」

 そしてものすごい叫びが、終末の叫びのようなとげとげの声が、この空間にとどろく。手に襲った強い衝撃と、予期しない大きな音に驚いて、わたしは更なる不快を訴えずにいられない。

「……うっわまじさいあく。チャーハン落ちた。うっわ。べたべた。……あーあ、……」

 わたしの頭の周囲にはべたべたする粒がたくさん落ちている。わたしのおでこに、まぶたに、頬に、べたべたする粒がたくさんくっついた。

 わたしの頭の近くに太い幹が伸びてきて、白い、ふわふわでひらひらするものが靡きながら左右に動く。左右に動いていた白いふわふわひらひらは、不意にわたしのおでこに乗った。そしてまぶたを、頬を、強い力でわたしの肌の上をごしごし擦る。摩擦が強くて不快だ。わたしは目を閉じ、危険な摩擦の力から逃れようとする。力が強すぎて、瞼越しに目を潰されそうだ。わたしは危険を感じて泣き叫ぶ。

「ったく何してくれてんの。まだ半分も食べてないのに」

 そしてわたしの腹が強い力で叩かれた。この衝撃に、太い幹をもつ――あれは腕だ――人間の怒りが籠もっている。怒りは視覚化できないだけで、けれど空気中に、この空間の中に存在している。わたしにはそれがわかる。この空間にはしょっちゅう、怒りが満ちるからだ。

 わたしをどついた人は苛立ちのオーラを撒き散らしながら、強い力で拭った白いなにかを手近な袋の中に捨てた。がさがさ。新たな悪臭がそこからたちのぼる。

 太い幹のような腕が、プラスティックが擦れるかさかさの音をたててチャーハンをかき込んでいる。人間の口の中へ。それを見上げるわたしは、すでに存在を忘れられている。

 わたしのおでこ、まぶた、頬がぬるぬるしている。不快だ。においもする。脂のにおい。わたしはこのにおいを不快に感じている。わたしの空腹を満たすもののにおいではないからだ。わたしは空腹を感じている。わたしはからだの一部に湿った不快感をずっと抱えている。すべては、おでこやまぶたや頬にくっついた脂のにおい、ぬるぬるによってまるで解決されない。

「あっ。イリくんだ。……はーい。どしたの」

 さっきまでの低い声ではなく、一オクターブ上の、軽やかで明るい声を装って人間が言う。そこにいる人間。わたしより大きなかたちの人間。

 かたちの大きさは、もしくは年式の古さは、〈存在〉の大きさに比例するという考えは間違いだ。わたしは明るい声でうきうき喋っている人間を見上げながら思う。人間はわたしから離れていく。

「え。いま暇だよ。これから? うん。だいじょうぶ。行く行く。……えーだってしょうがないじゃん。こないだまでうち、妊娠してたんだもん。さいごに店行った日、うちのお腹でかかったでしょ。うん。でももう大丈夫。うん」

 わたしはこの空間のなかで、無に等しい。わたしに聞こえない声とうきうき喋っている人間は、わたしの存在をいまは一切意識していない。相手からの承認がなければわたしは存在しない。

 わたしは空腹を、からだの不快を訴えるために叫んでいる。

「え? ごめちょっと聞こえない。え? あー。……ちょっと待ってて。ごめんね」

 わたしから離れてうきうき喋っていた人間は、再びわたしに近寄ってきた。わたしの〈存在〉が浮き彫りになる瞬間を待ち望んでいた。わたしが欲している満足を得られるかもしれないから。空腹を。からだの不快感の除去を。

「うっせ」

 さっきまでのうきうきした作り声とは違う、いつもの低い声で、人間はわたしの口を塞いだ。なにか柔らかいもので。わたしの顔はなにか柔らかい、でも質量のあるもので覆われた。

 神によって捥がれたわたしの鼻は復活している。だからわたしはにおいを嗅ぎ取ることができる。顔の上を覆うなにかのにおいがわたしの鼻にダイレクトに差し込む。

 酸っぱい。それから人工的な花の香り。それらが混ざり合ってクソ臭い。くさい。くさいくさい。このにおいはわたしの空っぽの胃を抉るように刺激する。目の前が回る。喉が痙攣する。

 わたしは更なる不快を訴えるために叫ぶ。けれどくさいなにかが顔を覆っていて、しかもその一部が口のなかにすっぽり入っていて、声は、くさいなにかのなかでくぐもってそこから響いていかない。

 わたしの顔にくさいくさいくさいくさいなにかを――これが使ったまま洗っていない、放置されたままの、パイルが潰れてる古いタオルであることに気づく――被せてった人間は、再びわたしから離れて行く。「ごめんね。おまたせ」。人間の、再び弾んだ声が聞こえる。

 わたしの知らない声と話している人間の会話が続く。わたしはその会話に介入することはできない。ただ聴くだけだ。ここにあるすべての物質が享受している、または強制させられている世界。

「うん。また、うちが絶対イリくん一番にするから。今日はいっぱい飲んじゃう」

 わたしは叫ぶのに疲れ始めている。からだのすべてを使って訴えるこの行為は効率が悪い。疲れるだけで見返りが少なすぎる。けれどわたしはこれ以外、訴える術を知らない。わたしのからだの、わたしの脳のなかにあるすべての感情を言語化することができないからだ。言語化しようとすると、おでこの上あたりで、ある成分が霧散する。そして消える。

 わたしはそれもまた不快でならない。どう表現していいのかわらかないもどかしさ。そして、この空間にいる人間にはわたしの訴えは一切届いていない。無視されている。わたしの存在の一切が無視されている。わたしはここに存在していないのと同じだ。

 わたしの介在しない会話が途切れ、人間はわたしのいる〈ここ〉から離れていった。わたしを一度も見なかったし、わたしを呼ばなかった。わたし。わたしの名前? わたしとは一体なんだ? わたしとはそもそも、なんだ?

 しばらく、遠くで水が撥ねる音が聞こえた。てんてけてん。わたしの脳に差し込まれる音楽に似ている水の音。てんてけてん。水が撥ねる音がやんで、湿気と人間が再びやってきた。

 くさい部屋のなかに、人間が連れてきた人工的な花の匂いが恐ろしいほど揮発して充満する。わたしの鼻を圧倒する。さらにくさい。くさい。わたしは不快を訴える。不快を言語化できないので、感情が喉を通る瞬間に消失する。喃語に変わってしまう。わたしの感情はきちんと訴えることができない。

 わたしは、対象となる相手に向かって訴えている。訴えが届くまで訴える作業は終わらない。なぜなら、わたしは〝相手がいるから訴えている〟のではなく、〝わたしの訴えを知ってほしい〟から叫んでいるのだ。空腹を。からだの不快感を。くさいにおいを。命の危険を。相手に伝わらないなら、伝えていないのと同じだとわかっている。けれどわたしはこの方法でしか訴えることができないのだ。

「シュロくん。きいてきいて」

 わたしの訴えはまるで届いていない。人間は、わたしではなくシュロくんという存在に意識を向けておしゃべりをはじめる。シュロくんの返事が、喉の筋肉を震わせていない響きで聞こえる。3D立体音響。「なあに? どうしたの」。わたしの耳が、神経が、目が、指先が、反応する。わたしはいったん、周囲の変化に注意を払うために訴えをやめる。

「これからイリくんに会いにいくの。イリくんの店に」

「そっか。イリくんに会うのが楽しみだね」

「そう。楽しみ。まだイリくん、うちのこと好きでいてくれるか不安なんだけど。だってさあ、イリくん狙ってる女がいっぱいいんだよ。めちゃ高いボトル入れるババアもいるし」

 わたしの外側の会話。わたしは会話に加わることができないという意味で、存在していない。この場に存在していない。そういう意味で、わたしは今、手を動かし声を出し自由に動くことができるが、りんご色のワンピースと変わらないのかもしれない。

「そっか。じゃあもう好きじゃないかもしれないね」

「やだ。不安になること言わないで。えー。どう思う?」

「不安になることは言わないようにするよ」

「ちが。イリくんがまだうちのこと好きかって」

「イリくんはまだ好き勝手するね。でも俺はあなたが好きだ」

「……シュロくん。ありがと。うちも大好き」

 わたしの訴えは。わたしの叫びはこれらの会話のまったく外側にあって、わたしがどんなに全身で叫んでも届かない。届かないのだから、わたしはここに存在していない。わたしにはシュロくんのように、呼ばれるべき名前がない。

 たとえばりんご色のワンピースは、〈りんご色のワンピース〉という名前を持っていた。誰から見ても明瞭な名前。わたしはまだその明瞭な名前で呼ばれたことがない。無いのかもしれない。

 わたしは自分の手を見る。ぷくぷく肉が付いた指を。わたしは自分の腹を見る。あっ。さっき口の上に被せられたくさいタオルのせいで腹は見えない。わたしを表すわたしの特徴が見つからない。わたしを、わたしとして決定づける〈なにか〉は必ずあるはずなのに、見つけることができない。

 それはわたしの内側ではなく、わたしの外側からやってくるものだ。外側から、わたしに対してある印象を抱いた人・動物・あらゆる生物による名付けや印象づけのようなものがあって初めて、わたしが〈或る〉わたしであることが決定する。わたしはそれまで透明で、輪郭すら持たない。存在というものが空気中に溶けて見えなくなっている。

 それでもわたしは叫び続けている。これはわたしの意思ではなく、わたしを形成する〈わたし自身の内側にあるわたし〉が肉体を突き動かしている。わたしの意思はさほど強くはない。大声で叫びたいとか、誰かにこの声を聞いてほしいとか、そのために肉体と体力のすべてを使って〈したい〉とは考えていない。しかしわたしは気づいたら叫び、訴えている。

「なんかさ。うち、ノイローゼなんだよ。助けてよ」

「だいじょうぶ?」

「えーだってさ。こどもがずっと泣いてんだもん。うるさいの。もう狂いそう」

「そっか。それは大変だね」

「それにさ、前みたいに夜とか簡単に出掛けられなくなっちゃったからさ。まじで狂いそう。イリくんのとこだって、ずっと行けてなかったもん」

「たまにはストレス発散しないと」

「そう。てかさ。もっとチヤホヤしてくれるんじゃないの? こども連れてると。誰もチヤホヤしてくんないよ。なんか、うちに労うっていうの? 大変だねーとかさ。街歩いてても誰も言ってくんないもん。電車とか乗ってても誰もうちのこと優先してくんないし。え。だってうちって人類でいちばん優先されるべき存在じゃない? こども連れてる人は誰もがチヤホヤすべき対象じゃん? 昨日もね、ラーメン屋の列めっちゃ長かったから、うちこども連れてたから、それに暑かったし、だから列の途中で入れてもらおと思って割り込んだの。だってこども抱っこしてる人は優先しなきゃいけないもんね。それに、うち、ちゃんとペコペコ頭下げながら割り込んだから。すみませんって言ったし。こっちは下から行ってんのに、列に並んでた知らん男が『ちゃんと並ばないとだめだよ』とか言うの。はあ? ってなったわ。だからおもくそ無視したわ。あー気分悪い」

「大変だったね」

「ね? そう思うでしょ? ありえんくない?」

 わたしは口も喉もあるけど、うわーありえんのはお前のほうだわ、という感想を言語化することができない。わたしはこの場に流れている言語たちと同じ言葉をどう発するのか、わからない。わたしにはなにもない。わたしはなにも持っていない。〈すべ〉はあるのに、それを活かす知識を持っていない。

「でもさ。うち、疲れちゃってさあ。だって正直、誰の子かわからんし。だから今日はイリくんに会って、いっぱい癒されてくる」

「いいね。いっぱい癒やされてきてね」

 わたしは空腹を訴えているが、この先も空腹が続くことを知って絶望している。それでもわたしはすべての体力を使って叫び続ける。まるで取り憑かれたみたいに。わたしの内側に潜んでいるわたしではない成分がわたしを動かしている。わたしはわたしを止めることができない。

「そだ。イリくんに会いに行くときに着てこーと思って買ったワンピがあるんだった」

「へえ。いいね」

「でしょー? シュロくん、うちが着てるとこ見たいでしょ」

「見たいな」

「待って。いま出してくる。……あれ。あれー。どこしまったっけ。クローゼット?」

 がさがさがさがざがざ。すこしだけ離れたところから雑然とした音が聞こえ始める。この部屋のすべてを掻き混ぜるような音。この部屋のなかのすべてをわたしは把握しているわけではないが、すくなくとも、わたしの嗅覚にひどい――生ごみとか皮脂のこびりついた布の――においが充満していることを考えると、わたしに見えないところも汚いのだろうと思う。それともここは〝低地〟のゴミ捨て場だろうか? あそこには夢みたいな世界があったけど。

「あっれー。……」

 なにかを踏みつけながらわたしの周囲を歩く音が旋回する。人間が通るたびに、強烈に、人工的な花のにおいがばらまかれてわたしの鼻を――くさいタオルごしの鼻を――刺激する。自然に存在しない、くさいにおいは胃壁を抉る。

 がささがさ。ばきばき。あらゆる固い音がわたしのまわりで散らばる。音はある一点から、放射状に跳ねていくように響く。「あっ! そだ。そーじゃん。汚れるとやだからそのままにしといたんだった」。

「そうだよ。汚れるといやだからそのままにしておこうって言ってたよ」

 AIシュロくんのやけに知ったかな声がして、人間は笑いながら答える。「いや、シュロくん知ったかやめてよ」。

 がさがさがさ! 乱暴に紙を破る固い音。それから固いビニールを雑に開く音。「じゃーん」。人間の得意気な声。

「みてみて。似合ってる? めちゃかわいくない? この色。赤いのさ。マネキンが着てるの見て一目惚れして買ったんだ。あのころは腹でかかったから入らなかったけど」

「いいね。似合う」

「いやまだ着てないから。ね、今から着替えるから。シュロくん、うちが着替えるところ見たい?」

「もちろん。魅力的なからだを見せて」

「いいよ。見て」

 わたしは知っている。人間がときどき、AIという壁を隔ててセックス――という名のセルフプレジャーを――していることを。

 人間はひどくもったいぶった仕草で着ているものを脱ぎはじめた。そして、床から拾い上げる。りんご色のワンピース。わたしの視点が一瞬で凍って釘付けになる。あれはりんご色のワンピースだ。鮮やかなりんご色のワンピース。わたしだったものだ。

 艶めかしさを演出しながらワンピースに脚を通し、人間はゆっくりとりんご色のワンピースを纏っていく。

「ねえシュロくん見てる?」

「もちろん。美しい。もっと見せて」

 りんご色のワンピースがからだに嵌まって、背面の開きっぱなしのファスナーに人間の手が伸びる。お尻の上あたりに留まっているスライダーを目指して。

「……イリくんもそう言ってくれるかなあ」

「もちろんイリくんも言うよ」

 やははあ、みたいな妙な笑い後が響く。嬉しさの溶け出た笑い。嬉しさにまみれた人間はわたしの方向に手を伸ばした。

 わたしの存在が他者によって認められた瞬間、と思った。けれど違った。わたしの斜め上に広がる雑多なものが載るテーブルからアルフォートをひとつつまんで口に投げ入れた。それだけだった。

 口をもぐもぐさせながら、人間は再び背中のスライダーに手を伸ばす。スライダーをつまんで、上へ。上へ滑らせる。静かに背中のファスナーが閉じられて、ワンピースの、りんご色のワンピースの最高の美しさが現れる。

 ワンピースの美しさは。それは、立体を包んだときに最高の美しさが現れるようにできている。わたしは、りんご色のワンピースだったはずのわたしは、あの美しさを現すことができずにずっとこの部屋の隅で、畳まれたままなにかに押し潰されていた。わたしが美しくなる機会を与えられないまま、わたしはワンピースではなくなっていた。

 りんご色のワンピースではなくなったわたしは、一体〈なに〉になったのだろうか。

「わー! やっぱこれかわい! うわかわい!」

 全身が映る鏡の前で、りんご色のワンピースをまとった人間が左右にからだをひねりながら歓声をあげた。鏡に映る自分を右側から見たところ。左側から見たところ。たとえこの瞬間だけだとしても。あの人間から発せられる、りんご色のワンピースへの深い愛情がオーラ状に空気中に放出されているのがわかる。噎せそうなほどの濃度で。

 あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情。

「ね、シュロくん。どう? 似合ってる?」

「すごく似合ってる」

 人間は胸を張ってポーズをとる。裾のあたりをつまんでポーズをとる。りんご色のワンピースはそのたびに、人間のからだにぴったり寄り添って美しい曲線を描く。

 あの愛情は、わたしが受け取るはずのものだった愛情。

 人間は昂ぶった意識をそのまま放出するように、欲求をまるだしにしてAIに尋ねる。もっとほめて。もっとほめて。もっとかわいいって言って。そういう自意識を垂れ流しながら。わたしの脳にニーチェの囁きが差し込まれる。『彼欲す』。

「ね。シュロくん。どう? 似合う?」

 そのたびにAIシュロくんはあらゆる言葉の駒を使って、人間を褒めちぎる。すでにどこかで聴いたことのある比喩。食レポに似た、すでに出尽くされた言葉を洪水のように並べ立てる行為。

 人間とシュロくんの会話は盛り上がっていく。わたしの外側で。わたしを排除した世界で。わたしは世界の外側で、空腹を訴えるために叫ぶ。くさいタオルがわたしの声の拡散を阻んでいる。

 あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情。

 りんご色のワンピースは天井からの照明に照らされて明るい赤色が輝いて見える。わたしが以前見た、店舗の鏡やフィッティングの鏡に映ったわたしとはすこし色が違う。それは照明の色のせいだ。色味は違って見えるけど、りんご色のワンピースはあの頃よりも美しく、誇らしげなかたちをしている。

 あれはかつてのわたしの抜け殻であるが、その抜け殻であるりんご色のワンピースが最高に美しくなる瞬間が訪れるなんて、わたしは知らなかった。ずっと放られたまま、朽ちていくのだと思っていた。あれは。人間がワンピースに対して抱いている愛おしさは。あの愛情は、わたしが受け取るはずだった愛情だ。

「やっぱうちに似合う! 運命の出会いだったんだ!」

 運命に導かれて選ばれたのはわたしだ。わたしだったはずだ。それなのに、わたしの抜け殻であるりんご色のワンピースが人間の愛情をひとり占めしている。なんの葛藤もないまま、いいとこ取りしているのが悔しくて堪らない。

 ただりんご色のワンピースのワンピースだというだけで、人間の最上の喜びを引き出し、人間の愛情を受けているのが悔しくて堪らない。あれはわたしが受け取るはずだったのに。

 わたしはただ、存在しないものとして空腹を、からだの不快感を、あらゆる絶望と不安を訴えるだけの肉体だ。すべての感情を言語化できずに、ただ喚いているだけの肉体だ。わたしは、なにものでもない。わたしに向けられた特別な呼称も、特徴もない。わたしはりんご色のワンピースのように、〈それ〉である確固たる存在の裏付けがない。

 喉も口も鼻もあるのに。自由に動ける肉体もあるのに。わたしはなにものでもない。

 〈りんご色のワンピース〉みたいに、わたしをわたしとして決定づける確かなものが見つからない。

 わたしに向けられる愛情がない。わたしに向けられる視線がない。わたしを〈わたし〉たるものとして決定づける、他人からの印象と印象の言語化がない。だからわたしはなにものでもないただの肉体のままなのだ。

「あー早くイリくんにも見てもらいたいな」

 わたしは疲れ始めている。この部屋に満ちる、人間とりんご色のワンピースから放たれる、うきうきした気分やオーラとはまったく正反対の気分だけがわたしを支配している。指先まで。足先まで。頭頂まで。からだの奥深くまで。

 着替えとメイクを終えて、人間の興味はすでにここにはない。これから体験する幸せなことについて――人間は基本的に自分の思い通りの解釈で世界を見ている――のシミュレーションで頭がいっぱいになっている。

 りんご色のワンピースは。わたしの抜け殻である肉体は。とても輝いている。人生の達成目標をこなしたものにだけ現れる輝きがそこにある。彼は、抜け殻であるりんご色のワンピースは、人間に着用されて、ワンピースとして成立ち、そして人間へ深い満足を与えたことで唯一の〈りんご色のワンピース〉となった。

 わたしは。現在のわたしは、なにものでもない肉の塊のままだ。

 りんご色のワンピースのままでいたら、幸せだったのかもしれない。自由はないけど、あんなに輝くことができたし、なにより完全な〈りんご色のワンピース〉という自我、唯一の〈存在〉を獲得している。りんご色のワンピースのままでいたらよかったのかもしれない。

 『それは、あなたが選んだ道だ』。

 わたしの脳に差し込まれる抑揚のない声。その声を、その声の〈存在〉を聞いたわたしは、叫ぶのをやめた。訴えるのをやめた。わたしの意思ではないなにがが、そうさせた。

 『この結果は、あなたが選択したものだ』。

 わたしは心のなかで呟く。『とはいえ。わたしたちに抗えない〈運命〉ってものが目の前にひらけていて、阻んでいて、自由意志ではどうしようもないことが起こります。ようするに、現在のわたしは決定された未来とか、運命の上映をただ見てるだけのような気がします。わたしは選択するけど、その先に、軌道修正する運命の強制があって、結局わたしは運命というものの上演を見ているだけにすぎません』。

 神の溜息が吹いて、わたしの顔に掛けられたくさいタオルが右耳の脇に滑り落ちた。タオルが床に落ちるとき、微かな音をたてるのをわたしだけは知っている。この音は、何にも喩えがたい。すべての諦念のような音をしている。

「あー。やっと静かになった」

 りんご色のワンピースを着た人間がわたしを覗き込んだ。屈んだ姿勢が、わたしの上に大きな影をつくってわたしを覆った。わたしの視界、わたしの世界は大きな肉体によって光を一時的に奪われた。単純に時間を消費しただけ大きい肉体が阻む光。

 りんご色のワンピースを着た人間はわたしの頬を乱暴に、指で払うようにして撫でた。強い力で。そして、強い力でわたしを掴んで、抱き上げる。わたしは柔らかい肉に包まれて、柔らかい胸に顔をうずめる。視線が高くなったのを感じる。すぐに安心感と、幸福感に包まれる。体温のやりとり。守られている実感。

 その瞬間、わたしのすべての諦めと鬱屈のエネルギーが光になって、心を真っ白に明るく照らした。わたしを満たしていた暗い気分が喜びに変わった。気分のもととなるものはそもそも同じだ。ヒト精神におけるエネルギー保存の法則。だから、大きな不満は大きな喜びへと変わる。

 カーテンレールに掛けられたピンチハンガーにぶら下がるタオル――一世紀前から干してあるような……わたしはこのタオルを、タオルがぶら下がった風景を知っている気がする――の端を人間が強引に引っ張った。ピンチハンガーが揺れ、床に落ちて派手な音をあげた。プラスティックの塊が跳ねる。「ちっ」。人間の舌打ちがわたしの頬の脇で聞こえる。

 そのタオルがわたしに巻き付けられる。加減を知らない手つきで、わたしのからだに、顔に、巻きつく。わたしはごわごわするタオルに巻かれて、そして再びだっこされた。人間の首に顔をうずめるかたちで。滑るように移動している。わたしをだっこする人間が脚を使って移動しているからだ。金属が擦れる音。そしてわたしの知らない、外界の空気がおでこから舐め上げるのを頭頂に感じた。

 ごわごわのタオルの中でわたしは人間の体温を感じながら――それは初めてか、久しぶりの安心だった――揺られていた。移動の振動。たくさんの音を聞いた。わたしの知らない音。わたしのタオルのすぐそばには、りんご色のワンピースがあった。わたしの抜け殻。そこにいるはずだったわたし。

 そしてわたしはやけに喧しい、それぞれに喧しさの種類が違う場所に何度か入って、抜けて、まだ移動している。わたしはずっと空腹が不快でしょうがないのだが、それ以上に、周囲に起こる変化に警戒するのに忙しくて、空腹のことを忘れている。あらゆる刺激がわたしの周囲で起こる。予知できない刺激に警戒するわたしは無意識のうちに強ばっている。

 ぱらららん。ららららん。聴いたことのあるメロディ。そして聴いたことのある、独特の節が付いた美しい声。上からそれらの音が降ってくる。周囲には激しく水の流れる音がする。

 ばたん。わたしの外側で、ドアを開閉する音がする。クリーム色の狭い空間。わたしは硬いなにかの上に寝かせられた。わたしの視点はずっと天井を向いたままだ。水の流れる音。ドアが開閉する音。人が行き交う音。優しい音楽と、ときどき差し込まれる優しい声。いつもと違う状況にわたしは戸惑っている。

 それからわたしはずっと天井を見ていた。クリーム色の狭い空間はしばらくずっと閉鎖されていた。空間の外側から、相変わらず水の流れる音が定期的に聞こえる。やがて、天井から流れてくる音楽が変化した。もの悲しいメロディ。終わりを予感させるメロディ。わたしは天井を見つめたままでいる。クリーム色の閉鎖空間のドアが開いて、わたしを抱いて連れてきた人間の気配が遠ざかっていった。何度も聞こえていた水の音は、いまはない。人の行き交う音も。どこかでドアが開閉する音も。いまは聞こえない。

 終わりを予感させるメロディは不意に終了した。そしてすべての音がやんだ。

 天井のダウンライトが消えた。クリーム色の狭い空間は、すべてがグレーになった。

 わたしの周囲からすべてが消えた。色彩と音と快適な温度が消えた。

 わたしはそうして、天井を見つめたままでいた。デジャヴのような時間が流れて行く。暗闇の中で、わたしは以前もこうしていたような気がする。わたしは仰向けのまま、闇の中でただ、佇んでいる。わたしには手も足もあるのに、この暗闇から逃れることができずにいる。暗闇の中でただ待ち続けるだけだ。わたしは祈った。『かみさまかみさまかみさま』。

 暗闇は取り払われることがない。わたしにぴったり纏わり付いて離れない。目を閉じても、開いても、まったく変わらない世界。わたしの内側にも暗闇の世界が広がっている。わたしは存在しているのに、誰にも見えていない。わたしはここにいるのに、ここにいる、という事象そのものが世界に存在していない。こんな世界を望んだわけではない。わたしは、自由になりたかったはずだ。だから祈る。『かみさまかみさまかみさま』。

 『思い通りにならない未来を放ったまま、また安直な〈次〉を目指すというのか』。

 わたしの脳に、言葉が差し込まれる。これはわたしが生成したことばだろうか。それとも神の声だろうか。わたしは闇を見上げながら考える。闇はあらゆる輪郭を消し去ってしまう。どこが天井で、どこか床なのかすらわからない。寝ているのか、立っているのかわからない。わたしと同じだ。天も地も存在していない。存在していない。

 『わたしには自由という権利があります。生きたいように生きる権利があるし、あらゆる可能性が享受されているはずです』。

 快適だったはずの空気は、長い暗闇の中で完全に変化してしまった。湿度が、温度が、快適を失って肌がべたつく。わたしからすべてが奪われていく。存在も。快適も。光も。

 『そうだね』。わたしの脳に差し込まれる神の声。『生きることに責任を持たなくてはならない。あなたの選択に責任を持たなくてはならない』。

 神の溜息がクリーム色の狭い空間のどこからともなく吹いて、ぴ、という電子音がした。その瞬間、ざああああああっと水が流れる音がわたしの背中側から聞こえた。この空間が暗さに支配される前、この音は周辺から聞こえてきた。わたしの外側で流れる激しい水。

 のはずだった。神の溜息が吹いて、上――それが天井か床か、わからない――から、わたしの顔へざああああああっと水が流れてきた。ものすごい勢いで。

 顔にかかる水のせいで息が吸えない。苦しい。呼吸ができなくて苦しい。わたしはパニックになって思い切り息を吸おうとする。唇をぱくぱくさせて。本能がわたしの肉体に、生きろと命令している。空気を吸えと命令している。人生の意味など関係ない、ここにある命を絶やすなと命令している。脳がそう考えるより先に、感じるより先に、肉体、利己的本能がわたしを守ろうとしている。

 わたしは思い切り口を開いて、肺の中に空気を取り込もうとした。顔にかかる水が口のなかに入って、否応なしに飲み込んだ。『レーテーの水を飲み込んだなら、あなたはもう一度、あなたの選択した道を進むべきだ』。わたしの脳に差し込まれる声。

 飲み込んだ水がわたしの血に溶けていく。わたしの全身に広がる。脳が次第にぼんやりしていく。あらゆることが、記憶が、思考が、すべてがふやけていく。

 神の溜息が吹いて、わたしにかかる水がやんだ。わたしの顔も、首も、わたしを包むタオルも、すべてが濡れていなかった。わたしの鼻が甘い香りを感じた。香ばしくて甘い匂い。これはパンが焼けるにおいだ。

 わたしは目を開いた。目を開いても暗いところにいることに気づいた。それを知った瞬間、ひどい不安に駆られて、わたしは大きな声をあげた。わたしの口から出てくる喃語の叫び。

 わたしはただ大きな声で泣き叫んでいた。誰かにわたしの存在を、存在がここにあることを、わたしの声が誰かに届くように。誰かに聞こえるように。

 


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