文久三年八月の事件簿 其の六
京都最古の花街、島原。今や祇園新地に人が流れ、廃れつつあるその中に芹沢ら馴染みの揚屋、角屋はあった。
信太郎も何度か芹沢に連れられた事があるが、置屋から招く芸妓の質も高く、格式高いながら値段も適正で、寂れた島原の中でも多くの客を抱える老舗の名店だ。
信太郎と喜次郎の二人は角屋の楼主から、昨晩の様子を尋ねていた。
「芹沢先生なら、昨日は暮れ六つ過ぎには平山先生達と来はりましたなぁ」
「いつもの面子でしたか」
芹沢は気まぐれに近藤派の幹部や新人隊士を連れ回す事があったが、どんな時も必ず供に連れる四人がいた。
水戸天狗党以来の同志である平山五郎、平間重助、野口健司。そして浪士組結成の時に入隊した佐伯又三郎の四人だ。
「佐伯先生以外の四人で来はりました」
予想どおり、昨晩の見廻り当番だった佐伯以外の三人が同行していたようだ。
「『来はりました』ということは、もう芹沢局長はお帰りに?」
「はい。昨日は夜遅うまでお飲みになられた後、それぞれお部屋でお休みになられまして。日ぃ昇る頃にはお帰りになられた」
「……日が昇る頃、ですか」
佐々木とあぐりが駆け落ちしようとした時間と重なる。朝帰りの芹沢と鉢合わせてしまったとしてもおかしくない。
「芹沢局長が店を出た後、どこへ行ったかご存知ですか? 実はまだ屯所に戻っていないんですよ」
「いやあ流石にそこまでは。ああ、ただ芹沢先生達が来はってから一刻くらいしたやろか……佐伯先生が大慌てで来はりましたな」
「佐伯先生が?」
佐伯は昨晩、隊士四名を連れて見廻りに出ていた。仕事を放り出して島原へ来たということだろうか。しかしそれは考えづらかった。
佐伯又三郎という男を簡潔に言うと、芹沢一派の金魚の糞だ。浪士組結成時からの古株で副長助勤という立場にこそいるが、いつもオドオドとしていて平山達によく仕事を押し付けられていた。平隊士からも侮られ、馬鹿にされてもへらへらと愛想笑いを浮かべるような男だ。
あの小心な男に、任務を放って島原に来るような度胸はない。
「佐伯先生は他に隊士を連れていましたか?」
「いや、お一人でした。えらい慌てて芹沢先生のところに行ってから、すぐまた走って出ていってもうて」
隊士を放ってまで何をしに来たのか。隣の喜次郎と目が合う。
「戻ったら佐伯先生に話を聞きますか?」
「そうですね。何か知ってるかもしれませんし、今回の件と無関係でも、監察方としては見廻り中に隊士を放って島原に来た事実は看過できません」
結局ここにも芹沢はおらず、下手人の可能性は更に高くなってしまった。信太郎は深く嘆息した。とりあえずここにもう用はない。二人は店を後にする。しばらく歩いて大門を潜り、朱雀千本通へと戻ってきた。
「どうします? 一旦屯所に戻りますか」
「そうですね。芹沢局長も戻ってきているかもしれませんし……おや?」
佐々木とあぐりの遺体が発見された藪のあたりに大柄な男が立ち尽くしていた。島田や芹沢にも劣らない巨軀の男に向かって、信太郎は声をかけた。
「松原先生」
松原と呼ばれたその男はゆっくりとこちらを振り返る。
松原忠司。信太郎や佐々木と同じ五月に入隊し、副長助勤と柔術師範を任された浪士組屈指の豪傑である。
しかし、振り返ったその顔には生気がなく、目も虚ろでまるで廃人のようだ。
「林と松本か。……そうか、林は監察だったな。愛次郎の件で来たのか」
「ええ。……心中、お察しします」
信太郎が頭を下げる。
佐々木愛次郎は、松原の弟子であった。浪士組に入る前、松原は大阪で柔術の道場を開いており、佐々木はその門人だった。五月に浪士組が将軍の下坂に同行し隊士を募った際に、師弟揃って入隊してきた。
二人は互いを信頼し合った良き師弟であり、親子のようでもあった。
あぐりもまた松原とは旧知の仲であり、佐々木同様に我が子のように可愛がっていた。
先程隊士が集められ、佐々木とあぐりの遺体がこの千本通の藪で見つかったと通達された時、松原を目を口を開いたまま、しばらくその場から動けないほどに驚愕し、放心していた。
「どこまでわかった?」
「詳しいことはまだ何も」
「そうか」
そう言って松原は、佐々木が横たわっていただろう場所に一歩近づく。
「……夫婦になりたいと言っていたんだ」
いつもはよく通る迫力のある声も、今はひどく弱々しかった。
「あぐりはずっと、愛次郎と夫婦になりたいと……。けど、愛次郎はああ見えて血気盛んでな。この動乱で血が騒いだのか、男として一旗揚げるまではといつも突っぱねて……その度に拗ねるあぐりを宥めるのがいつも大変だった」
信太郎と喜次郎は何も言わずにその言葉を聞いていた。確かに彼らの知る佐々木は普段穏やかだが、酒の席では熱く国論について語る激情家でもあった。
「浪士組の話を持ってきたのも愛次郎だった。私はともかく、愛次郎にはあぐりがいる。道場の留守を任せるから、残って所帯を持てと何度も言ったが……あいつは聞き入れなかったよ。」
そこで松原はがくりと両膝をついた。そして両の手で袴を強く握りしめた。
「あの時、もっと強く止めていたら……!」
両肩を震えさせて、涙声で松原が呟く。
その背中に喜次郎が声を掛けようとして、信太郎に制された。
「今は、一人にしてあげましょう」
そう言って信太郎は屯所の方へと向かって歩き出す。喜次郎は松原の背中をしばらく見つめた後、信太郎の後を追った。
背後から松原の声が聞こえてくる。
「どうして……どうして」
その声がやけに耳に残った。