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沈黙の教室

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/28

第一章 告発の朝


 始業式の朝、職員室の空気は、まだ冷たい蛍光灯の光の中で膨らんでいた。窓の外では、風もないのにカーテンが微かに揺れている。誰かが開けた隙間から、朝の冷気が忍び込んでくるのだ。コピー機の機械音が止まり、しんとした静寂が訪れた瞬間、校長の低い声がその空間を切り裂いた。


 「机の上に、置いてあったんだ」――その一言が、まるで爆発音のように響いた。みな、手を止めた。湯呑みを持つ手が震えた者もいた。視線を泳がせる者、咳払いで誤魔化す者、机を整えるふりをして話題をやり過ごそうとする者。


 白い封筒は、ただそこに置かれていた。黒いボールペンの筆圧が強く、封筒の表面にはわずかに線の跡が浮かんでいる。書かれていたのは、たった一行――「佐伯先生による、生徒への不適切接触について」。


 誰かが息を呑み、誰かが目を伏せ、誰かは唇を噛んで笑いを装った。だが、その笑いはすぐに凍った。空気の流れが変わる音がした。誰もがその一文を見たが、誰も手を伸ばさなかった。触れた瞬間、何かが崩れることを、全員が本能で察していたのだ。


 朝礼の時間になっても、教頭はその封筒を手に持ったまま立ち尽くしていた。彼は言った。「個人名は出さないが、教職員一同、児童生徒との距離感を再確認してほしい」。そのとき、名指しされた本人――佐伯先生は、職員室の端の席に座っていた。


 眼鏡の奥の目は、どこか遠くを見ていた。黒板の文字でも、校長の背中でもない。おそらく、自分がもう立てない場所を見ていたのだろう。誰も声をかけなかった。沈黙が、それぞれの罪悪感をやわらかく包んでいた。


 私は三年二組の生徒、真帆。あの日、私が“それ”を最初に広めた。けれど、意図的だったわけじゃない。軽い悪ふざけの延長。クラスのグループLINEに流れてきた画像――それが封筒の写真だった。


 職員室の机、光沢のある木目の上に白い封筒がぽつんと置かれている。写真を送ってきたのは誰かもわからない。誰かの兄弟が職員室に出入りして撮ったのかもしれない。私は反射的に「やば」と返信した。友達がスタンプを返す。笑い顔、炎の絵文字、そして「マジ?」の連打。それだけのことだった。


 昼には、もう別のクラスでも話題になっていた。タグのついたポストが拡散され、夕方には外部のアカウントにも広まった。いつのまにか「中学教師が生徒に不適切行為」という言葉が、真実のように一人歩きを始めていた。


 画面の中の出来事が現実を侵食していく感覚に、私はただ見とれていた。誰も止めようとしなかった。止めるという発想すら、なかった。


 放課後の職員室では、佐伯先生がいつも通り残っていた。机に向かい、部活動の名簿を整理していた。誰も彼に近づかない。だが、誰も帰らない。不思議な緊張感が部屋を支配していた。


 誰もが「何かが起きるかもしれない」と思いながら、何も起こらないことを望んでいた。蛍光灯の光が机を照らし、彼の指の動きだけが音になって響いていた。


 ――教師が、生徒に触れた。それがどんなに小さな行為でも、「セクハラ」と呼ばれる時代。呼び止めるために肩に触れた、倒れそうな子を支えた、それだけで十分。


 だが、生徒が教師を蹴っても叩いても、学校は“内々で処理”する。報告書の文言を整え、保護者に「再発防止に努めます」と電話をかける。それで終わり。教師は書類で謝罪し、生徒は反省文を提出して終わる。


 どちらの文も、心には届かない。届かないように作られているのだ。私はその矛盾が嫌だった。けれど、その矛盾の上で、自分が「正しい側」に立てる気がして、指を動かしていた。


 翌朝、廊下のざわめきが異様に高かった。まるで学芸会の練習のように、あちこちで声が上がっていた。「マジで?」「ほんとに?」「やばくない?」。噂が波紋のように広がる。


 誰が告発文を書いたのか、誰が写真を撮ったのか、誰が最初に拡散したのか。全部“誰か”のせいにできる限り、誰も罪を感じない。


 三年の教室では、授業がすべて自習になった。黒板に書かれた文字は、「今日は考える日です」。誰が書いたのかもわからない。プリントが配られ、沈黙が続く。私はスマホを机の下で握りしめたまま、ただ時間を潰していた。


 画面の通知は止まらない。いいね、リツイート、コメント、絵文字。世界がざわざわとこちらを覗き込む。私が“投稿した子”であることは、まだバレていない。でも、バレるのは時間の問題だった。罪の重さは、誰かの噂のスピードで決まる。


 佐伯先生は、学年主任で、陸上部の顧問だった。毎朝六時に出勤し、七時にはグラウンドに立つ。大会の前は夜九時まで残る。休日も遠征の引率で潰れる。時間外手当は月四時間まで固定。それ以上働いても、“情熱”で片づけられる世界だった。


 誰も申請などしない。そんなものを書いたところで、校長が「みんなやってる」と笑って終わるだけだ。彼の机には常に山のようなプリントが積まれ、空のペットボトルが転がっていた。


 彼の奥さんが出ていったのは三年前だと聞いた。家庭よりも学校を選んだ男。選んだというより、離れられなかったのだろう。彼はいつも静かだった。怒鳴ることもなく、笑うときも声を出さない。


 生徒が泣いても、叱られても、最後は「大丈夫だ」と言ってくれる。だからこそ、信じられなかった。そんな人が、そんなことをするなんて。信じたいものを信じることで、人は安心する。だからみんな、信じようとした。だが、噂は安心を許さなかった。


 「肩を触られた」「距離が近かった」「視線がいやだった」――誰が言い出したかもわからない証言が次々に増えていった。確認も取らず、文書に変わる。紙が真実を作る。


 保護者会では「学校として再発防止に努める」という言葉が配られた。意味のない誓約。校長の言葉は、まるで校歌のように無害で、無責任だった。


 慎重に動く、という言葉が使われるとき、それは大抵、“沈黙してほしい”という意味だ。学校とは、隠すことが仕事の場所だ。生徒の暴力も、教師の鬱も、全部“報告書”の奥に埋める。


 表向きは清潔で、裏側は汚水のように濁っている。それが「教育」という言葉の、最も正しい形だった。


 夜、私は母に聞いた。「先生って、触ったら全部ダメなの?」

 母はソファに座り、スマホを見ながら淡々と答えた。「当たり前でしょ。時代が違うのよ。いまは“そういうの”が許されないの」。その声には、正義しかなかった。疑う余地のない正しさ。私はそれに息を詰まらせた。


 だって、私が階段から落ちかけたとき、佐伯先生は腕を掴んでくれた。あの手は冷たくて、優しかった。あれも、いけなかったのだろうか。助けてくれたことさえ、罪になるのだろうか。


 そう考えると、胸の奥に氷が沈むようだった。母に反論したかった。でも、正義を疑うことは悪になる気がした。だから私は、黙った。沈黙することで、自分の無実を守る。それがこの社会の“正しい生き方”なのだと、知らないうちに学んでいた。


 三日後、佐伯先生は学校を休んだ。「体調不良による自宅待機」という放送が流れた瞬間、クラス全体がざわめいた。誰も“どうして”とは言わない。みんな、“やっぱりね”と囁き合った。その瞬間、罪は確定した。


 私は机の下でスマホを見た。投稿の通知は一万件を超えていた。止めることも削除することもできなかった。指先で押した「拡散」のボタンは、もう戻らない。言葉は生き物だ。一度放たれたら、誰のものでもない。


 私は、ただそれを見ていた。恐怖と興奮が入り混じる感情の中で、指が震えていた。人を壊すのは、怒りよりも無関心だと、あのとき知った。


 数日後、生徒指導室に呼び出された。机の上には、私のアカウントのプリントがあった。先生はため息をつき、静かに尋ねた。「どうして投稿したの?」


 私は答えた。「知らなかったんです、ここまでなるなんて」

 先生は首を振り、「知らなかったでは済まない」と言った。


 だが、私は思った。――あなたたちは、何を知っていたの? 教師の疲弊も、佐伯先生の孤独も、全部知っていたのに、何もしなかったじゃない。知らないふりをしてきたのは、あなただって同じ。けれど、その言葉は喉で溶けた。私もまた、見て見ぬふりをした一人だから。


 夜、誰もいない職員室の灯りがひとつだけ点いていた。清掃員が翌朝見つけたとき、机の上には封筒が置かれていたという。中にはびっしりと記された記録。日付、時刻、生徒対応、保護者への電話内容。何枚にもわたる手書きの文字。


 最後の一行だけ、文字が大きかった。――「私は、触れなかった。誰にも」。それが、佐伯先生の告白だった。


 だが、その紙は教育委員会に“預けられた”あと、戻ってこなかった。新聞は「教師の不祥事」と報じた。ニュースのコメント欄は、「教師のくせに」「気持ち悪い」で埋め尽くされた。真実は、数字に負けた。


 あの日から、職員室では誰も目を合わせなくなった。会議では「再発防止」と「メンタルケアの強化」が議題に上がった。けれど、朝の部活も、夜の残務も、何ひとつ減らない。誰も“変わる”気などなかった。変わる余裕がなかった。


 教師は、生徒に触れないように手を後ろで組むようになった。怒る代わりに書類を書くようになった。涙を拭く代わりに、保護者に電話をかけるようになった。人間の温度を失うことでしか、自分を守れなくなっていた。


 私は今も思う。あの封筒を置いたのは誰か。写真を撮ったのは誰か。投稿を最初に広めたのは、私。けれど、本当に最初の“加害者”は誰だったのだろう。


 人は、誰かを責めることでしか正気を保てない。学校という檻の中では、教師も生徒も、同じ獣だ。違うのは、檻の鍵を握っていたのが、私たち生徒のほうだったということ。


 翌朝、黒板にチョークの文字が残されていた。「先生、ごめんなさい」。誰が書いたのかはわからない。だが、その文字を指でなぞったとき、粉がまだ温かかった。まるで誰かが、ほんの少し前までそこに立っていたように。


第二章 担任という牢獄


 朝、職員室の鍵を開けるのは、いつも私の仕事だった。まだ外は薄暗く、校舎の影は夜を引きずったまま地面に張り付いている。廊下の蛍光灯をひとつずつ点けるたびに、静けさが壊れ、私の呼吸がその空間を満たしていく。カーテンを引くと、窓ガラスには外気が曇りとなって貼りつき、指でなぞると白く溶けていった。夜の名残が、まだ学校のどこかに潜んでいるように思えた。


 この数分間だけが、私に許された自由だった。まだ誰の声も届かず、誰の要求も降ってこない時間。書類も苦情も、まだ動き出す前の沈黙の中で、私はようやく人間に戻れる気がしていた。けれど、七時を過ぎると、ドアの向こうで世界は再び回り始める。靴の音が近づき、部活の掛け声が響き、顧問の叱責が金属のように校舎を震わせる。その音を聞くだけで、今日もまた「戦い」が始まるのだと、体が先に理解してしまう。


 同僚たちが次々に入ってくる。けれど、挨拶を交わす者はほとんどいない。視線を合わせることは、隙を見せることだからだ。余裕がある者には、追加の仕事が回る。残務整理、書類のまとめ、保護者への電話対応。だから皆、沈黙を選ぶ。沈黙こそが、この職場での一番のマナーであり、生存の知恵だった。


 私は三年二組の担任であり、学年主任でもある。朝七時半、教室のドアを開けると、まだ半分も登校していない。窓際の席で、男子が眠そうに突っ伏している。机の上には昨日配ったままのプリント、黒板の端には「期末まであと三日」と書かれたままのチョークの粉が残っていた。


 学級通信の下書きが、教卓の上に置きっぱなしになっている。ペンで書きかけの一行。「四月は出会いの季節です」。それ以上の言葉が出てこなかった。何を書いても、誰かを傷つける時代になった。明るい言葉ほど、虚しい。生徒の顔を見ても、私は何も感じない。彼らが笑えば、私は恐怖を覚え、黙り込む。何気ない言葉が、録音されているかもしれないからだ。


 この仕事を始めた頃、私は本気で信じていた。努力すれば子どもは変わるし、真剣に向き合えば必ず伝わると。だが今では、その言葉の裏側にある空洞しか見えない。“伝わる”ということは、“責任を押しつけられる”という意味なのだと、嫌というほど思い知らされた。叱れば「パワハラ」、励ませば「プレッシャー」、肩に手を置けば「セクハラ」。正しさは、誰の都合によっても変わる。教師という立場にある限り、私は永遠に誰かの加害者であり、そして同時に、誰からも守られない犠牲者でもある。


 報告書、反省文、謝罪文。日常はそれらで埋め尽くされていく。書くたびに、自分の罪を捏造しているような感覚があった。罪はすでに前提であり、無実を証明する努力さえ滑稽に思えた。教師であるというだけで、人は罪を背負う。罪を背負いながら、誰かの未来を語らなければならない。滑稽で、残酷で、どこか美しい。この矛盾に耐えられる人間だけが、教育という牢獄に生き残るのだ。


 去年、クラスの男子が同級生を蹴った。顔を狙って。歯が折れた。私は反射的に止めに入ったが、すぐに管理職がやってきて、淡々と現場を「収束」させた。校長は言った。「これは、学級内でのトラブルとして処理しよう」。その“処理”という言葉を聞いたとき、私は心の奥で何かが乾いた音を立てた。教育とは、記録の体裁を整える作業に過ぎない。暴力も悲鳴も、報告書の中では“成長の過程”と書き換えられる。


 私は指示通りに報告書を「修正」した。暴力を「口論」に、蹴りを「感情的な接触」に。夜、自宅に帰っても、あの音が耳から離れなかった。蹴る音でも、泣く声でもなく、校長が言った「処理」という言葉の音だった。人を守るために働いていたはずなのに、今は書類を守るために生きている。守る対象を間違えたまま、気づくのが遅すぎたのだ。


 その数か月後、封筒が現れた。始業式の朝、職員室の机の上に置かれていた。表面には見慣れた黒インクの筆跡。名前が書かれていた。「佐伯」。私の名前だ。ペンの圧力が強く、紙が少し凹んでいる。そこに刻まれていたのはたった一行――「佐伯先生による、生徒への不適切接触について」。


 その文を読んだ瞬間、胸の奥で何かが鈍く軋んだ。驚きでも怒りでもなく、予感が的中したような静かな納得だった。この学校にいれば、いずれ誰かが標的になる。今日は自分の番だった。ただそれだけだ。


 恐怖はなかった。恐怖を感じる余裕など、もうとっくに失われていた。ただ、疲れだけがあった。教頭の声が遠くで響く。「しばらくは静かにしていてください。表立っては何も話さないように」。表立って、という言葉が、私の胸を深くえぐった。裏ならいいのか。裏で誰かが潰れていくのを、また黙って見ていろというのか。


 私が最後に生徒に触れたのは三か月前だった。廊下で転んだ女子を支えたときだ。彼女は泣きながら笑い、「ありがとう」と言った。その一瞬の温度を、今でも指先が覚えている。だが、世の中はその“ありがとう”を罪に変える。助ければ「不適切」、助けなければ「冷たい」。この国では、教師は正しさを選ぶことを許されていない。


 それ以来、私は誰にも触れないようにした。生徒の肩が震えていても、ノートを落としても、倒れかけても、ただ見ていた。見ないことが、正義だからだ。見ぬふりこそが、安全だからだ。正しさが自分を守らない世界で、唯一残された防衛は沈黙しかない。


 夜の職員室に残る。外は暗く、グラウンドの街灯がかすかに明滅している。机の上に、保護者からの手紙を積み上げた。「先生のおかげで子どもが変わりました」「あの言葉を忘れません」。感謝の文字は、今となってはただの紙屑に見えた。その下には、苦情のメールが印刷されている。「叱り方が怖い」「子どもが萎縮している」「触ったらしい」。


 同じペンで、感謝と告発が書かれている。この国の教育は、感情で動き、証拠で殺す。真実はどちらでもなく、便利な方に流れていく。夜更け、パソコンの光の中で、私は勤務時間の記録をつけた。実働十四時間。だが、システム上は四時間しか入力できない。赤い警告文字が出た。「入力内容に不備があります」。不備とは、現実のほうだろう。


 翌週、私は職員室で男子に蹴られた。机越しに、真正面から。きっかけは些細な注意だった。倒れた椅子の音が響いた瞬間、生徒の笑い声が重なった。誰も止めない。数人がスマホを向けていた。「先生、撮られてますよ」。その言葉に、背筋が冷たくなった。私は殴り返さなかった。暴力を振るえば終わりだ。だが、沈黙しても同じだ。映像は切り取られ、文脈は削がれ、悪意だけが残る。


 私は報告しなかった。校長に伝えても、どうせ“処理”されるだけだ。暴力の事実は、記録には残らない。教師が被害者になる構図は、誰にとっても都合が悪いから。だから私は、黙った。痛みを残したまま、椅子を起こして授業に戻った。沈黙することでしか、生き延びられないことを知っていた。


 夜、自宅に帰る。十時を過ぎた部屋は、ひどく静かだった。冷蔵庫の音だけが生きていた。三年前に妻が出ていったあと、部屋には誰の気配もない。机の上にはプリントと赤ペン。カレンダーには「面談」「模試監督」「大会引率」と赤い字が並ぶ。休みという言葉が、どこにも存在しない。


 風呂場の鏡に映った自分は、ひどく老けて見えた。髪に混じる白い線。瞳の奥に、もう光がなかった。教師という職業は、ゆっくり死んでいくことを仕事にしているのかもしれない。


 翌朝、机の上に一枚の紙が置かれていた。出勤停止通知。理由の欄には、「生徒指導上の不適切行為の疑義」とある。“疑義”。それはつまり、疑われただけで有罪ということだ。潔白は、存在しないものとして扱われる。


 私は笑った。教師にとって、正しいことをしても救われないのなら、せめて静かに終わるしかない。夜、私は手帳を開き、三年間の記録をすべて書き写した。日付、時刻、対応、生徒名。すべてを残したうえで、最後に一行だけ記す。――私は、触れなかった。誰にも。


 それが、私にできる最後の仕事だった。


 翌朝、職員室の鍵は開いていた。窓から吹き込む風が、封筒をそっと揺らしていた。机の上には、一枚の紙。名前が書かれている。私はそこに、全てを置いていった。


 教師としての人生、沈黙の記録、そして――この牢獄の鍵を。


第三章 生徒指導ノート


 私は、三年二組の副担任――高見瑞穂。

 佐伯先生が“あの封筒”によって姿を消してから、職員室の空気は常に湿っているように感じた。誰も窓を開けようとしない。カーテンを引けば少しは風が通るのに、皆が黙って書類に目を落とす。沈黙はいつしか礼儀になり、罪を隠す布になった。


 佐伯先生の机は、まだそのままだった。空いた席は、誰も使おうとしなかった。封筒が置かれていたあの場所だけ、蛍光灯の下で少し白く浮かび上がって見える。埃を払おうとすると、他の先生が言った。「そのままでいいよ。触らない方がいい」。

 “触らない方がいい”――その言葉が、この学校の合言葉のように思えた。


 私は教師になって八年目になる。最初の頃は、まっすぐだった。生徒の未来のために、という言葉を信じていたし、教育という言葉にまだ夢を見ていた。だが現実の学校は、理想の反対側にあった。報告書、電話対応、クレーム処理。人より書類の方が優先され、命より「印鑑」の方が重い世界。


 誰かが倒れても、報告書の提出期限が先。生徒が泣いても、まずは「校内処理」を優先する。私が最初に異動した中学校で、同僚が生徒の暴言に耐えかねて休職したときも、校長はただ言った。「残念だが、書類上は欠勤で処理しておこう」。

 “処理”という言葉が、すべての痛みを包み込む。包んで、見えなくする。


 佐伯先生の件が起きたあと、私は一度だけ教頭に呼び出された。会議室のドアを閉める音が、異様に重く響いた。

 「高見先生、例の件、報告書をまとめてくれるかな」

 「例の件、ですか」

 「そう。生徒指導上の混乱……つまり、佐伯先生に関するものだ」


 机の上に置かれた封筒のコピー。そこには、匿名で書かれた文面の一部が印字されていた。黒い文字が機械的に並び、感情がない分だけ恐ろしく見えた。

 「生徒が不安がっているから、“内部調査中”という形で記録しておいて。保護者への説明は……後日でいい」


 私は頷いた。けれど、ペンを持つ手が震えていた。調査が始まることはないと分かっていた。始まらないほうが、みんなにとって都合がいいからだ。


 数日後、もう一つの事件が起きた。

 他のクラスで、生徒同士の暴力。男子が教師の足を蹴り、机を投げた。私は止めに入ったが、動画を撮っていた子たちが笑っていた。「先生、止めたら“体罰”でしょ」。

 その声が、妙に軽かった。

 私は唇を噛みしめながら生徒指導ノートに書いた。

 ――“本日、教員に対する生徒の暴力あり”。


 だが、その夜、教頭から電話がかかってきた。

 「高見先生、今日の件だけど……記録の表現を少しやわらげてくれないか」

 「やわらげる、とは?」

 「“暴力”だと教育委員会の処理が面倒になる。『言い争い』くらいでいい」


 電話の向こうの声は穏やかだった。だが、その穏やかさこそが、学校を腐らせているのだと、私は知っていた。

 私は赤ペンを取り、ノートの文字をゆっくりと消した。“暴力”という二文字が、インクの下に埋もれていく。心臓がひとつ、止まったような気がした。


 それからしばらくして、夜の職員室に一枚のメモが置かれていた。白い付箋に、細い字で書かれていた。

 ――「あなたも、見て見ぬふりをするんですか?」


 差出人は書かれていなかった。だが、誰の字かはすぐに分かった。佐伯先生の筆跡に似ていた。あの人が亡くなった後、机の引き出しから見つかったメモの文字と、同じ癖があった。

 手が震えた。息が浅くなり、ペンを落とした。

 ――死んだ人の声は、時に生きている人間より鮮明だ。


 私はそのメモをくしゃりと握りつぶし、ゴミ箱に投げた。けれど、紙は入らずに床を転がった。拾おうとして、やめた。

 “触らない方がいい”。また、あの言葉が頭に浮かんだ。


 その週の金曜日、職員会議が開かれた。議題は「今後の指導体制について」。

 校長はいつも通り、棒読みの声で言った。「このような事態を二度と起こさないように、教育活動の見直しを徹底します」。その言葉を聞くたびに、誰もがうつむく。

 “このような事態”とは何か。誰のことを言っているのか。誰も確認しない。確認してしまえば、責任が生まれる。責任が生まれれば、誰かが罰を受ける。


 だから、皆が曖昧に頷いた。頷くことが、罪の共有になっていると気づいていながら。


 放課後、私は一人で職員室に残った。窓の外では、夕陽がグラウンドのラインを焼いていた。

 机の引き出しから、生徒指導ノートを取り出す。

 ページをめくると、黒いインクの跡が点々と続いていた。生徒の名前、トラブルの概要、保護者の対応。


 けれど、その文字列の間には、何も書かれていない空白が多すぎた。

 書かなかったこと、書けなかったこと、書いてはいけなかったこと。

 その沈黙の余白こそが、この学校の“記録”だった。


 私はページの隅に小さく書いた。

 ――「佐伯先生、あなたは本当に触れたのですか」。


 書いた瞬間、涙がにじんだ。だが、それは悲しみではなかった。罪悪感でもなかった。

 私の中の“正義”が、静かに死んだ音だった。


 翌朝、ノートはなくなっていた。机の上には、代わりに一枚の新しい表紙が置かれていた。

 《三年二組 生徒指導記録簿(高見)》

 つまり、“改訂版”。


 すべての記録は書き換えられる。

 それが、学校のルールだ。

 人が死んでも、文章が修正されれば、それは“なかったこと”になる。


 私はその表紙をめくり、ペンを取った。

 そして、一行目に書いた。

 ――「本校では、特に問題は見られなかった」。


 それが、私の仕事。

 そして、私の罪。


 夜。帰り際、廊下を歩くと、風がひとつ吹き抜けた。

 窓が少し開いていた。白い紙が舞い上がり、足元に落ちた。

 拾い上げると、そこには見覚えのある字で、たった一文。


 ――「あなたも、触れなかったんですね」。


 私は、笑ってしまった。

 その紙を、そっとポケットにしまった。


 “触れなかった”。

 たぶん、それがこの学校で生き残る唯一の才能だ。


第四章 沈黙の合唱


 保護者会の当日、体育館の中は熱気ではなく、湿気で満たされていた。マイクのハウリングが何度も鳴り、スピーカーの音は天井でこだまするばかりで、言葉は届かなかった。校長が壇上に立ち、準備された原稿を読んでいた。ゆっくりと、しかし何の感情もなく、機械のように。「このたびは、学校運営上の混乱により保護者の皆様にご心配をおかけいたしました。今後は再発防止に努め、地域とともに信頼の回復を目指します」。


 拍手も、野次も、なかった。沈黙だけがあった。

 誰も何も信じていないときの沈黙は、あまりにも重い。

 私はその壇上の端に立ち、名ばかりの進行役として、ただその沈黙を見守っていた。マイクを通して聞こえる自分の心臓の鼓動だけが、唯一の音だった。


 会が終わったあと、保護者たちは三々五々と散っていった。中にはスマートフォンを構えて動画を撮っている人もいた。きっとSNSに上げるのだろう。「学校、形だけの謝罪」「教師、逃げ腰」「保護者、沈黙」。文字は、どんな怒号よりも冷たい。


 私は帰ろうとする母親たちの列の中に、ひときわ強い視線を感じた。視線の先にいたのは、佐伯先生の元担任クラスにいた女子生徒――真帆の母親だった。

 彼女は腕を組み、低い声で言った。「先生、結局、何が本当なんですか?」


 その問いに、私は答えられなかった。

 何が本当で、何が嘘か。

 その境界は、誰かの沈黙によって毎日書き換えられている。


 「報告は教育委員会でまとめています。いずれ公表が――」

 そう言いかけたとき、母親は静かに笑った。

 「いずれ、なんて言葉、いつまで通用するんでしょうね」


 彼女は踵を返し、群衆の中に消えていった。その背中を見ながら、私は思った。あの人たちは怒っているのではない。希望を、もう信じていないだけなのだ。


 校長室に戻ると、教頭がコーヒーをかき混ぜながら言った。

 「よくやってくれました、高見先生。無難に終わって何よりです」

 “無難”という言葉が、まるで救いのように聞こえた。

 だが、その裏には、何も変える気のない安堵がこびりついていた。


 「それで、佐伯先生の件なんですが――」

 教頭は私の言葉を遮った。「ああ、その件はもう大丈夫です。すべて、教育委員会の管轄に移りましたから」

 “移る”という言葉ほど便利なものはない。

 責任も痛みも、すべてどこか別の場所に“移って”いく。

 そして、誰もが少しずつ軽くなる。


 職員室に戻ると、同僚たちは弁当を食べながら笑っていた。まるで何事もなかったかのように。

 「やっぱり、世の中って怖いよね」「うちは気をつけようね」。

 そう言いながら、スマホの画面を覗き込み、誰かの炎上を話題にする。

 笑い声の中に、空洞があった。

 その空洞が、まるでこの学校全体の象徴のように見えた。


 誰かが倒れたとき、誰も近寄らない。助ける代わりに、遠くから“反省”の言葉を並べる。

 教師たちは学習していたのだ。触れなければ、自分は安全だと。沈黙していれば、何も壊れないと。

 だが、本当は逆だった。沈黙が、すべてを壊していた。


 その夜、私は家に帰らず、学校に残った。

 蛍光灯の明かりが白く、書類の山が影を落としている。

 机の上に新しい通達が置かれていた。「教職員の勤務時間記録について」。見出しには、こう書かれている。

 《勤務時間の自己申告に関して、過剰な記録は控えること》


 過剰な記録とは、事実のことだ。

 事実を書くと、面倒になる。面倒は、上の評価を下げる。

 だから、事実は削る。

 真実よりも、整合性のほうが大切なのだ。


 書類を束ねるクリップが外れ、一枚が床に落ちた。拾い上げると、裏面に手書きの走り書きがあった。

 ――「あなたも、黙るんですね」。


 インクの色は青だった。佐伯先生が使っていたペンと同じ色。

 私は一瞬、息を止めた。だが、誰もいない。廊下も、静まり返っている。

 時計の針だけが、淡々と音を刻んでいた。


 翌朝の会議で、校長が言った。

 「報告の内容はすべて整いました。教育委員会への提出をもって、本件は一旦終了とします」

 “終了”という言葉が、あまりにも簡単に使われることに、私は驚かなくなっていた。終わったことにすれば、責任は消える。責任が消えれば、人はまた笑える。


 だが、その笑顔はどこか歪んでいた。

 机の上の書類には、名前の消された欄がいくつもあった。黒塗りの修正テープが、罪の形を覆っていた。

 “書いてはいけないこと”のほうが、いつも真実に近い。


 放課後、私はグラウンドの端に立っていた。

 秋の風が冷たく、遠くで部活の声が響く。

 陸上部の練習を見ている顧問の姿が、一瞬、佐伯先生に見えた。

 幻のように、そこに立っていた。

 笛を吹く仕草、帽子の傾け方、何もかもが同じだった。

 まばたきをした瞬間、消えた。

 風が吹き抜け、砂だけが舞い上がった。


 私は目を閉じた。

 あの人は“触れなかった”。それが、あの人の罪になった。

 そして私は、今、誰にも触れようとしない。

 それが、私の生き延びる術になっていた。


 その夜、SNSを開くと、学校の名前がトレンド入りしていた。

 《○○中学、沈黙の謝罪》《保護者怒りの声》《教師ら逃げ腰》。

 コメント欄には、知らない誰かの正義が並んでいた。

 「子どもを守れない学校は存在価値がない」「教師って楽な商売だね」「真帆ちゃんの勇気を称えよう」。


 真帆――あの投稿の生徒。

 その名を見た瞬間、心臓が掴まれたように痛んだ。

 私はあの子の顔を思い出した。泣きそうな目で、笑っていた。

 “正しいことをした”という顔だった。

 誰かを守ろうとしたその指が、結果的に人を殺したとしても、彼女はそれを知らない。誰も教えなかったから。

 私たちは、教えることをやめたのだ。


 夜更け。職員室には、私ひとり。

 窓を閉め、蛍光灯を消す。

 暗闇の中で、机の上の書類がうっすらと光を反射していた。

 その上に、見覚えのあるノートが置かれていた。

 ――生徒指導ノート。

 先週、なくなったはずのもの。


 恐る恐る開くと、見慣れた私の字の間に、別の筆跡が混ざっていた。

 青いインクで書かれた、一行の走り書き。

 ――「先生、次は、あなたの番ですよ」。


 背筋が凍った。

 思わずノートを閉じる。

 だが、閉じても、その文字がまぶたに焼きついて離れなかった。


 私は椅子に座り、顔を両手で覆った。

 何が真実で、何が罰なのか、もう分からなかった。

 沈黙して守ったものは、本当に価値があったのか。

 自分のためか、子どものためか、学校のためか。

 それさえ、もう分からない。


 気づけば、外が白んでいた。

 窓の外では、朝の光がグラウンドを照らしている。

 生徒たちが笑いながら登校してくる。

 その笑い声が、まるで合唱のように聞こえた。


 沈黙の合唱。

 誰も何も言わず、しかし確かに声を合わせている。

 その声は、私の胸の奥で反響していた。


 私は立ち上がり、机の引き出しを開けた。

 中には、新しい生徒指導ノートがある。

 表紙の紙はまだ白く、何も書かれていない。

 ペンを取る。

 ページを開く。


 最初の行に、私は書いた。

 ――「本校では、問題は見られなかった」。


 書きながら、涙が滲んだ。

 ペン先が震えて文字が歪んだ。

 それでも、書いた。

 この言葉こそが、学校を支える呪文だからだ。


 私は最後にページを閉じた。

 そして、小さく呟いた。


 「私も、触れなかった」。


 その瞬間、遠くでチャイムが鳴った。

 始業の鐘の音。

 今日も、同じ一日が始まる。

 誰も触れず、誰も触れられず、誰もが沈黙したまま。


 それでも学校は、回っていく。

 回ることが、正しいことだと信じながら。



第五章 職員室の鍵


 朝、鍵束の音が、まだ薄暗い廊下の天井に小さく跳ね返って、やがて私の掌の体温と同化するまでに長い一瞬を要したのは、金属の冷たさに私自身が追いつけなくなっているからで、つまり私は扉を開けるたびに、この部屋の中に沈めてきた無数の沈黙をもう一度呼び起こしてしまうことを知っているせいなのだと、鍵穴に差し込んだままの手がわずかに震えるたびに理解し直すのだった。


 回す、という行為が、開けることではなく、同意することに近いと気づいてから、私は鍵を重く感じるようになった。扉が開く、灯りがつく、椅子がきしむ、コピー機が目を覚ます、その一連の立ち上がりの中に、ここで行われる“正しい処理”の匂いが立ちのぼり、私は胸の奥で一度だけ痛む呼吸をやりすごすと、何ごともない顔で自分の席に腰を下ろした。


 佐伯先生の机は、まだ島のように取り残されていた。

 誰も座らない椅子、閉じられた引き出し、ペン立ての青いインクの痕跡、そして、一度は空になったはずの最下段から、きのう私は薄い紙の擦れる音をほんの一瞬だけ聞いたのだが、振り向いたときには何も残っておらず、耳だけが事実を記録してしまったかのように熱を帯びていた。


 鍵は、教頭が持っている。

 職員室の合鍵、個人机のマスターキー、保健室、資料室、サーバールーム、そして金庫。

 鍵束の鈍い輪に束ねられた管理の感触が、時に人間よりも権力を持つことを、私はこの学校で覚えた。


 午前の授業が終わるころ、教頭は何気ない風を装って私の席に来て、低い声で“善意”を乗せるのがいつもの手順だった。

 「高見先生、佐伯先生の机、ちょっと整理しておこうか。引き出しは、ほら、物が散らかってるとね、よくないから」

 “よくない”という言葉の内側に、どこかへ運ばれるべきものの影がちらつき、私は頷く以外に選び方を知らないうちに、マスターキーが指の上で短く転がるのを見てしまい、その金属光沢が紙の白さより眩しく感じられたのは、ここで白いものが必ずしも清潔ではないと学んだからだろう。


 鍵が差し込まれる。

 小さな開錠音、乾いた空気、紙の匂い。

 上段には未提出の進路希望表、真帆の名前が赤鉛筆で囲まれて、質問の付箋が貼られている。私はその付箋の角に触れないように指先を浮かせ、二段目を引くと、謝辞の手紙の束と、同じ数だけの苦情のコピーが輪ゴムで分けられていて、言葉というものが祝福と呪詛を同じ紙幅で並べ得ることに改めて眩暈を覚え、そして最下段……金属レールが短く鳴って、白い封筒が、ただ一枚、正面を向いて、そこにあった。


 封筒の表には、何も書かれていない。

 だが、封の角にだけ、青いインクの点が二つ、指の油に混ざって薄く滲んでおり、私はその色を知っていた。

 “あなたも、黙るんですね”と走り書きされた紙と同じ青、佐伯先生のペンと同じ青、そして、私が近ごろ無意識に選んでしまう青。


 「どう?」と、背後で教頭が何気なく問い、私は反射で封筒を裏返し、紙の白い背を見せる形で「個人的なメモが少し、あと、未処理の用件が」と答え、教頭は満足そうに頷き、鍵をポケットに戻しながら「後で私の机へ」と言い残して去っていく、その背中にぶら下がる鍵束の小さな衝突音が、私の舌の上で金属味になり、喉を乾かせた。


 封は閉じられたままなのに、言葉の匂いが漏れている。

 私は封筒を、紙の束の下に滑り込ませ、引き出しをいったん閉じる。

 閉じる音は小さいのに、中で何かが軋む気配がして、私は自分の胸骨の方をそっと押さえた。


 放課後、私は一人残って、窓際の光が床の線を越えて椅子の脚にかかるまでの時間を測るようにゆっくりと、封筒をもう一度取り出し、封の辺を指でなぞり、紙の繊維がささやくように擦れる微音を聞き、そして、開けないまま元に戻した。


 開けないという選択は、罪を確定させる代わりに、自分を生かす方法だ。

 ここでは、知らない者だけが責任から逃れられる。

 私は知ってしまっているのに、知らないふりを演じるために、指先の温度まで均して、机の鍵を閉め、胸の内側の鍵穴に同じ動作をもう一度繰り返した。


 その晩、帰宅せずに職員室の灯りを半分だけ残し、私は記録簿へとペン先を落とした。

 《佐伯担任机、整理済。個人文書、管理職へ》。

たったこれだけの文が、どれほど多くの意味を切り捨てて、どれほど多くの呼吸を見捨てて、どれほど整然とした嘘として立っているかを知っているのは、書いた私だけで、そして明日にはこの行も別の手で修正され、“関係文書なし”というまっ白な言葉に置き換わるだろうことも、私は先回りして受け入れていた。


 蛍光灯の唸りが、遠いエンジンのように一定で、眠気を連れて来ない種類の単調さを漂わせ、私はペンを置き、目を閉じ、そこで、音を聞いた。


 ――カチャ。


 扉の鍵が、内側から、誰かの指で、試すように一度だけ回される音。

 私は椅子の背に貼りついたまま動かず、呼吸だけを浅く短く整えた。

 もう一度、同じ音。続いて、ドアがわずかに、押され、戻る。


 「どなた?」と、声が出るより先に喉が拒否して、空気だけが擦れる。

 扉は開かない。

 代わりに、郵便受けの隙間から、白いものが、落ちた。


 拾い上げると、三つ折りの紙。

 青いインクで、乱れなく整った手。

 ――「鍵は、いつも、あなたが開ける」。


 それだけ。

 私は紙を折り直し、手のひらに押しつけ、皮膚の熱で少し柔らかくなった角の感触を確かめながら、椅子に沈み込んだ。

 “あなたが開ける”という能動の主語が、私であることから目を逸らすと、私は明日も、同じように扉を開けるだろうと分かってしまうから、目を閉じた。


 翌朝、職員会議。

 議題は短く、言葉は長く、意味は浅い。

 「本件の関係資料は、教育委員会へ提出済み」「ネット上の誹謗中傷には法的措置も視野」「生徒へのケアと同時に職員のメンタルサポートを」。

 私たちは頷き、メモを取り、沈黙で賛成した。


 会議が終わる直前、校長がふと思い出したように言った。

 「そうそう、封筒の件だが、最初の“告発文”は匿名で、ただ、職員室の机に置かれていただけだ。誰の机かは……まあ、たまたまだよ」

 教頭が短く笑い、数名が机の下で視線を交わし、とても小さな、しかし確かな合意が空気の表面に浮かんだが、誰もそれに名前を与えなかった。


 昼、私は資料室に向かった。

 鍵を借りに、教頭席へ行くと、鍵束は不在で、代わりに小さな返却札が角の欠けたプラスチックトレイに立っていた。

 “貸出:社会科 山内”

 山内先生――若い、要領の良い同僚。彼の机の引き出しは、いつも必要最低限の紙しか入っておらず、彼の言葉はいつでも“今”だけを指す。


 資料室の前で、私は立ち止まった。

 内側から紙の擦れる音がして、続いてホチキスの刃が紙を飲み込む小さな金属音がいくつか、規則正しく刻まれ、鍵が回る気配が、扉の木目に伝わってきた。

 山内が出てくる、扉が半分開いたところで、彼は一瞬、笑顔を貼り付け損ねた。

 「あ、すみません、高見先生。ちょっと資料の整理を」

 彼の手には、白い封筒が数枚、角が揃うように軽く叩き締められていて、その表面には何も書かれていないが、上辺の片端にだけ、青い点が、一つ、まるで印のように、置かれていた。


 「それ、個人情報?」と、私が問うと、彼は一瞬だけ笑顔を深くし、すぐに浅く変え、「いえ、ただの旧資料で」と言って、肩越しの棚へ封筒を差し込んだ。

 封筒同士が触れ合って、紙の薄い音がした。

 私たちは、同時に視線を逸らした。


 放課後、私はもう一度職員室の最下段を開け、白い封筒を取り上げ、重さを計るように掌の上でわずかに上下させ、そして、封の縁に耳を寄せる愚かしさを許した。

 紙の向こうから音は届かず、代わりに自分の血の音だけが響き、私は苦笑に似た吐息を机に落とし、封筒を鞄に移し替えた。


 誰かが、これを私に渡した。

 “鍵は、いつも、あなたが開ける”という一文とともに。

 それが佐伯先生の手か、山内の手か、あるいは、もっと別の、沈黙の合唱に馴れた者の手か、私にはもう区別がつかない。区別がつくとき、人は誰かを告発できるから、きっと、私の目はその機能を自ら捨ててしまったのだろう。


 帰り際、昇降口で、真帆とすれ違った。

 彼女は目を伏せ、通り過ぎ、そして半歩だけ戻って、私の肩の横に声だけを置いた。

 「先生、私、もう投稿しません」

 私は頷き、彼女が去る背中の肩甲骨の動きに、まだ幼い呼吸のリズムを見てしまい、言葉の代わりに鞄の中で封筒を握った。


 “投稿しない”という沈黙が、救いなのか赦しなのか、まだどちらにもならない宙吊りのまま、夕景の赤さに混ざって、私は扉を閉め、鍵を回した。

 金属音が小さく鳴り、今日が終わる音がした。


 夜、家に着くと、電気をつける前に、封筒をテーブルに置いた。

 開けるなら今だと分かっていて、開けないなら永遠に開けないだろうとも分かっている境目で、私は長い呼吸を一つ、二つ、数え、薄い刃で封を切った。


 中には、三種類の紙が入っていた。

 ひとつは、佐伯先生の手で書かれた、日付と時間と対応の一覧――私が第二章で読んだ、あの、記録の続き。

 もうひとつは、保護者会の議事要旨の下書き――黒塗りにする前の、生の語。

 そして最後に、たった一枚、青いインクの、短い手紙。


 ――「この学校の鍵は、扉を開けるためでなく、声を閉じるために使われる」。


 署名はない。

 だが、筆圧の癖と、文の傾きと、点の置き方で、私は誰の手とも断定できないように書かれていることを悟り、つまりこれは“合唱”の手紙だと理解し、椅子の背に体を預けた。


 私は明日、職員室の鍵をまた回すだろう。

 回しながら、紙を束ね、言葉を整え、沈黙の上に橋を架けるふりをして、その実、沈黙を補強する。

 それでも、机の最下段には、開けるたびに何かが現れ、閉めるたびに何かが消えるように思えるだろう。


 鍵は道具で、罪ではない。

 だが、鍵を持った手は、いつでも選べるのに、選ばないことを選び続ける限り、その手は、いつか自分自身を内側から施錠してしまう。


 私はテーブルの上の封筒を畳み、青いインクの一文だけを胸ポケットに移し替え、灯りを消し、窓の外の夜を確かめるように、長い暗さに目を慣らした。


 明日は最終章だ。

 沈黙に輪郭が与えられるだろう。

 “誰が書いたのか”ではなく、“誰が書けるようにしたのか”という問いに、鍵穴が合う音が、もう喉の奥で小さく鳴っている。


最終章 告白 ―沈黙の代償―


 朝の光は、もうどこにも優しさを持っていなかった。窓から差し込む白さは、まるで現実を殺菌するための光のようで、そこに温度も安堵も存在しなかった。机の上の書類が、光を浴びて微かに反射する。文字が焼け、紙の端がわずかに反り返る。

 私は、それを指で押さえた。押さえるという行為が、何かを止めているようでいて、何一つ止めていないことを知っていた。止められるのは、呼吸だけだ。


 職員室は、あいかわらず同じ音を立てて動いていた。プリンターの稼働音、椅子の軋み、コピー用紙の束が切れる音、誰かの笑い声。あの日から、何も変わらなかった。封筒が一枚、命を奪っても、明日の時間割は変わらない。人が死ぬより、授業のほうが優先される。


 私は机の引き出しを開けた。最下段には、昨日の夜と同じ封筒が入っている。開かれたままの口は、誰の秘密を吐き出すでもなく、ただ呼吸しているように見えた。中の紙は、青いインクで書かれた手紙、佐伯先生の記録、そして黒塗り前の議事録。

 私は三枚を揃え、そっと胸に当てた。心臓の鼓動と紙の重さが、ちょうど同じリズムで打っていた。


 昼休みの終わりごろ、校長に呼ばれた。

 「高見先生、少しよろしいですか」

 その声には、相手を褒めるでも叱るでもない、ただ温度のない“処理”の響きがあった。


 校長室の中は、書類の匂いが濃かった。机の上には封筒がいくつか並んでいる。どれも白く、同じ形。同じ素材。同じ静けさ。

 「教育委員会からの返答です」校長は言った。「この件は、これで終結ということで。あなたのご協力に感謝します」

 彼の指先が、私の机に置いていた封筒を一枚、静かに差し出した。

 それは、昨日私が開けた封筒とは違う。けれど同じ白さを持っていた。

 中には一枚の書類。タイトルは「校内事案対応報告」。


 項目の中に、“担当:高見瑞穂”と印字されていた。

 報告者の署名欄に、私の名前。

 下部には、すでに印鑑が押されていた。

 それは、私の筆跡でも、私の印ではなかった。


 「……これは、誰が?」と、私はかすれた声で聞いた。

 「正式な文書です。あなたの同意は、前回の会議でいただいています」

 “同意”。私は、うなずいた記憶を思い出す。

 沈黙で賛成した瞬間を。


 その日の放課後、真帆が職員室の前で私を待っていた。

 窓の外では、春の雨が静かに降っていた。雨粒がガラスを流れ、線になり、また別の線と重なる。


 「先生」

 真帆の声は、小さく震えていた。

 「この前の……あの投稿、全部消しました」

 「そう。ありがとう」

 「でも、消しても、残ってるみたいなんです」

 私は彼女の言葉を理解するのに数秒かかった。

 「削除しても、どこかに残る、ってこと?」

 真帆はうなずいた。

 「誰かがスクショして、拡散してて……もう止められない」


 その瞬間、私は心の中で笑った。

 この国は、記録を削除しても、沈黙を削除しない。

 真帆が撒いた言葉の種は、もう大地に根づいている。

 どんなに掘り返しても、消えることはない。


 「大丈夫」私は言った。「君は悪くない」

 それは慰めでも赦しでもなく、ただの言葉の空洞だった。

 だが、真帆は泣きそうな笑顔で頷いた。

 「先生がそう言ってくれるなら……よかった」


 彼女が帰ったあと、私は思った。

 “悪くない”という言葉ほど、無責任なものはない。

 悪を断定しないことで、誰も救われないまま残る。


 夜、職員室には誰もいなかった。

 雨の音が窓を叩いていた。

 私は机の上に、すべての封筒を並べた。


 佐伯先生の封筒。

 私の封筒。

 校長が渡した封筒。

 それらはまるで、並列された遺書のようだった。


 どれも手書きで書かれている。どれも匿名のようで、個人の息遣いがある。どの手も、“触れなかった”。

 封筒たちは、それぞれが沈黙をまとっていた。


 私はペンを取った。

 白紙の封筒を一枚、引き寄せる。

 インクの青を確かめ、書き始める。


 ――「この学校は、沈黙によって成り立っている。誰も悪くない。だから、誰も善くない」。


 書きながら、手が止まらなかった。

 次々に言葉が溢れていく。

 佐伯先生のこと、真帆のこと、教頭の言葉、母親たちの沈黙、山内の封筒。

 私は全てを紙に移した。


 それは懺悔ではなかった。

 ただの記録。

 報告書ではなく、記録。

 “書く”という行為が、唯一の抵抗になっていた。


 翌朝、私はその封筒を机の上に置いた。

 白い紙の海の中に、もう一枚の白を沈める。

 それでようやく、バランスが取れる気がした。


 出勤してきた教頭が、それを見つけた。

 「これは?」

 「生徒指導の記録です」

 彼は疑いもせず頷き、他の書類と一緒に重ねた。

 私はその光景を、静かに見届けた。


 昼の校内放送で、校長が言った。

 「先日までの一連の件につきましては、本日をもって正式に終了といたします。今後とも、ご理解とご協力をお願いいたします」


 放送の終わりに、わずかなノイズが混ざった。

 スピーカーが古く、たぶん配線の問題だろう。

 けれど私は、そのノイズの中に、確かに聞こえた。

 ――“触れなかった”。

 あの青いインクの声が、わずかに混じっていた。


 夕方、私は鍵を返した。

 職員室の合鍵。机の鍵。資料室の鍵。

 教頭が言った。「お疲れさまでした」

 私はただ頷き、鍵の重さを掌で確かめた。

 金属の冷たさが、骨の奥に染みていく。

 その冷たさが、かつての罪悪感の代わりになっているようだった。


 職員室のドアを最後に閉めたとき、鍵の音が廊下に響いた。

 その音が、どこかで聞いた“カチャ”と同じ音だと気づいた。

 違うのは、その音が今度は内側からではなく、外側から鳴ったということ。

 沈黙が、完全に閉じられたのだ。


 私は外に出た。

 空気は冷たく、空は白かった。

 校庭には、雨上がりの水たまりがいくつも残っていた。

 雲の合間から差す光が、水面に映り、揺れていた。


 ふと、風が吹いた。

 どこからか、一枚の紙が舞ってきた。

 拾い上げると、それは白いメモだった。

 青いインクで、たった一行。


 ――「先生、ごめんなさい」。


 その字は、真帆のものだった。

 私は立ち尽くした。

 紙の角から滴る水が、私の手の甲に落ちた。


 家に帰ってから、机の上のノートを開いた。

 生徒指導ノート。

 空白のページが、まだ何枚も残っていた。

 私は、そこにゆっくりと書いた。


 ――「触れなかった」。

 ――「書き換えなかった」。

 ――「黙らなかった」。


 最後の一文を書く前に、手が止まった。

 少し考えて、私は文字を置いた。


 ――「でも、止められなかった」。


 書き終えた瞬間、心の奥で何かが静かに折れた。

 それが悲しみなのか、安堵なのか、もう分からなかった。


 夜、窓を開けると、風が吹き込んできた。

 カーテンが揺れ、紙が一枚、床に落ちた。

 拾い上げると、それはあの封筒の裏紙だった。

 光に透かすと、青いインクの跡が見えた。

 掠れた文字が、まだそこに生きていた。


 ――「沈黙は、合唱だった」。


 私はゆっくりと目を閉じた。

 その言葉の意味を考えることをやめた。

 考えた瞬間、それはまた誰かの罪になるからだ。


 耳の奥で、かすかな声がした。

 “先生”。

 “ありがとう”。

 “ごめんなさい”。

 それらが同時に重なり、溶けていった。


 世界は静かだった。

 ただ、沈黙の合唱だけが続いていた。


(終)

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