文久三年八月の事件簿 其の七
信太郎達が壬生へ戻り屯所へと近づくと、道場の方から随分と騒がしい声が聞こえてきた。この時間は見廻りと非番の隊士以外は道場で稽古をしているはずだ。
浪士組の屯所は壬生の富裕郷士である八木家と前川家の屋敷を間借りしている。前川邸の敷地内にある道場は有名流派にも劣らぬ立派なものであった。
その道場から、まるで鬼の咆哮のような大声が響く。骨の芯に響くように低く、それでいて耳にはっきりとよく通るその声は、二人が今日ずっと探し続けていた人物のものであった。
喜次郎が急いで草履を脱ぎ、道場の戸を開ける。
そこに立っていたのは、浪士組筆頭局長芹沢鴨その人であった。その周りには、稽古中であったろう隊士たちが怯えた様子で立ちすくんでいた。
「芹沢先生……」
「あァん?」
芹沢はゆっくりとこちらを振り返る。木刀を右肩に担ぎ、その足元には隊士たちが数名呻き声をあげて横たわっていた。
喜次郎に少し遅れて信太郎が道場へと足を踏み入れる。
「なんだ浅野じゃねえか。もう一人は……誰だっけかお前」
「浅野じゃなくて林ですよ。こちらは先月入隊したばかりの松本喜次郎君です」
「あぁ、そうだったっけか」
ゲラゲラと芹沢は下品に笑う。信太郎たちとはだいぶ離れているがここまで酒の匂いが漂ってくる。この男から酒の匂いがしない日は無いが、昨晩は随分と深酒を煽ったらしい。
「ちょうどいい。林、お前付き合えや」
「……話が見えませんが」
信太郎が怪訝な顔をしていると、入り口近くで壁に寄りかかっていた隻眼の男が口を開いた。芹沢一派の一人、平山五郎だ。すぐ隣には同じ芹沢一派の平間と野口もいる。
「芹沢先生の酔い覚ましだ。手合わせしていただけるとよ」
「流石に飲みすぎちまってな。汗でも流そうと思ったんだが、新入りどもじゃ相手になりゃしねえ」
そう言って芹沢は倒れている隊士の肩を木刀でつつく。鎖骨にヒビが入っているようで、突かれた隊士はぎゃあと悶絶の声をあげた。
芹沢は三大流派の一つ神道無念流免許皆伝の腕前だ。日の本で最も有名な過激尊攘組織天狗党に所属していたこともあり実戦経験も豊富で、並の剣士では歯が立たない。
信太郎は太子流の目録で、副長助勤の猛者達ほどではないが、隊内でも屈指の遣い手だった。
信太郎は今、役目の途中だ。しかも目の前には佐々木殺害の被疑者がいる。本来ならばこのような事をしている場合ではない。
だが、今の芹沢は止められない。ここで自分が断れば他の若い隊士たちが再起不能にされてしまう。信太郎に拒否権はなかった。
勝つのは至難だが、防御と回避に徹して程よく満足させればそれでよい。信太郎は意を決した。
「わかりま——」
「芹沢先生」
信太郎の声は、喜次郎に遮られた。
「あ? 何だお前まだいたのか。どいてろ邪魔だ」
大柄な芹沢が一歩進む度どすどすと鈍い音が響く。信太郎や喜次郎も背は高い方だが、芹沢は更に頭二つは大柄であった。
しかし喜次郎は臆する事なく、信太郎に近づいてきた芹沢の前に立ち塞がり、その顔をまっすぐに見据えた。
「岸和田脱藩、松本喜次郎と申します」
「……あァ?」
行く手を遮られた芹沢はひどく不快そうに喜次郎を見下す。
「一手、手合わせ願います」
瞬間、道場内がどよめいた。流石の信太郎も驚き、喜次郎の肩を掴む。
「松本君、やめなさい。無礼ですよ——」
「ああ、いい。いい」
意外にも信太郎を止めたのは、他ならぬ芹沢だった。
「すぐどかしてやる」
そう言うや否や芹沢は木刀を喜次郎の脳天めがけて振り下ろす。片手で振り下ろしたとは思えない速さで襲いかかるその剣を、喜次郎は身体をすっと半身引いて避けてみせた。
一瞬驚いた芹沢だったが、すぐさま二の太刀で木刀を横に払う。
しかし、それも喜次郎は腰に差した刀を鞘ごと帯から引き抜いて受けた。これには芹沢も目を見開いて驚いた。
喜次郎は一度深く息を吐く。
「自分も、木刀を使ってよろしいですか?」
そのまま脇差と刀を帯から抜き、すたすたと歩いて壁の刀掛けへと掛け、代わりに木刀を握る。
あまりにも簡単に自分の剣を防ぎ、淡々と手合わせの準備を進める喜次郎を見て、芹沢は吹き出し、大笑いを始めた。
「何だ、面白え新入りが入ったじゃねえか」
初めて芹沢が両手で剣を持ち、正眼に構える。
「気に入ったぜ」
明らかに空気が変わった。先程までただ木の棒を力任せに振り回していただけの芹沢が、木刀を構えて剣術を使用した。ただそれだけでその場にいる誰もが、まるで真剣での立ち合いを見ているかのような緊張感を覚えた。
流石の松本も流石に背筋に冷たいものが走る。しかし、大きく深呼吸をして、芹沢同様に——やや剣先が芹沢より低いが——正眼に構えた。
じわり、じわりと二人はすり足で間合いを詰めていく。その時間は実際よりもひどく長く感じた。
二人の木刀の鋒が交差する。刹那、喜次郎が一気に間合いを詰め、そのまま鋒を芹沢の喉元目掛けて突いた。
芹沢はほんの半歩下がってその鋒が届かないぎりぎりの間合いで避ける。そして喜次郎の木刀を払い、今度は芹沢が間合いを詰め、鬼のような咆哮と共に袈裟がけに斬りかかった。
並の剣士ならば臆して避けようとするだろう。だが、喜次郎はあえて前に出て、至近距離で芹沢の剣をがっちりと受け止めた。俗に言う鍔迫り合いの状態だ。
しかし、鍔迫り合いは膂力のある方が有利だ。芹沢より一回り小さな喜次郎は徐々に力で押されていく。
すると急に芹沢がばっと大きく下がった。有利な立場であったのに、なぜ下がったのかと周りがざわつく。
「——指か」
信太郎が呟いたとおり、鍔迫り合いの最中、喜次郎は芹沢の親指を躊躇なく折ろうとした。即座に意図に気付いた芹沢は、完璧に指を掴まれる前に一足飛びで後ろに下がって回避したのだった。
強い。信太郎は内心驚愕していた。
喜次郎の強さは稽古で知っていたつもりでいたが、真剣勝負に近くなると更にその強さが際立つ。剣の腕以上に、相手を傷つける事、斬りかかることに一切の躊躇がない。命のやり取りでは、その差が明暗を分けることになる。
ここまでは喜次郎が芹沢を押しているように見える。しかし喜次郎はこのわずかな撃ち合いで滝のような汗をかいていた。
指折りは苦肉の策だった。鍔迫り合いは駆け引きがものをいう。力一杯押されたら、絶妙な機を狙って上手く体や刃をずらし、反撃に転ずることができる。相手もまた、そうはさせじと上手く相手の重心を押さえ込みながら、時に牽制や誘導を交えて隙を作ろうとする。
百戦錬磨の芹沢は力だけではなく、技と駆け引きも一流だ。あの手この手で反撃を狙ったが、ことごとく抑え込まれた末に喜次郎は指折りを選択したのだった。
深く息を吐き、芹沢は構えを正眼から大上段に変える。ぶわっと喜次郎の全身の毛穴が開いた。
背の高い芹沢の大上段は迫力が違う。単純な振り下ろしが致命傷になり得る。力任せに木刀を振り下ろしただけで相手の鎖骨を折るような男が、完全に攻撃を重視した大きな構えで一撃必殺を狙っている。無論その分隙も大きい。しかし、喜次郎は芹沢よりも早く斬りかかれる気がしなかった。
まずい。
そう感じたその瞬間——。
「こんなもんでいいだろ」
芹沢が構えを解き、木刀を手近な隊士へ放り投げた。
予期せぬ終わりに喜次郎は思わず「は?」と声が出る。
「松本だっけか。楽しかったぜ」
そう言って芹沢は道場を後にする。平山達が慌ててその後を追いかけて行った。
力が抜けて喜次郎はその場に膝をつく。呼吸は酷く乱れ、体からは汗がとめどなく溢れてくる。
負けた。完全に負けた。真剣ならば間違いなく死んでいた。
喜次郎がここまで神経をすり減らしていたというのに、芹沢は汗一つかいてはいなかった。向こうは酔い覚ましのいい運動くらいにしか思っていないだろう。
「今日は君の意外な面ばかり見ますね」
ふと顔を上げると、信太郎が立っていた。
「意外と直情型なんですね君は」
「……そのようで」
反論する余地もなく、喜次郎は苦笑した。
信太郎は他にもこの立ち合いでわかったことがある。
松本喜次郎は人を斬った事がある人間だと、信太郎は確信した。