文久三年八月の事件簿 其の一
文久三年八月二日(1863年9月14日)の朝。京都壬生村にある八木源之丞宅の一室に二人の若者が座していた。一人は、松本喜次郎。つい先日、会津藩預かりである浪士組に入隊したばかりの、十八の若武者である。もう一人は林信太郎。浪士組が結成されて間もない五月に大阪にて入隊し、二十歳の若さで内外の情報収集を担う諸士調役兼監察方に任命された、隊内での信頼厚い有能な男だ。
先程、喜次郎が信太郎に呼び出され、この部屋に二人で待機してから随分な時間が経つ。入隊したばかりの若者がいきなり幹部から呼び出されたら、普通はそわそわと落ち着かない様子を見せるものだろうが、この喜次郎という男は普段から若者らしい覇気がなく、今も無気力で気怠げな表情のまま、開かれた障子から見える庭をぼんやりと眺めていた。
「お待たせして申し訳ありません。少し時間がかかってるようで」
長い沈黙に気を遣ったのか、信太郎が声をかけた。信太郎は普段から言葉遣いが穏やかで、部下に対しても物腰が柔らかく、心配りも良い。そのような面も評価されて幹部に抜擢されたのだろう。
「皆さん忙しいでしょうし、気にしてません」
それに対し、喜次郎は淡々と返した。信太郎に気を遣ったわけではなく、どれほど待たされようが心底どうでもいいと思って口から出た言葉であった。
そう答えた喜次郎はそのまま再び庭へと目を移す。盛りは過ぎたとはいえ、京の街特有の蒸し暑さが残る八月。陽光を浴びて庭一面の草木からゆらゆらと陽炎が立ち上っている。
信太郎は少し困ったように笑う。変わり者揃いの浪士組の中でも、喜次郎は特に変わった部類に入る。誰かと積極的に関わっているところなど見たことがないし、非番の日も特に何するわけでなく、屯所ででぼーっと一日を過ごすのがほとんどだ。それでいてひとたび剣を握れば、まるで人が変わったかのように激しい太刀筋を見せるのだから恐ろしい。稽古で喜次郎の相手をまともにできるのは、平隊士の中ではほんの数人しかおらず、それもあって隊内では浮いた存在となっていた。
「……来ましたかね」
喜次郎がそう言うと同時に、二人分の足音が部屋へと近づいてきた。開かれていた障子から二人の男が入り、一人が静かにその障子を閉める。二人はそのまま喜次郎と信太郎の前に向かい合うようにして座った。
「悪ぃな待たせちまって。ああ、膝は崩したままでいい。長くなるからな」
西洋彫刻のように整った顔立ちの男──浪士組副長土方歳三はそう言って、正座に座り直そうとした二人を制した。
「二人とも呼び出してすまないね。松本君は今日非番だというのに」
もう一人の副長、山南敬助が申し訳なさそうに語り掛ける。
「いえ、非番と言っても特にすることもないんで」
副長二人を前にしても喜次郎は普段と変わらない。他の平隊士はおろか、昔からの馴染みであるという幹部でさえ、土方を前にすると顔が強張る者がいるというのに。その様子を見て信太郎はまた苦笑し、山南は少し目を見開いて驚いた。
「そうかい、そりゃよかった。早速だが、用件に移るぜ」
土方はその鋭い目で、喜次郎と信太郎を交互に見やる。それだけで場の空気が急に張りつめたものとなった。
「佐々木愛次郎は知っているな」
「……もちろんです。私と彼は入隊した日も同じですし」
土方の問いに、信太郎が怪訝な表情で答える。
佐々木愛次郎は、信太郎と同じく五月に入隊した大阪出身の隊士で、歳は喜次郎の一つ上、信太郎の一つ下の十九。柔術の遣い手で腕も立つが、彼の何よりの特徴といえば、その役者のように美しい顔立ちに他ならない。少し小柄な優男で、髪を下すと女性と見紛わんばかりの美貌を持っていた。飾り職人の家の出ということもあってか、所作の一つ一つに品があり、隊士の中には佐々木に情欲を抱く者すらいた。
「ついさっき、町奉行所から知らせがあった。佐々木とその女の死体が見つかったとな。殺しだそうだ」
「……!」
急な同胞の訃報に、冷静な二人も目を見開いて驚いた。佐々木は人当たりが良く、喜次郎の記憶の中の彼はいつも誰かと会話をしていて、一人でいるところをほとんど見た覚えがない。喜次郎自身は佐々木と会話をしたことがないが、彼が殺しの被害者となるような人間とは思えなかった。
仰天している二人をよそに、土方は話を進めた。今日の未明、千本通朱雀の藪の中から佐々木とその恋人あぐりの遺体が発見されたと京都町奉行所から知らせがあったこと。佐々木の遺体は損傷が激しく、あぐりには手籠めにされた形跡が見受けられたことが説明された。
「下手人はいまだ見つかっていない。君達には急ぎ、二人の首検分に言ってもらいたい」
「佐々木の死はすぐに広まるだろうが、俺たちに報告するまで、誰にも、何も話すな。たとえ局長から何を聞かれてもだ」
そう告げる副長二人の表情はいつになく鬼気迫っており、隊士が一人死んだこと以上の大きな意味を含んでいるように感じられた。
「……承知いたしました」
その意味に気付いた信太郎が座礼すると、喜次郎もそれに倣った。
朝っぱらから、やけに油蝉が五月蠅く鳴いていた。
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