半歩ぶんの距離で
勇気の歌、そう歌いながら歩いて行こうよ。
それは、誰に頼まれたわけでもないのに、いつからか私たちの合言葉になっていた。校門を出ると、夕方の空気が少しだけ薄くて、息を吸うたび胸の奥に冷たい針が触れる。制服の袖口から覗く手首が、思ったより白い。冬が来る前の、いちばん中途半端な季節だ。
君は私の少し前を歩く。私は君の左後ろ、半歩分だけ遅れてついていく。並べばいいのに、並ぶと余計に言葉が出なくなるから、その半歩を守っている。川沿いの道は、車通りの多い大通りより遠回りになるのに、私たちはいつもそこを選んだ。水面が見えるから、という理由を口にしたことは一度もない。目に見えるものを理由にすると、見えないものがもっと増える気がした。
「勇気の歌」って何、と君に訊かれたのは、たしか中学の終わり頃だった。私は答えに困って、適当に、転んだときに立ち上がる歌、と言った。君は笑って、じゃあ今の私に必要、と言った。そう言った時の君の頬が赤かったのは、夕焼けのせいだと私は思っていた。
その頃の君は、弱虫だったはずだ。
弱虫、という言葉が乱暴なら、繊細で、すぐに怖がって、すぐに泣いて、けれど泣いたことを恥ずかしがって、怒ったふりをするのが下手で、隠したいところほど丸見えになる人だった。私はそういう君を、たぶん守っていた。守っていた、という言い方も、勝手だろうか。手を引くのではなく、ただ同じ速度で歩くことで、君が置いていかれないようにしていた。そんなふうに。
今日の君は、違う。
君の背中は大人びて見える。肩の線が少し固く、首筋の皮膚が薄く、そこに風が当たると小さく震える。髪が揺れて、光を拾う。眩しい、と思うのは、太陽の角度のせいだけではない。
「ねえ」
私は呼びかける。君は振り返らない。返事はしないのに、歩みがほんの少しだけ遅くなる。そんなところが、まだ昔のままだと思った。
「苦しくても、ねぇ二人ならば越えられるはず」
私は、言葉を確かめるように口に出す。歌のように、詩のように。君がふっと息を吐く音がした。
「それ、また言うの」
「だって言わないと忘れそうになる」
「忘れないよ」
君はそう言って、ようやく振り返った。目は笑っていない。睫毛の影が深く、瞳が乾いているように見える。私はその乾きに、喉が痛くなる。
「忘れないけど、もう…」
君は言いかけて、飲み込む。飲み込んだ音が、胸の中で鳴った気がした。言葉の前に、鼓動が立つ。君の言葉は、いつもそうだ。言葉が出る前に、音がある。
「もう、何?」
「もう、いい。そういうの」
君は前を向いて歩き出す。速くなる。私は置いていかれないように足を動かす。制服のスカートが風を受けて脚に貼りつく。息が浅くなる。追いつきたいのに、追いつくのが怖い。追いついたら、君の背中が近くなる。近くなると、眩しさで目が潰れそうになる。
川の水面は、夕日を砕いて流している。光が細かく揺れて、ひとつも同じ形がない。私はその揺れを見ていると、安堵する。形がないものは、壊れようがない。壊れるのは、形があるからだ。
橋の下をくぐるとき、君が急に立ち止まった。私は危うくぶつかりそうになって、寸前で足を止める。
「何か言いたいなら言って」
君が言う。声が少し荒い。荒い、というより、鋭い。鋭い言葉は、刺すためにあるのではなく、刺さないように距離を作るためにある。そう気づいたのは、いつからだっただろう。
「言いたいこと…」
言いたいことはある。たくさんある。けれど、それを言葉にした瞬間、言葉の方が先に走ってしまう。私の気持ちを運ばず、ただ意味だけを置き去りにしてしまう。私はそんな失敗を何度も見てきた。君の周りで、君が傷つくのを。
「別に」
私は嘘をつく。君はその嘘を見抜いたように、唇の端を少しだけ歪めた。
「ほら。そうやって」
君は言い、そして続ける。
「そうやって、優しいこと言うふりして、何も言わない。いつも」
その「いつも」が胸に刺さる。私は確かに、いつも逃げている。歌に、合言葉に、曖昧さに。優しさのふりをして、自分の臆病を包んでいる。
「言ったら、壊れると思ってた」
私は思わず口に出してしまう。君の肩が小さく揺れた。笑ったのかもしれないし、震えたのかもしれない。どちらにしても、同じ形をしていた。
「壊れないよ」
君は言う。けれどその声は、壊れないと信じている人の声ではなかった。壊れることを知っていて、壊れる前に自分から手を離そうとする人の声だった。
「壊れるからさ」
君は続ける。
「壊れるくらいなら、最初から、ちゃんと…」
ちゃんと、の続きが出ない。君は下を向く。橋の影が君の顔に落ちて、表情が見えなくなる。影の中で、君の喉が上下する。言葉を飲み込むための動き。
私はその動きを見て、胸が苦しくなる。鼓動が早くなる。自分の鼓動が、制服の襟元に当たって跳ね返る。まるで外に漏れそうだ。私は咄嗟に、胸の辺りを押さえた。君みたいに。
君はそれに気づいて、目を細めた。
「何それ」
「…鼓動、隠した」
「隠せてない」
君は鼻で笑う。ほんの少し。笑いは乾いているけれど、そこに柔らかいものが混じった気がした。私はその混じりに救われる。人は完全に固くなる前に、こういう混じり方をする。氷の上に薄い水が乗るみたいに。
「君も、隠してる」
私が言うと、君の顔が一瞬で硬くなる。言葉を荒げる前の顔だ、と私は思う。怒りが来る前の、怖さの顔。
「隠してない」
「隠してる」
「隠してないってば」
君は声を強くする。強くした瞬間、肩が上がる。呼吸が乱れる。私はそれを見て、胸の奥で静かに頷く。やっぱり、と思う。君は言葉を荒げて、胸の鼓動を隠している。
でも、隠せていない。
私の目には、全部見える。見えてしまう。見えることが、救いになるとは限らないのに。
「ねえ」
私は呼びかける。今度は君が逸らさない。君の目が、私の中に入ってくる。視線は刃物に似ている。触れたら切れる。でも切れたところからしか、出てこないものもある。
「君はさ」
私は言葉を選ぶ。選んでいる間に、君の表情が苛立ちに寄りかかる。その寄りかかりが、倒れそうで怖い。
「君は、大人になった」
私はやっと言う。君は一瞬、きょとんとする。その顔が昔のままで、私は少しだけ安心してしまう。安心はすぐに痛みに変わる。昔のままなら、私が知っている君のままだ。けれど、そうじゃないから眩しい。
「大人って、何」
君は言う。挑発じゃない。確かめだ。君は最近、何でも確かめる。確かめないと、自分がどこにいるのかわからなくなるみたいに。
「強くなった」
「強くなんかない」
君は即答する。強くない、と言い切る声の速さが、逆に強さの匂いを持っている。昔の君は、そういう速さを持っていなかった。迷って、揺れて、言葉が遅れて、遅れた分だけ涙が出た。
「強いよ」
私が言うと、君は顔をしかめる。褒められたくない顔だ。褒め言葉は、期待に変わる。期待は、重い。君はその重さを知っている。最近は、とくに。
「強いって言われるの、嫌」
「どうして」
君は少し黙る。黙った間に、川の音が入り込む。水が石に当たる音。遠くの車の音。カラスの声。世界が世界のまま動いていることがわかる。私たちだけが止まっている。
「強いって言われたら、弱いって言えなくなる」
君はやっと言う。言った瞬間、眉が少しだけ下がる。声も低くなる。荒い言葉の刃が抜け落ちる。私はそれを見て、胸の奥で何かがほどける。ほどけると同時に、別の何かが締まる。
「弱いって言っていいよ」
私は言う。言った途端、君の目が揺れる。揺れは水面みたいに、形がない。私はその形のなさに、また安堵する。
「言ったら…」
君は言いかけて、また飲み込む。飲み込む癖は、大人の癖だ。子どもは吐き出す。大人は飲み込む。飲み込んだものは、いつか胃の底で腐る。腐る前に、誰かが救い出さないといけない。誰か。たぶん、私。
「言ったら、面倒」
君はそう言って、笑うふりをする。ふりの笑いは薄い。薄いから、見透かせる。
「面倒でも」
私は言いかけて、止まる。面倒でも、何。面倒でも、言って。面倒でも、私がいる。面倒でも、二人なら。そう言いたい。でもそれは、君にとっては重い期待になるかもしれない。
私は代わりに、別の言葉を出す。
「歌おうか」
君は顔をしかめる。
「今さら」
「今さらじゃない。今だから」
私は言う。歌う、というのは比喩だ。実際に声を出して歌うのではない。私たちが合言葉として使ってきた、あの言葉を、もう一度、ちゃんとした形で口にすること。
私は息を吸う。空気が冷たい。胸の中に入って、鼓動に触れる。触れた鼓動が跳ねる。隠したくなる。でも隠さない。
「勇気の歌、そう歌いながら歩いて行こうよ」
私は言う。声は小さい。川の音に負けそうだ。でも負けないように、言葉の最後を丁寧に置く。
「苦しくても、ねぇ二人ならば越えられるはず」
続けて言う。君の目が少しだけ潤む。潤むのに、涙は落ちない。落ちない涙は、落ちる涙より痛い。
「言葉を荒げて胸の鼓動隠す」
私は最後まで言い切らずに、そこで止める。君の表情が揺れる。怒りが出そうになって、でも出ない。出ない代わりに、君の肩が小さく震える。
「やめて」
君が言う。やめて、の声は荒くない。弱い。弱い声だ。私はその弱さに、胸が熱くなる。熱は痛みに似ている。
「やめない」
私は言う。強い言葉を使うのが怖い。でも今は、強い言葉が必要だと思った。強い言葉は、期待ではなく、約束になることがある。
「弱虫だったはずの君なのに」
私は言う。君が息を呑む。過去を言われるのは、恥ずかしい。恥ずかしいのに、否定できない。過去は、君の中にある。
「いつの間に大人びた背中が眩しくて」
私は続ける。眩しい、という言葉を口に出した瞬間、胸の奥が痛くなる。眩しさは、憧れだけじゃない。距離も含む。眩しいものは、近づけない。近づくと目が潰れる。私は潰れそうなのに、目を逸らせない。
「意識したことなんか一度もなかったのに」
私は最後を、ほとんど息のように言う。言い終わった瞬間、自分が何を言ったのかわかってしまう。わかってしまって、怖くなる。怖くなるのに、もう引っ込められない。言葉は出た。形を持った。形を持ったものは、壊れるか、残るかしかない。
君は黙っている。黙りが長い。長い沈黙は、答えの準備だ。私は息を止める。鼓動が耳の奥で鳴る。自分の鼓動がうるさい。君の鼓動は聞こえない。でも、たぶん同じくらいうるさい。
「…それ、ずるい」
君がやっと言う。ずるい、という言葉は刃じゃない。自分を守るための壁でもない。ただの、本音だ。
「何が」
私は訊く。訊きながら、答えを知っている。ずるいのは、私が歌の形で言葉を隠したこと。ずるいのは、合言葉のふりをして、本当のことを言ったこと。ずるいのは、君の背中が眩しい、と言ったこと。ずるいのは、意識していなかったと言いながら、意識してしまったこと。
「そういうこと、言わないで」
君は言う。声が少し震える。震えは、鼓動の影だ。
「言わないと、腐る」
私は言う。さっき自分が思ったことが、そのまま出た。腐る、という言葉は汚い。でも正しい。
「腐ったら、どうなるの」
君が訊く。訊く声が弱い。弱いのに、ちゃんと私に向いている。私はその向きに、胸がさらに痛む。
「わからない。たぶん…」
私は言葉を探す。文学的な比喩を探す。綺麗に言いたい。でも今は綺麗さが邪魔だ。
「たぶん、君のことを嫌いになる」
私は言ってしまう。言ってしまって、愕然とする。嫌いになる、というのは、嘘だ。嫌いになりたい、という願望かもしれない。嫌いになれたら、楽だから。眩しさに苦しまなくて済むから。意識しなくて済むから。
君は目を見開く。驚く。驚いたまま、少し笑う。
「それ、もっとずるい」
君が言う。笑いは涙の直前に似ている。私はその似ている形を見て、息が詰まる。
「嫌いになりたくない」
私は続ける。続けてしまう。止まらない。言葉が、ようやく遅れを取り戻すみたいに走り出す。
「嫌いになりたくないから、言う。言って、残したい」
残したい。残す、という言葉は、未来を含む。未来を含む言葉は重い。君がそれを嫌うことを知っているのに、私は言ってしまう。言わなければ腐るから。腐るくらいなら、重くてもいいと思った。
君は下を向く。影が君の頬に落ちる。橋の影ではない。雲の影だ。夕日が雲に隠れて、世界が一段暗くなる。暗くなった瞬間、君の輪郭が柔らかくなる。眩しさが少しだけ引く。私はその引きに、少しだけ近づける気がして、足を一歩前に出す。
「…私は」
君が言う。声が掠れている。掠れは、飲み込んできた言葉の摩擦だ。
「私は、怖い」
君が言う。怖い、という言葉が出た瞬間、君の肩が落ちる。落ちた肩に、私は涙が出そうになる。肩が落ちるのは、敗北じゃない。鎧を脱ぐ動きだ。鎧を脱ぐと、寒い。でも寒さの中にしか、皮膚の温度は戻らない。
「何が」
私は訊く。訊く声が震えないように、喉の奥を抑える。
「全部」
君は言う。全部、と言ってしまえるのは、少しの勇気だ。全部、と言った途端、君は自分の手を握りしめる。指先が白くなる。鼓動を隠す動き。私はその動きを見て、手を伸ばしたくなる。けれど伸ばすのが怖い。触れたら、何かが変わる。変わるのが怖い。怖いのに、変わらなければ腐る。
私はゆっくり、手を伸ばす。君の手ではなく、君の袖の端に指先を触れさせる。直接ではない。布越しだ。布越しなら、逃げ道がある。ずるい。でも、今はそれでいい。
君は驚いたようにこちらを見る。私の指先を見て、それから私の顔を見る。目が揺れる。揺れの中に、怒りはない。壁もない。あるのは、怖さと、許しと、わからなさ。
「…それ、何」
君が訊く。
「二人」
私は言う。二人、という言葉は合言葉に似ている。合言葉はずるい。でも、二人は事実だ。今、ここに二人いる。それだけは、誰にも奪えない。
「越えるって、こういうことだと思う」
私は言う。越える、というのは勝つことではない。苦しさを消すことでもない。ただ、同じ場所に立つこと。少しだけ同じ温度を分け合うこと。袖の端に触れる指先の温度で、それが伝わるといいと思った。
君はしばらく黙って、それから、布越しではなく、私の指先を直接掴んだ。掴む、というより、確かめるように触れた。触れた瞬間、皮膚が熱くなる。そこから熱が腕を伝って胸まで来る。胸が痛い。痛いのに、嬉しい。
「…歌、続きあるの」
君が小さく言う。声はほとんど風みたいだ。私は笑いそうになる。笑うと涙が出そうで、笑えない。
「あるよ」
私は言う。続きは、私が作る。君と作る。歌の歌詞ではなく、歩き方の続き。
「じゃあ、歌って」
君が言う。歌って、は命令じゃない。願いだ。願いは、重い期待とは違う。願いは、渡せる。
私は頷く。頷いて、言葉を探す。探しながら、思う。私は意識したことなんか一度もなかった、と言った。嘘だ。意識していた。意識していないふりをしていた。ふりをすることで、守ってきた。守ってきたのは、君だけじゃない。私の臆病も。
私は息を吸う。冷たい空気が胸に入る。鼓動が鳴る。鳴り方が少し変わっている。速いのに、乱れていない。私はその鼓動を、隠さない。
「勇気の歌」
私は言う。言葉が、橋の下の水音に混じる。混じっても消えない。
「そう歌いながら歩いて行こうよ」
君が、私の言葉のあとを小さくなぞる。歌う、というより、口ずさむ。口ずさみは、心の内側に近い。私はその近さに、胸がまた痛む。
私たちは歩き出す。川沿いの道を、駅に向かって。夕日が戻ってきて、世界がまた少し明るくなる。光が水面で砕けて、また形のないものになる。形がないから壊れない。けれど、私たちの間に生まれたものは形を持つ。触れた指先の温度。言ってしまった言葉。怖い、と言えたこと。
形を持つものは、壊れるか、残るかしかない。
残したい、と私は思う。思ってしまう。思ってしまった瞬間に、意識してしまう。意識してしまって、苦しい。苦しいけれど、ねぇ二人ならば越えられるはず。私は心の中で、合言葉をもう一度唱える。
君は私の少し前を歩いている。今日は、半歩分ではない。並んでいる。袖の端ではなく、指先が触れている。触れているだけで、握ってはいない。逃げ道は残っている。ずるい。でも、優しいずるさだ。
君の背中は、もう眩しいだけではない。近い。近いから、眩しさが痛みに変わらない。眩しさの中に、温度がある。
私は、意識したことなんか一度もなかったのに、と思う。思いながら、否定する。
意識している。今、している。
それでも歩く。歌いながら。勇気の歌を、声にしないまま、胸の鼓動と一緒に。




