神様の名前は使用できません
「もう大丈夫だよ」
そんな声が聞こえた。
その言葉が頭に浸透していくと、ゆっくりと感覚が手足の指先まで戻ってくる。何かに足をついて立っている感覚、ざわざわとした騒めきが耳に入ってくる感覚。五感が戻ってくると、心が本当に安心する。私は、おそるおそる目を開けた。
「うわ……」
目の前に広がっていたのは、水鏡の中に見えたあの街並み。夜空が広がる下には、明かりを灯した幻想的な建物たち。レンガ畳の道には、等間隔に街灯が並んでいた。
「どう? 僕の星夜界は」
「すごく綺麗です」
朝が来ない世界、星夜界。ここは、陽を嫌う吸血鬼たちのために創られた世界だ。だから、街を歩くのは吸血鬼ばかりだった。
私たちが立っているのは、広場の噴水前。噴水の中央には、大きな吸血鬼の像が仁王立ちしている。隣のベンチには、カップルらしい吸血鬼が楽しそうに座っていた。
「ここは、噴水広場だよ。星夜界の神様を象った像が建てられているから、神聖な場所でもあるんだ。世界に降り立つとき、神たちはこうやって自分に近い場所を選ぶんだよ」
「あ、じゃあこの像はノク──」
「その名前はだめ。ここでは、僕のことを『ノーク』って呼んで」
ノクティア、そう言おうとした瞬間、私の口はそっと塞がれた。見れば、ノクティアは既に吸血鬼になっていた。神様の姿はなく、どこからどう見ても街の住民だ。それでも、変わっていない黒髪と黒い瞳は綺麗だった。
そうか。神様は実体がないから、こうやって仮の姿で降り立たないとならないんだ。それに、神様の名前は『世界の創造神』になっている。安易にその名を言ってしまうと、世界の住民たちが困惑してしまうのだ。
「ノーク。これからどうするの?」
「ちょっと待ち合わせがあるんだけどね。それまで時間はあるから、少し散策しようか」
ノクティアは、私にローブを頭からかけてくれた。爽やかな柑橘系の香りが鼻をかすめる。顔を隠すためだとは思うけれど、なんだか気恥ずかしくなってフードをくいっと目深まで被る。レンという恋人がいるのに、なんでこんなに鼓動が早いんだろう。少しの罪悪感とともに、楽しいという感情が芽生えた。
──あれ、レンとはまた違う感情だ。
レンは、前世から私たちは恋人同士だと教えられた。だからそうだと思っていたし、それに対して疑問はなかった。
でも、ノクティアへのこの感情はなんだろう。これが『恋』の感情なら、レンに対する感情の名前はどんなものなのだろうか。
「どこに行きたい?」
ノクティアが手を差し出してくれた。それにそっと手を伸ばすと、彼はすっと受け入れてくれた。こんな経験、したことがない。胸の鐘が何度も私を打ち付けてくる。
「ユイちゃん?」
「え、あ、行きたいところですね……っ! そうだな、本屋さんとかどうですか!」
なんとかひねり出した答えを聞いて、ノクティアは少し目を見開く。そして、「あはは!」と愉快に笑い始めた。
「さすがユイちゃんだね。だけど、今日くらいは仕事から離れなよ」
「ぐ……っ」
「本屋は最後に行こう。そうだな、吸血鬼のカフェって気にならない?」
「確かに、気になります」
「よし、じゃあカフェに行こう」
「は、はい!」
手を繋がれて、街の方へ歩いていく。足並みを揃えてくれるノクティアに付いて行きながら、街の様子を伺う。吸血鬼たちは幸せそうに時を過ごしていた。手を繋いで歩いたり、道端で歌を歌ったり。ニンニクや十字架などがなく、好きなものしか存在しない世界。それは幸せだろうけれど、いずれこの世界は吸血鬼とともに破滅する。この世界がいつか終わると知っているからこそ、今がこんなにも眩しい。それがなんだか居たたまれなくて、私は歩を速めるのだった。




