婚約者様、貴方は真面目すぎます。
「何故、妹さんに優しくしてやれないのですか?」
今夜で、政略的な婚約が交わされた日から半年。婚約者のフィル・オーランドから告げられたのは、そんな言葉だった。
「……優しくしなかった覚えは無いけれど。それから、正確には義妹よ」
「しかしカレン、貴女の家族でしょう?」
この男はどうも苦手だった。どこまでも真面目で愚直、清廉な心の持ち主。故に悪意に鈍感で騙されやすいところがある。
現に私の義妹が彼を誑かしているが、彼はそのことに気づく素振りも見せない。義妹は私という意地悪な姉にいびられる不幸なご令嬢と、本気でそう思っているのだろう。
その時。大きな音を立てて、部屋の扉が開かれた。
「あら、ごめんあそばせ! 私ったら、お2人の蜜月をお邪魔してしまったみたい」
「何か用なの、アリス」
噂をすれば何とやらだ。アリス・ローベル――3年前に妹としてこの家にやってきた。今日もばっちり決まった前髪、男受けの良さを狙った化粧、無駄に豪奢なドレス。一瞬だけ蔑むような目線をこちらに寄越した後、すぐにフィルの方へ擦り寄る。
「フィル様ぁ、今日は折り入ってご相談があって来ましたの。今度、学園で開かれる舞踏会なのですけれど。この私と一緒に踊ってくださいませんか?」
身の程を弁えない発言。私も乗り気ではないといえ、婚約者がいれば当人同士で踊るのが舞踏会の礼儀。他の生徒と踊れば、浮気同然と見なされても仕方ないだろう。フィルもそれを分かっているはずだ。
「申し訳ないですが、それはできません。私は規則通り、婚約者のカレンと踊る予定ですので」
「えぇ、規則なんてあってないようなものじゃないですかぁ。フィル様ったら真面目〜!」
甘ったるい声が鼻につく。平民育ちだとこうなるのだろうか? いや、平民に失礼か。彼女は元来こういう性格をしているのだろう。
「あー、もうこんな時間! それじゃ、私は夜のおやつの時間なので。舞踏会の件、考えておいてくださいね、フィル様♡」
そう言い残して慌ただしく自室に戻る彼女を見届けると、フィルはため息をついてから口を開いた。
「そろそろ私もお暇します。あまり遅い時間までいては不健全ですので」
「はあ」
その律儀さに少し呆れて、どうも気の抜けた返事をする。時刻は午後6時。他の令息達や令嬢達の逢瀬の時間を考えると、寧ろ早すぎるくらいだ。皆もう少し羽目を外している。
「――舞踏会は」
と、自分でも気づかないうちに口から零れていた。
フィルはゆっくりとこちらを見て、少し微笑んだ。
「もちろん、貴女と踊りますよ」
規則ですから、と添えられた一言に私は些かのもやもやを感じたが、まだその感情に名前をつけられなかった。
◇◆◇
舞踏会当日。学園の大広間は、きらびやかな装飾と高揚感に包まれていた。
私は、オーランド家の名に恥じぬよう、最高級のシルクで仕立てた深い紺色のドレスに身を包んでいた。隣には、いつも通り隙のない礼装を纏ったフィルが立っている。
「カレン、顔色が優れませんね。体調でも?」
「いいえ、少し……騒がしいのが苦手なだけ」
言葉を選びながら、フィルの気遣いに応える。けれど、視線の先――ホールの入り口であたかも自分が悲劇のヒロインであるかのように振る舞う義妹を見ていたら、何だか気分が悪くなってくるのも事実。
アリスは場の雰囲気にそぐわないほど装飾が過剰なドレスを着て、周囲の令息達に涙ながらに訴えていた。
「お姉様ったら酷いの! このドレス、お気に入りだったのにお姉様に引き裂かれてしまったの。見て、これが証拠よ!」
もちろん、嘘である。私はアリスの部屋に無断で立ち入ったことなど一度も無いし、ましてや他人のものを損壊するなんて。
しかし周囲の令息達は「ついにそんなことまで……」「前々から怪しいと思ってたんだよ」と、私に冷ややかな視線を送ってくる。この息苦しさは、何度経験しても慣れることはない。
するとアリスがこちらに気づき、わざとらしく駆け寄ってきた。
「フィル様! ああ、フィル様っ……。お姉様が、お姉様があんなに怖いことを……! 私、もう屋敷にいられませんわ!」
アリスはフィルの胸に飛び込もうとしたが、フィルは手でそれを制した。
「止まってください、アリス嬢。そこから先へ進むことは許可できません」
彼はいつもと違う、低く冷淡な声で言い放った。アリスは勢い余って、床に無様に転んだ。
「フィ、フィル様……? どうして、そんな。お姉様のいじめの証拠なら、この破れた袖を見ていただければ……」
フィルは惨めに演技を続けるアリスには目もくれず、懐から一通の書状を取り出した。それは王都で一番の仕立屋からの領収書と、詳細な製作記録。
「君が今着ているそのドレスは、3日前、君自身が『カレンのドレスに似せて、より豪華に作れ』と注文したものですね。支払いは、ローベル侯爵の印章を偽造して引き出された公金。――仕立屋の主人があまりに不自然な注文内容に不審感を抱き、私に相談に来ていたのです」
アリスは、お父様の前では慎ましく健気な娘を演じている。故に直接、お父様におねだりをすることはしない。アクセサリーや香水など、昔から欲しいものは私から奪ってきたが、今回ばかりは私より良いものを手にしたかったのだろう。
計画が壊れていくのを感じた彼女の顔から、血の気が引いていくのが分かる。
「そ、それは……何かの間違いで……」
「それから、君が『カレンにいびられた』と主張していた日。カレンは私と共に、慈善事業の打ち合わせをしていました。物理的に、君を害することは不可能です。……アリス嬢、虚偽の申告による名誉毀損、および公金の横領。これらは学園の規則どころではなく、王国の法に抵触します」
フィルの声はどこまでも平坦で、それゆえに容赦が無かった。周囲の令息たちの視線が、一瞬で「同情」から「嫌悪」へと変わる。
「み、皆様! 違うのよ、これは……そう、お姉様に嵌められたの! フィル様だってきっと騙されているんだわ!」
この期に及んで言い訳をするアリスに、手を差し伸べる者などもう誰もいなかった。
「衛兵を。彼女を別室へ」
フィルの合図で、学園の警備兵たちがアリスの両脇を抱える。「離して! 私のお父様はとっても偉いんだから!」と喚く声が遠ざかっていくと、会場には奇妙な静寂が訪れた。
私は、隣に立つ婚約者をそっと見上げた。端正な顔立ちが、とても頼もしく感じる。
「フィル。貴方、あの子の嘘に気づいていたのね」
「最初からですよ。……私は嘘が嫌いです。規則に反する不誠実な行いも。何より、私の婚約者を貶めるような真似を、見過ごすはずがないでしょう」
「驚いたわ。私がアリスに優しくないと言っていたから、てっきりあの子に騙されていたのかと」
フィルは小首を傾げて少し思案すると、納得がいったように微笑む。
「ああ、『優しく』というのは『間違いを正してあげる』という意味ですよ。アリス嬢があのままでは、自分にも周りにも良くないので」
全く、どこまでも真面目で心が綺麗な人だ。
彼は少しだけ困ったように眉尻を下げ、私の手を取った。
「舞踏会の曲が始まります。……カレン、先日は『規則ですから』と言いましたが、訂正させてください」
彼は私の指先に、熱い口づけを落とした。
「私は、私の愛する女性と舞踏会を楽しみたい。受けて頂けますか、カレン」
その真っ直ぐに私を見つめる瞳に、少しだけ鼓動が速くなるのを感じる。規則を理由に逃げることもできたのに、彼は初めて、自分の意志で私に手を差し伸べてくれたのだ。
「……喜んで」
私は彼の手に自分の手を重ねた。不器用だが、どこまでも真面目な私の婚約者。その誠実さが、今は何よりも愛おしく感じられた。




