文久三年八月の事件簿 其の五
佐々木とあぐりの遺体発見現場は、浪士組屯所のある壬生から歩いて四半刻もかからない場所であった。
朱雀千本通は、北は洛北から南は九条通までの広い道である。かつては平安京の主要路であったが今では廃れ、集落や人通りも少ない野道となっている。
七条大路との交差点あたりには京都最古の花街である島原があり、佐々木とあぐりの遺体が見つかったのはそこから程近い竹藪の辺りだ。
信太郎と喜次郎の二人は遺体が発見された場所を訪れ、現場検証を開始していた。
「しかし同心どもが一人もいないとは……まだ佐々木さんの遺体が発見されて二刻ほどのはずですが」
「今の京は辻斬りや強盗が多発しています。この広い京の、そのすべての事件に限られた人員を割くのは難しいですからね」
事実その人手不足を補うために京都守護職が設置され、会津藩が千人もの藩士を引き連れて遠い国許からやってきたのだ。それですら手が足りず、浪人集団である浪士組の手を借りている有様だ。身分上はただの浪人である佐々木や、ただの町娘であるあぐりの死に、奉行所が手を割く余裕はなかった。
「まあ、おかげでこちらは色々とやりやすいですよ」
そういって信太郎は佐々木が発見されたあたりをしげしげと見る。とはいえ、特段目立つところはない。雑草にしばらく人が倒れていた跡が残る程度で、他に目新しいものは無さそうだった。
「無駄足でしたかね」
「何もない事がわかるというのも収穫です。無駄ではありませんよ。それに——」
信太郎はその場にしゃがみ込んで、遺体が倒れていただろう場所の雑草に触れる。
「色々わかったこともありますしね」
「……この何もない場所でですか?」
「この何もない場所でです」
きょろきょろと辺りを見渡しながら信太郎が喜次郎の問いに答える。喜次郎にはこの場所から何が読み取れるのか皆目検討がつかなかった。
「もしここで佐々木君達が襲われたなら、もっと暴れた跡が残るはずです。佐々木君が殴られ、殺された痕跡。あぐりが手籠めにあった痕跡。ですが、ここに残っているのは二人が倒れていた痕跡だけです」
「——あ」
ようやく喜次郎にも合点がいった。何もないからおかしいのだ。下手人がどれほどの遣い手であっても、大の男が無抵抗でむざむざと殺されるわけがない。あぐりには遺体に抵抗の跡が見られなかったためわからないが、少なくとも佐々木は何かしら激しく抵抗したはずだ。
「ただ、わずかながらに血痕が見受けられます。体の刀傷はここでつけられた可能性が高いですね。死後は血の流れが止まりますが、斬りつけた場所によっては体内に残った血が流れ出ますから」
「……つまり、下手人は別の場所で佐々木さんとあぐりを殺し、ここへわざわざ遺体を運び込んで、しかも佐々木さんにだけ刀で傷をつけたってことですか」
「おそらく」
喜次郎はいよいよわけがわからなくなった。佐々木とあぐりはどこで殺害されたのか。なぜわざわざこんな場所に運び込んだのか。なぜ佐々木の体に傷をつける必要があったのか。
「仮に芹沢先生が下手人として、こんなことをする理由はなんでしょうね」
「まだそこまではなんとも。なにせここは芹沢さんお気に入りの島原からも近いですからね。芹沢さん達が別の場所で殺害して、ここに捨てた可能性もある」
やはり昨晩の芹沢達の動向がはっきりしない以上、捜査は途中で手詰まりになる。
「色々とわかった事ですし、次は島原へ行きましょうか。芹沢先生達行きつけの店を回ってみましょう。昨晩どこかの店で朝まで飲んでいたと証言でも取れれば僥倖です」
「……そうですね」
「浮かない顔ですね」
「いえ、佐々木さんの事はよく知りませんが、死んだ後にまで遺体を動かされ、辱めを受け……そこまでされるような罪などあるのかと思いまして」
まともな社会通念と道徳を兼ね備えた人間ならば、屍に傷をつける行為など正気の沙汰とは思えないだろう。まさに鬼畜の所業だ。腑分けですら、重罪人の処刑後の遺体でなければ許されないというのに、佐々木は死後もこのような仕打ちを受けるような重罪を犯したとでもいうのだろうか。
「怒っていますか。正直、君は他人に対してそこまで感情を動かさない人間だと思っていました。ましてや君は佐々木くんとさほど親しくもなかった」
「親しくなくとも、誰かが尊厳を踏み躙られていたら憤るものでしょう」
今、喜次郎の胸は憤怒で満ちていた。死してなおその屍を傷つけられ、安らかに眠る事すら許されない。下手人にどのような思惑があれ、佐々木にどれほどの罪があったとて、このような蛮行を見過ごすなど、喜次郎にはできない。
「我々は下手人が芹沢先生ではない事を特定できたら良いのです。そこは履き違えないように」
「わかってます。ですが、それがわかった後も俺は下手人を探し出しますよ」
あれほど、絶望したというのに。
あれほど、深い傷を負ったというのに。
だからこそもう何も深入りせず、何も感じずに生きようとしたというのに。
どれだけの絶望を味わったとしても。
どれほどの痛みを被ったとしても。
やはり自分という人間の性分はこれで、変える事は出来ないのだと、喜次郎はこの瞬間悟った。