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おぎ

作者: 安田ドア

芋焼酎のお湯割り

飛魚のなめろう

わけぎと烏賊のぬた

挽肉入り茄子田楽の焼き梅干し乗せ


「あんたはきっと死んでも腐りゃしねぇなァ。体ん中からアルコール漬けになってるみてーなもんだからさァ。」


油蝉がみえんみえんと、半日放っておいた揚げ物みたいにクドく鳴いている夏の午後、庄司松男は小木から嫌みを言われていた。

とは言えそれは本意気の嫌みではなく、よく知った馴染み客に向けられた、充分な愛着を含んだものだった。


店前の通りでは小学生が下校の時刻を迎えていた。何が楽しいのか、石ころを手にした少年を囲んで3人が天を仰ぐ勢いで大笑いしながら、フラリと風に煽られた暖簾の前を通り過ぎた。


ほのかに酔うた松男が笑い声に顔を向けると、褪せた臙脂色の暖簾に「立ち飲み おぎ」の絞り染め風に白く抜いた逆さ文字が見えた。


この店は昼の3時から開いている。松男はほぼ毎日、決まって開店30分後、つまり午後3時半に顔を見せる。

“立ち飲み”となっているが、それは先代からの名残で、現在は随分と華奢な木製の椅子が並んでいる。酒が入った客から「座りが悪い」とケチを付けられることもあるが、小木はそういう酔客の両の目を指差し、「お客さんのココは座ってきてますぜ」と言ってよくその客のツレの笑いを誘っていた。


こういう愛嬌を煩わしいと嫌う客も少なくないが、逆にその機微を好んだ常連も多い店であった。松男もまた、後者のうちの一人であった。


「相変わらず小木ちゃんはキツいねぇ。まぁ、腐らねえっつぅんならそれはそれで珍しいってんで、死んだ後も博物館にでも勤務できるからいいかも分からんぜ。」


日焼けした頬にどす黒いような赤みを作りながら、ハハッと松男は自分の言葉にウケる。小木もそれにフフッと答えてカウンターに肘をついている。


さすがにこの昼間からの常連は松男くらいなものだった。仕込みも実はまだ途中なのだが、何分カウンター5席と二人掛けのテーブル1卓だけの小さな店なので、大方の仕込みの目処が付いたあとの片手間にできる作業がてら、少人数の客を相手した方が少しは売り上げの足しになるだろう、との思惑から小木は明るいうちから店を開けているのだった。


昼前後に仕込んだ肴はまだ温め直す必要もなく、出来立てのそれを食らう赤ら顔の相手をするのは最早日課になっており、松男の表情からその日の肴の出来具合が分かるので、小木は小木で嬉しいことなのだった。


大抵、酒の肴というのは塩気の多いものだが、松男はその上を行くような塩っぱいのを好むから、多少松男の反応が悪い方が他のお客の口には合った。「小木ちゃん、こりゃウマいな」なんてことを松男が言う日は要注意だ。そんな日は慌てて夜までの時間をさっぱりしたアテの仕込みに充て、大した反応のない日はゆったりと松男の相手をした。この日の松男は大して美味そうな顔をしなかったから、小木は安堵して布巾で厨房を念入りに拭いたりして過ごしていた。


ぬるっとしたわけぎのひとかけらを器用に箸で口に運び、芋の2杯目でそれを流し込み終えると、松男は冷たいウーロン茶を注文した。いつものあがりの合図だ。


「松っちゃん、今日もこれから仕事かい?」


グラスに氷をカランカランとほおりこみながら、小木は聞いた。


「おう。今日もガソリン入れたしな。ここのガソリンは毎度高くつくぜ。」


憎たらしく軽口を叩いて松男はカウンターに据えてある楊枝を手に取った。

右の犬歯のあたりを探るように楊枝でなぞってから、松男は小木に言った。


「小木ちゃん」


振り向いた小木に松男は続けた。


「俺ぁもうぼちぼちさァ、仕事引退しよかと思ってんだ。」


「あら。また何で。」


松男に差し出したグラスの中で、クルンと氷が鳴った。

唐突な告白だった。実は表情に見せた以上に、小木は驚いていた。あまりに出し抜けな告白だったので、小木はあからさまに驚くことさえできなかったのだった。


皺に黒ずんだ汚れが刻まれた松男の手にグラスを手渡したあと、小木は眉をほんの少し「八」の字気味にしながらカウンターに両の肘を付いた。


「どっか悪くしたのかい?松っちゃん。」


「いや、そうじゃねんだ。」


松男は大げさに左手を振ってから大きな氷と共に暗い琥珀色を口に含み、それをガリガリと噛み砕きながら小木を見た。片の頬が氷で膨れている。


「もう時代じゃねんだよ。簡単に言やぁ。」


松男はおしぼりで口元を乱暴に拭ってから厨房の上部に据えられた一柄の団扇を仰いだ。紺地に白抜きで「おぎ」と描かれた団扇だった。

白抜きの部分は油で茶色く染まり、全体が埃を捕らえていた。それでも深紅のヘリはまだ幾分かその鮮やかな色を残していた。


それはかれこれ十五年以上前に松男が手がけた団扇だった。この店に通い始めて数年経ったころ、小木に贈ったものだった。藍と紅は、その季節、夏の夕刻をイメージしたものだった。今でも思い出す、暑い昼と打って変わって、涼しい夕だった。


松男はこの町で小さな団扇工房を営んでいる。今はもうすっかり江戸っ子に見える松男だが、十代の頃、長野の飯田から戦後の東京に出て来たのだった。当時引く手あまただった工業系の求人には目もくれなかった。そんなに頭の回る質の男ではなかったのだが、手に職を得た方がどんな時代にも困らないと、そんなことを松男なりに考えて湯島の団扇職人のもとで働き始めたのだった。意外に臆病な気質の持ち主だとも言えた。八年の修行後、この町にやってきた。

職人、と言えば聞こえはいいが、別に伝統工芸師として珍重されるでもなく、かと言って大型機械を導入して大量生産できるでもなく、たいそう庶民的な“団扇屋 ”だった。

商店街で祭りがあれば「○○駅前商店街」と ポップなフォントの団扇を作り、「確定申告の季節です」なんて書かれた、さしたる需要もなさそうな役所発注のものを作ったりしていた。


今やそういった類いの団扇は格安で手に入る。別にこの町は観光地でもないし、昭和40年くらいまでは隣町に料亭が数件あったのだが今は特に下町風情がある訳でもない。卸せるような土産物屋や旅館もない。松男がこの町に来た頃にはまだ小さな置屋がいくつかあったので専属の仕事があったが、折角の松男の技芸も、もうどうしたっておしまいなのであった。


「ここ四半世紀ほどじゃ、あれが一番の出来だぜ。」


“おぎ”の団扇を指差したあと、楊枝を小皿に放りなが 松男が言った。


「あぁ、あれ。懐かしいねぇ。松っちゃんがまだ俺に敬語使ってた頃だ。」


努めて小木は軽く振る舞った。同世代の引退を受け入れたくなかった。


「俺だって一応当時から大人ですもの。敬語くらい使うでございますよ。」


松男もふざけて応じた。二人して笑った後、ちょっとの沈黙があり、松男は言った。


「死んだオヤジがね。田舎の。とにかくねぇ、団扇が 好きだったんだよ。今風に言うと団扇オタクとでも言うのかねぇ。変なオヤジでさぁ、冬でも手放さねぇの 。しかも毎日違うヤツ。信じられる? って、団扇屋の俺が言うのも可笑しいけどさぁ。それにしても、もう癖になっちゃってたんだなありゃ。別に本意気で仰ぐ訳でもなく一年中パタパタさせてたんだよ。夏が来る度に新しい団扇を7つも8つも、いやもっとかな、どっかから仕入れてきてさ、『んん、こりゃ“筋入れ” が綺麗でいい』『これは“ヘリ取り”が甘い』とか何とか言うわけよ。あ、“筋入れ”ってのは団扇拵えるときに骨をしごいてこうパキッとさせることで、“ヘリ取り ”は、まぁ縁の仕上げのことなんだけどさ。当時は俺ぁオヤジの言ってること何も気にしてなかったんだけどさぁ。いや正確には気にしてるつもりはなかったんだけどさ、何柄年中のオヤジの団扇蘊蓄が、随分効いてたんだろうねぇ。東京出てきたら自然と団扇屋に足向いちゃって、そんでこのザマだよ。」


“このザマだよ”のときに松男はおどけた表情で両手の平を頭上に掲げ、「お手上げ」のポーズをしてみせた。


「ま、良かったけどね、団扇屋家業。」


爽やかに、にこっと笑った。

小木は黙って聞いていた。ひとり娘には会社勤めをさせたのは知っていた。後を継ぐような本格的な弟子を取らなかったことも知っていた。昼間はパートのおばちゃんに簡単な作業を任せて、残りの仕事は夜遅くまで一人でこなしていることも知っていた。


「じゃあ、この店で焼き鳥や鰻でも仕込みながら炭火に団扇仰いでくれよ」小木はそう言いかけて飲み込んだ。

そうしてから姿勢を正して小木はお得意の嫌みを松男に鼻向けた。


「そうかい。じゃあ今まで以上にしょっちゅう飲みに来られちゃうワケだ。」


「高くつくからなぁ。そいつぁどうかなぁ。」


「あ、そうか。アルコール漬けで博物館勤務になるのか。」


「馬鹿言っちゃいけねぇよ。それは死んだ後の話だよ。そのときのためにもっと飲まなきゃいけねぇって話だよ。あ、じゃあやっぱし、しょっちゅう来なくちゃな。義務。そういう義務感を持って飲みに来ますよ。」


手刀を切るような仕草の後、ヒヒっと笑って松男はウーロン茶を飲み干した。

小木は内心安堵し、それを悟られまいとした。


「まずいなぁそりゃ。一日中忙しくなっちゃうじゃん。」


「暑い厨房で仕事する小木ちゃんを会心の最新作で仰いでやるよ。」


パタパタと仰ぐ仕草をしながら、小木の内心を見え透いたように松男は答えた。

カウンターに置かれたグラスの中で、氷がまた、声高に笑うようにクルンと鳴った。誘われるように臙脂の暖簾が揺れていた。小学生はもうどこかにいった。老いぼれの換気扇がカタカタと回っていた。太陽は重い腰をあげるように夏の夕焼けを作り始めて、時計は午

後五時を回った。グラスの結露の雫が、ちょうどカウンターにたどり着いていた。

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