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2 老爺の為に呼ぶ東風

本日二話投稿 2/2

二話目です

◆◆◆

 ノルは素足に触れる大地の感触に不思議な感動を覚えていた。砂浜である。細かい砂の感触、その砂に埋まる貝殻の感触、そんなものが足裏をくすぐる。

 大地という物はこんなにも力強く、確固たるものなのか。初めての感触であったが、この感触は好きになれそうだった。


 今、ノルの下半身は鱗に覆われた魚のそれではなく、細くすらりとした人間のような脚が伸びている。

 服というものが肌に当たる感触は奇妙なものだった。何だか自分の肌を意識してしまって仕方がない。これに慣れる事が有るのだろうかとノルは不安になる。


 人の世では『水の薔薇』でそうであったように裸でいる事は許されないのだそうだ。

 何故だろうとノルは不思議に思う。

 裸の方が綺麗なのに。


 ノルが着ているのは袖なしの淡いピンクのチュニックと黒の細袴であった。

 人の世では国ごとにまとう装束が違うらしい。その衣装はこの国、イウリーカの庶民の衣装だという。


 イウリーカはロズシュタルの西端にある国だった。最も『水の薔薇』に近いその国が、とりあえずノルが旅を始める国として選ばれたのには現在何処の国とも交戦状態にない事が上げられる。


 そんなノルの髪の毛は、銀色に染められてある。

 人の中であっても目立たない髪色にしなくてはならなかった。

 ノルが人魚だとばれるわけにはいかなかったから。

 ならばと選んだのがシーダルディドと同じ銀の髪だった。

 その髪色は今、砂浜を染め上げ、海に立つ波に彩を与える月から借りたものである。月は快くノルの髪を染めてくれた。

 瞳の色と額の文様はそのままであったが、長い脚を持つ銀髪の少女が人魚だと疑う者は誰もいないだろう。


 真夜中を選んで転移してきたノルは、降り立った砂浜に座り込んだ。

 何処に行っても良い。だから何処に行くべきか解らない。


 私、これから何処へ行けばいいんだろう。

 シードが望むままにノルは喜んで野に放たれた。

 そして彼の望むままにこの目に収められるものは片っ端から収めていこうとノルは思うのだ。


 だが、その確固たる信念の為に何を為せばよいのか、ノルは具体的に知らない。解らない。

 知らないままを、先入観に支配されぬ精神そのままを求められての事だが、知識が足りない事をノルは事実として知っている。

 シードと共に水鏡に映る人間達の姿を見てきたノルはシードからの確固たる情報統制があれど、人魚と言う人魚の中で一番人の世の知識はある筈……なのだが。


 シードは、過保護だと自分で認めちゃうヒトだから


 シードが選びぬいて見せた景色は人間の本質の全てを表すものではないとノルは気が付いている。

 シードは綺麗なものばかり見せてくれたけれども、きっと人間はそれだけじゃない。綺麗でないものもきっと沢山ある。そうじゃなければ、どうして人魚と人間は一緒に暮らせないの? 人間は怒ったり、怒ったり、怒ったり……。


 ノルが見た人間の『綺麗でないもの』は怒っている人間だけだった。


 それでも、ノルは不安になる。

 こんな時に目を閉じられたら良いのだけれども。そうしたら考えがまとまるかもしれないのに。


 だけれども今、ノルには瞼がない。

 シードが耳元で囁いた。


 ───お前の瞼を借りても良いか?───


 ただ『貸す』だけであげると言ったら悲しそうな顔をさせてしまった。

 与えられるばかりのノルがやっとシードの為に出来た事があった、それはとても嬉しく誇らしいのだが……いきなりの不便である。

 

「シード、今頃はどんな夢を見ているかなぁ?」


 ノルは言い聞かせるように呟いた。彼が悪夢ではなく甘く蕩けるような夢を見ていてくれたらいいのに。


 夜が明けたらとりあえず歩いてみようと決めた。夜の闇は人魚の視界を閉ざす事は出来ない。ノルが見ている風景は月の光の恩恵で輝く世界だ。銀の光の優しさを砂浜も海の水面も惜しみもなく与えられている。


 何をすれば良いのかなんてさっぱり解らないけれども、旅をしなくてはならないという事だけはノルにも解っている。

 色んなものを見で知って、そうしてシードが起きた時に沢山教えてあげるのだ。


 ――そう思わないと寂しさで潰れそうだなんて、ノルは口が裂けても言えない。


 不意に、精霊が騒いだ。


【ノル様、大変!!】

【大変!!】


「何が大変なの?」


 ノルが問うと、精霊達は一斉にノルを囲んで泣き出した。


【イウリーカの海の男の命が尽きようとしています】

【あの男は人間ではあったけれども、とても綺麗な生き方をしていたのに】

【私達、あの男が大好きだったのに】

【消えてしまう……!】

【亡くなってしまう……!!】

【ノル様……お願い】

【あの男を助けて下さい】


「近くなの?」


【すぐ近くです、砂浜の向こう】


「風の精霊よ、私を運んで。頑張ってみる」


 あっさりと、ノルは言った。

 幼い人魚は摂理を曲げる事のその意味を未だこの時は知らなかったのだ。

 ただ、命が喪われようとしている事が辛くて、それだけだったのだ。


 風が動いて、ノルの身体を持ち上げた。

 ノルはそれに身を任せる。

 高く高く、ノルは飛んだ。


「どうしてこんなに高く?」


【人目につかないようにするためです】

【人間は飛べないんです】


「そうなの」


 ふぅっと、一瞬で高度が落ち足が地面についた。

 目眩がするような感覚。血が体の下のほうに音立てて下がっていくような感覚。


 歩けば良かったとノルは後悔した。少しばかり怖かったのだ。

 精霊にに助けられる感覚ですら、『水の薔薇』と人の世は違い過ぎて。

 ついた場所は小さな、そして粗末な家の前だった。小屋と言った方がいいかもしれない。

 木造の家で、壁には小船が立てかけられている。人が二人も乗れば一杯になってしまうような小船。その船には網がかけられていた。

 潮風以外に、微かに生臭い匂いがする。

 きっと海の男というのは漁師なのだ。これは死んだ魚の匂いなのだろう。

 窓には油紙が張ってあった。


 しかし、何処から入れば良いのだろうか。生まれ育った『天薔宮』は望むと扉はそれだけで開いたものだが、水鏡で知った人の家は手も触れずに命あるものを招くという事はない。


 困っていると精霊達が彼女を手招きした。


【ノル様、此方です】

【ノル様、急いで】


 ノルは慌てて歩き出す。

 砂浜と違って土の道はひんやりとしているだけでなく微かに湿っていた。

 扉の前で、ノルは逡巡する。だけれども、精霊達が彼女をせかす。

 ノルは扉に手をかけた。その瞬間、月が力を貸してくれた。如何にもノルが開けたかのように引き戸が開く。

 

「誰だ!?」


 幼い少年の声がして、ノルはびくっと身を震わせた。声に含まれている怒気が怖い。

 これが人間の声。これが。人間。


「やめい、シン」


 老人の声が少年を制する。

 こひゅー、こひゅー、と音がする。

 それが老人の喉から発せられるものだという事に気付いたノルは更に怖くなった。


 開いた扉の隙間から月が土間に寝かされた老人と、その隣でノルを睨む少年を照らす。

 精霊達がその老人を取り囲んでいる。

 その老人をノルの目から隠すように少年は立ち上がるとノルの前にやってきた。


「じっちゃん、こいつ怪しいよ。ノックもなしにいきなり入ってきてさ!! 借金取りなら時間を考えろ!! こんな真夜中にまで取立てかよ!! じっちゃんが元気になったらなぁ、金なんかすぐ返せるんだよ! じっちゃんが鯨獲りの名人だってあんたも知ってるだろ!!」

「わ、私は借金取りとかじゃない。それ、何? 私はノルって言うの」


 恐る恐る言ったノルに少年は唾を吐いた。


「はぁ? 何の用だよ。帰れよ! 借金取りじゃないならうちに用事なんてない筈だろう!?」

「シン」


 老人が低く、少年の名前を呼んだ。

 少年が大事な大事な祖父を見やる。

 シンの誇り。シンの愛。シンの希望。

 それがシンの祖父。

 その祖父にシンは逆らえない。  


「海の女神が、姫を寄越して下されたのじゃ」


 老人は身体を起こそうとした。こふっという音がする。口元を押えた老人の手が血に染まる。

 ノルは初めて他者の血を見た。


 一瞬、世界が逆さになったのではないかと言う程の眩暈がノルを襲った。

 血、命の水。初めて見る、人の血。


 嗚呼、人魚の血と同じく、赤いではないか。

 同じ赤だ、同じように失い続けると命が終わるのではないか? 


「じっちゃん!!」


 シンは一声叫ぶと老人の許に駆け寄った。祖父の背中を撫でる。そしてノルを睨んだ。


「帰ってくれよ……! どっか行っちまえよ!!」


 精霊達が心配そうに老人とシンとノルを見詰める。


「失礼を……言うで、ない、シン」


 老人がそう言いながらノルに視線を向けた。


「海の女神の姫、ですな」

「海には女神なんていない」


 ノルは何といって良いのか解らず、端的にそれだけを答えた。


「海の者には、確かに……守ってくださる、女神が、おわすのですじゃ」

「私は貴方を助けに来た」

「なっ!?」


 シンが驚いたように瞠目する。


「儂は、もう、良いのです。もう、充分に生きましたからの。海のものを……糧に」


 こふっ、と、老人はまた血を吐いた。

 白いシーツが朱に染まる。

 皺皺の老人は、血を吐く程に苦しい筈なのに、何故かその表情は柔らかく優しかった。


「助けたいの」


 ノルは言う。

 どうしよう、これは、本音だ。

 最早精霊達の望みを叶える為ではなかった。ノル自身の為だった。

 ノルは足を一歩踏み出した。続けてもう一歩。足を進め、そして老人の足元に座った。


「歌わせて、ただ、それだけでいい」

「歌なんか聴いてる余裕ねーよ!! 頭おかしいのか!? じっちゃんが苦しんでいて頭朦朧としているのをいい事に好き勝手言いやがって!! 出てけ!!」


 シンがノルを突き飛ばした。

 ノルはあっさりと土間のむき出しの土の上に倒れこむ。

 それでもすぐに起きた。


 『怒る』って怖いことだね、シード。


 シンが怒っているのは流石のノルにも解った。しかし何故怒られているのか全く理解できない。


「シン!!」


 老人が威厳すら感じる声で孫を呼んだ。

 シンは泣きそうな顔で祖父を見る。


「歌って下さるのですかな?」

「はい」


 ノルは答える。

 チュニックについた土を払うと、ノルはそっと思いを馳せた。


 歌は世界を作る根底の力。

 それを操る人魚は世界の根底。

 だけれどもノルは難しい事など何も考えていなかった。

 ただ助けたかったのは、老人から総てを受け入れる───諦めるのとは違う───生き方が垣間見えたからかもしれない。ノルの今までの経験ではまだ理解までは出来ない事を本能で知ったのかもしれない。

 今の心をノルには言葉にして表わす事が出来ない。

 

 ああ、でも、でもね。


 老人は人魚と似ていたのだ。受け入れる事を静かにやりきってしまう人魚に。

 ノルの唇が開かれる。

 音が走る。


「遠い遠い東風こちよ、奏でよ、三日月に張りし弦を奏でよ。歌は世界に溶け、きっとそなたの耳にも届くはず。遠い遠い東風よ、届けよ、漣の音に乗せた私の歌を届けよ」


 中途半端に開いた扉から、風が吹きこんだ。

 風の精霊が踊り狂っているのだ。

 シンはただ呆然と、その風を感じている。

 そして老人は、静かに目を閉じた。


「東風が運ぶ優しい癒しよ、く来よ。我が歌を聞きし者の命になりて、その身体の中で踊れ。果てなく狂え。止まる、さすれば風に在らずなら、いつまでもこの優しき者の内で踊れ」


 風が老人の体内に忍び込む。

 潮風は海で生きた老人にはまたとない力となろう。


 やがて。

 老人は寝息を立て始めた。

 もう喉からはあの不吉なこひゅーっという音は聞こえてこない。


 ノルはそれを見届けると、ふっと土間に倒れこんだ。


「大丈夫か!?」


 シンがノルに声をかける。


 大丈夫。そのおじいさんは無事だから。

 そう言いたいのに言葉が出ない。


 たった一曲歌っただけなのに酷く疲れた。

 何故だろうとノルは思うが本来死が確定していた人間の寿命に干渉したのだからその疲れは当たり前の事だといえる。


「……ご免な、俺、酷い事言ったよな。じっちゃんが眠れる位に元気になったのに、あんたの歌聞いている間は本当に身体、楽そうだったのに、俺、酷い事言った。ご免。名前はなんていうんだ? 俺はシン」

「ノル」


 簡単に答えると、ノルは意識を手放そうとした。簡単だ、目を閉じて、動かなければ眠りはやって……。


 瞼がないのであった。


 眠くもない。ただ身体が重く、非常な倦怠感に悩まされているだけ。


 シードはいつもこんな感じだったのかしら?

 それが遥かな昔、気が遠くなるどころか数字として数えきれない程の昔から耐え続けていた?


 嗚呼、酷過ぎるわ。残酷と言う言葉ではその意味の持つ重さに足りない。


「眠いのか? 布団があるぞ。藁布団だけど。二階までいけるか? 恩返ししなきゃな。あんたのあの歌のお陰かどうか知らないけど、じっちゃんが三日ぶりにまともに眠ってくれたみたいだし、金はないけれども出来る事なら何でもするからさ。海の男は激しく愛して激しく憎む。そして受けた恩義は忘れないんだ。あんたの歌、俺好きだ」


 立て板に水とばかりに話しかけられたノルははっきり言って内容など全然つかめていなかった。

 それでも彼女は笑ってみせる。


 眠れないと思うのだけれども、せめて横になりたかった。だから彼女は大人しくシンに導かれ、シンの部屋の藁布団に身を埋めた。


【有難う、有難うございます、ノル様】

【あの男は助かったのですね、ノル様有難う】


 精霊達の歓喜の声。

 もう笑って見せる気力もなかった。

 ノルはただ休みたかったのだけれども、藁布団という物は酷く体がちくちくとするものなのだなと思った。

 そして、朝になったらどうしようかと考えつつ、でも気が付いたら違う事を大真面目に考えていた。


 眠れない事を楽しめる位になってみせたら、シードは私に瞼を返さなくて済むかしら?

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