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11 知る事を望む

 御馳走はいらないから普通のご飯を一刻も早く食べたいとシンが言うので何故か三人前作ってしまった料理は綺麗に平らげられた。


「しっかし、じっちゃんもすごいよね。こんな綺麗な人、いつの間にか口説いているんだからさ。あ、俺、無作法でご免なさい、レディ・アーヴェリ」

「れ、レディだなんてよしておくれよ。歯が浮いちまうよう」

「じゃあ、アーヴェリさん?」

「婆ちゃんでいいぞ、シン」

「こんな綺麗な人を婆ちゃんだなんて呼んだら天罰が当たるよ。後十年は婆ちゃんって呼ぶのは無理。あ、俺に子供出来た場合は別ね」


 シンは軽口をたたきながらミルクがしっとりと馴染んだパンを食べる。


 パンの材料の小麦が余り取れないこの猟師町では贅沢な食べ物だったが、このパンに使われているミルクとバターは何時の間にか外で飼われていた山羊の乳で作ったのだという。


 なんだ。俺いなくても日常回ってるんじゃん。


 山羊を飼うなんて発想、シンにはなかった。

 もし思いついていればセフォーが臥せっている時に重大な栄養源になった筈だ。


 俺、いないほうが幸せそうだ。


 夫婦になると聞いて、驚いたのだが、似合いの二人に見える。


 此処にいてはいけないな。


 シンがいればその分余計に金がかかる。

 食べ盛りのシンの食費だけでも相当なものだろう。服もサンダルも必要だ。

 そんな費用、かけさせられない。


 結婚式が終わったら今まで有難うって言って、この家を出て俺は俺の道を目指そう。

 まだ見えない道だけれどもさ。

 そこらの商家で丁稚奉公とでも言えばじっちゃんもそう心配しないだろうし。


「アーヴェリさん、不束な祖父ですがどうかよろしくお願い申し上げます」

「いやいや、そんな、恐縮してしまうさね。アーヴェリさんって、あんたはあの女の子とおんなじ名前の呼び方をするんだね」

「あの女の子って、もしかしてノル姉ちゃん!?」


 シンは思わず瞠目する。

 すっかり忘れていた自分の薄情さ。

 ヴァサルの館に連れて行かれた最初の頃こそ頻繁に思い出していたが最近はそんな余裕もなくて思い出しても一瞬で。

 だが、それが言い訳に過ぎない事も解っている。

 自分は薄情者だ。


「ねぇ、セフォー、あの娘への連絡、どうしたらいいかね?」


 アーヴェリの言葉にセフォーは静かに首を振った。


「儂らが連絡をいれずとも既に御存知じゃ。あの方は海の姫ゆえに」

「え? 何? じっちゃんどういう事?」


 シンは嫌な予感がしてセフォーに問うた。何だろう、胸騒ぎがする。


「海の姫だなんてねぇ、そんな余所余所しい呼び方じゃなくってさ、ノルちゃんって普通に呼んでやればあの娘はまだ此処にいたかもしれないよ?」


 アーヴェリの言葉に、セフォーは何も答えずにただ微かに笑んだ。


「ねぇねぇ、ノル姉ちゃんどうしたの?」

「───お前を追って旅に出たのじゃよ」

「お、俺を追ってぇ!?」


 セフォーの答えに、シンは開いた口が塞がらなかった。


 何で俺を追う必要があるんだよ!?

 姉ちゃん、旅しなくちゃいけないんだろう!?


「あたしがこの人の看護に来てからね、すぐあんたを追おうとしたんだよ、ノルちゃん。でもあたし達二人で必死に止めたのさ。『常識も何も無いあんたが追っていってもお荷物になる。せめて戦の状況を見極めてからにおし』って言ったのさ。あんたには酷い事したね。あの熊男に捕らえられたら死ねと言われたも同じだものね。でもノルちゃんは綺麗だから、あんたと同じく商品価値があった。だから理由をつけてなんだかんだ言って止めたんだけれども……今朝はもう何を言っても止められそうになくてね」

「そうだったんですか……俺、後を追います。ご馳走様でした」


 スープを最後の一口まで飲み干すと、シンは立ち上がった。

 地図、多分ノル姉ちゃんが持っていったんだろうな。ならあの道を通るか……?

 頭が忙しく動いているその時、セフォーがぽんとシンの肩を叩いた。


「月を見に行こう」



◆◆◆

 月は優しい光を放っていた。

 真ん丸に近い。

 正直、望月と見まごう程だ。


「ねぇじっちゃん、盥なんか持ってきて何するのさ?」


 シンの問いにセフォーは何も答えない。

 ただ、月夜のそぞろ歩きを楽しんでいるように見える。

 ノルは旅立つ前にセフォーにだけそっと打ち明けたのであった。


『夜になったら月を水盥に閉じ込めるから、何かあったら、盥に水でも海水でもいいから一杯に張って、月を映して私の名を呼んで。雨とか曇りとかで月を閉じ込められない夜は、使えないんだけど』


 それはセフォーがノルを人魚だと知っているからこそ打ち明けられた事だった。

 セフォーは暫く歩くと、海水を盥に汲んだ。


「じっちゃん?」


 セフォーはその盥を置くと座り込んだ。シンもそれに倣う。


「ねぇじっちゃん」

「少し黙れ、シン。海の姫、聞えますかな?」


 するとぼんやりと盥の水面が光る。朧な光。

 光の中から少し高めの、透明度のある声。


『きゃ、は、はい。セフォー、早速の『鏡話』、有難う。シンが其方に帰り着いた事は聞いたよ。魔女の魔力によって、と言う事も』

「魔女の魔力!? シン!!」

「じっちゃん、魔女っていうけど凄く良い娘なんだよ。エラって言ってさ」

「戦の元凶と通じるなど、お前を見損なったわ!!」


 セフォーの怒鳴り声にシンは必死で対抗する。正直言って震えている小動物みたいだ。


「戦は王様達が始めたんじゃないか! その無謀な戦いに力を貸してイウリーカの人間が死ぬ数を最小限にとどめてくれたのがエラだろう!?」

「あの魔女さえおらなんだら、王も戦を起こす事など出来なかった筈!」

「───そうして俺は、セルヴェカの第一王女のハーレムとやらに売られたんだね。それで良かったの?」


 その一言で、流石のセフォーも黙り込んだ。

 可愛いシンがその手に戻ってきた事を素直に喜ぶ気持ちを思い出して。


「すまなんだ、シン」

「いいよ」

『あの……セフォー、魔女はシンには害意を持っていなかったみたいなの。大事に大事に思っていたみたいなの。でも……私は、シンと一緒に帰るって約束したのに、御免なさい、帰れない。魔女を封じるまで帰れない』

「封じる!? ノル姉ちゃんどうして? エラが何をしたって言うの!?」

「それは貴方には言えないよ、シン」


 ノルは小さな声で返事をするとセフォーに言った。

『結婚式、私が帰るまで待たなくていいからね、セフォー。幸せになって』

「海の姫は一体……」


 セフォーの掠れた声に返って来たのは涙を堪えるような声だった。


『私には沢山やらなくちゃならない事があるの。でも、魔女は放ってはおけない。例えシンの言う良い魔女でも。私は、魔女とは人を恐れさせるための呼称で、実は薬師と呪術師の合いの子のようなものだと思っていた。本物の魔女だって事が解って、それで更に放っておくなんて出来ないよ。でもセフォー、全部を説明するには長い時間がかかりすぎる。ただ、シンをしっかり捕まえていて。王都には近寄っちゃ駄目。シン、それは貴方の信じる魔女も言ったことでしょう?』


 ぐっと、シンが手を握り締めた。

 だけれども、俺は───。


「ノル姉ちゃんは、歌ってくれて、一緒にご飯食べて、真珠をくれようとしたんだ」


 ごくり、と、シンは喉を鳴らした。


「エラは、菫の砂糖漬けをくれたんだ。此処まで送ってくれたんだ」


そして、シンは泣きたいのを我慢して叫んだ。


「ノル姉ちゃんは人魚なんだろう!? じっちゃんは何も言わないけれどさ。エラは魔女。どっちも仲良く出来ないのは何でさ!!」

『……私だって仲良くしたいよ。でも、出来ない。私は旅を続ける。シンに力を送ったんだけど……エラに転送されたから、エラが私の事を知るのももうすぐ……だね』

「力の転送? ノル姉ちゃん、俺よく解らないよ。俺が何かしたの?」

『シンは何も悪くないよ。ただ優しかっただけ。御免。鏡話、これで終わるね。じゃあ』


 そして水面は光を失う。

「ノル姉ちゃん……?」

 うなだれたシンの背中を押して、セフォーは強引に立たせた。




◆◆◆

 エラは城に帰ってくるなり自分の部屋に飛び込んで寝台の上でもんどりうっていた。

 右目が熱くて痛い。視界が赤い。

 熱い雫がこぼれた気がしたのでそれをすくって舐めてみると、血だった。

 怖い、怖い、怖い。


 私は死ぬの?


 大虐殺の後、サーシャの目を埋め込まれた魔女はいない。

 エラの心身にどのような副作用が出るかなど、誰も考え付きはしない。

 あっても全て、机上の空論だ。

 言ってみればエラは実験動物と一緒だった。

 ラグナノールという世界を背負わされた、という一点を除いては。


 その時、不意に右目の痛みが止んだ。

  ───せめて俺がエラの幸せを祈るから───

 それは優しい声で紡がれた祈りだった。


 シン?


 その声は間違いなくシンの物だった。

 そしてその祈りとともに今はもう痛みもなく転送されてくる力。

 右目に送られる力。


 人魚の力。


 シンが住んでいたのは漁師町だったわ。

 シンが人魚の部品を持っているという事?

 海沿いだもの。そんな奇跡、あってもおかしくない。

 だけど、この力、脈打っている。


 右目のような死んだ力ではない。


「……生きている…力?」


 シンが、何か特別なのだろうか。


 指先まで力が充填されるのがわかる。

 胸の間の印が微かに光った。

 闇の中でも目が利くエラには自分の爪が真っ赤な血色に染まるのが解る。


 シン。


 彼だけは、このロズシュタルが滅びても生きていけるようにしようとエラは思った。

 鍵穴と遺跡はロズシュタルに、鍵と遺跡の知識はラグナノールに。

 そこにエラの希望がある。

 ラグナノール人全ての希望が。

 あと何年かかるか解らないが、やってやろうではないか。


「シン……」


 そして、後何年経ったら、右目に埋められた人魚の瞳を抜き取っても構わないのだろう?

 後何年経ったらエラはエラだけの幸福を求めても許されるのだろう?

 泣きたい。泣けない。

 ───辛い。


 何も無い空間からエラは菫の砂糖漬けの瓶を手にとった。


 これが無くなるまでに、私は、願いをかなえられるのだろうか?

 父さん、母さん。私の中にその力はあるの?


 がばっと、エラは身体を起こすと菫の砂糖漬けの瓶を枕元に置いた。

 もう苛む苦痛は無い。もう、身体を動かす事も出来る。


 シンの祈りとともに送られた力に一瞬喰われかけ、だけれども更に続けられた祈りがエラを救い……この身を滅ぼす筈だった力は時間と共に飼いならせるだろう。

 送られた力は今まで持っていた力と共鳴しあい、エラの魔力は今までの何倍にも膨れ上がる筈だ。


 だけれども、これを『シンに送られた力』としてだけでなく、『何』なのかはっきり見定めなくてはならない。そこから目をそらしてはならない。

 シンから魔力なんて欠片も感じていなかったのだから。


 その代わり、心からは清浄なものの気配がした。穢れない心の美しさを感じた。


 この世界に生きているのだもの。

 本当に穢れないなんてありえない。

 だけれども、彼には表面はともかく中身は何処までも綺麗なのではと思わされた。


「この力は心の美しさ?」


 人魚というものは穢れなき命だという。

 神と同じく瞼を持たない生き物。

 では人間が穢れない命を持って生まれた場合は?

 やはり人魚と同じく魔力を持つのだろうか。

 それとも。


「生きている人魚が、シンの側にいる?」


 思いついて、エラは首を左右に振った。それならあんな危険な目に遭わせる訳が無い。


 『シン』とは一体何なのだろう?

 これからすぐにでも飛んでいって彼に会いたい気持ちと、それから彼だけは巻き込みたくないという思いで、エラの心は張り裂けそうだった。



◆◆◆

 ノルは盥の水───透明で、美しい水を───洗面台に捨てた。

 水面に映す月の力を借りて発動させる魔法は幾らでもあるが鏡話は最も簡単な術の一つである。

 それでもどっと疲れたのはシンとセフォーとを同時に相手にしなければならない事と、それから彼女自身がまだ人間に慣れていない所為もあるだろう。


 人間って、疲れるね。


 思って、ノルは溜息をついた。

 聞いて欲しい事だけでなく聞かれたくない事まで聞いてくる。


 人魚は踏み込まない。

 無関心なのではない。それは相手を『識る』事が出来るからだ。

 言葉にしなくても伝わる事がある。

 その目を見るだけで。

 その声を聞くだけで。

 その肌に触れるだけで。


「人間は全部言葉にしないと解らないのね。難しいね。でもそれだったらシードと心を通わすなんて無理なんじゃないのかなぁ」


 独り言を言いながら、空っぽの盥の横に三角座りしていたノルは立ち上がると、寝台に身を投げた。

 藁布団ではない。だけれども、固い布団は綿なのだがノルにその知識は無い。


「逢いたいよ、シード」


 ノルは呟くと枕を抱きしめた。それがシーダルディドの、その、一片であるかのように。


 人間は祈る。ひたすら祈る。

 だが、人間は『識る』事が出来ないのだ。

 人魚なら当たり前に出来る事、神の望みを『識る』事。


 人間は知らないから模索する。

 識る事が出来ないから愚かな過ちを犯す。


 例えば、そう、羊や牛とともに穢れなき乙女の命を捧げること。

 そんな事はシーダルディドを苦しめるだけで、喜ばせやしない事を何故か人間は識る事が出来ない。


 愛だけでいいのに。


 強欲さは神の嫌うところ。望まれ望まれ、思いやることなく。

 愛があれば、神だとて疲弊する事もあれば叶えたくない願いがある事が解るだろう。


 セフォーやアーヴェリのような人間は珍しいのだと一日で知った。

 痛む足を引きずっていて、馬車に乗せてやろうと人買いに声を掛けられて逃げたり、散々であった。


 その時、ふと、ノルは思った。

 ラグナノール人は『識る』事が出来るのだろうか。

 魔女は『識る』事が出来るのだろうか。


「ねぇ、みんな」


 ノルは精霊に語りかけた。


「魔女は私と、同じ?」


 精霊たちは狂ったようにノルの周囲を駆け回った。


【違います! 魔女は愚かです】

【私達をこき使うだけこき使って、搾り取れるだけ搾り取って、でもあの左目には私達は映っていません。右目が、人魚の女王の瞳が、私達精霊を映すのです。だけど、あの右目を魔女から抉り取ったら魔女は恐らくは生きてられませんわ】


「もっと早く教えてくれたら良かったのに。私がこの世界の事、知る事が許されるだけ全て知りたいと願っていると皆知っているくせに」


 ぴたり、と精霊達の乱舞は止まった。


「どうしたの? 御免、私の言い方そんなにきつかった?」


 その時、部屋の中が唐突に光に満たされた。

 光は揺らめく。そしてやがて一つの形を取って。


【お許し下さい、姫】

「ルン!」


 ノルは驚いて声を上げた。


 精霊王ルーンディアス。ノルのつけた愛称はルン。精霊を統べる者にして神の玉座の隣に立つ事を許されたもの。

 豊かな乳白色の髪と薄暮の紫の瞳を持つもの。シーダルディドに良く似た面差しの精霊。


【主より聞かれたこと以外答えてはならぬといわれておりました。『何故教えてくれなかったのか』と疑問をもたれるまでは】

「シードはそんな面倒臭い事を貴方達に命じたの? 何故?」


 ノルは不思議に思う。


 ルーンディアスは滅多に命あるものの前に姿をあらわすことはない。ノルとは旧知の仲、と、いうよりシーダルディドと共に悪戯に励んだ仲であったが硬い態度を崩そうとはしなかった。

 神と神の愛する娘と自分では身分が違うといって。


【何故なら魔女は、ラグナノールの救いの聖女となる可能性を秘めているからです。またはロズシュタルの破壊の女神となるか】

「救いの、聖女? 破壊の女神?」

【一夜の物語をお許し頂けるのなら、今のラグナノールの状態とエラ・ルセリエルについてお話させてください】

「解りました、精霊王ルーンディアス」


 ノルはぴんと背中を伸ばした。

 疲れてはいる。だが自分は知らなくてはならない。




 ノルは魔女のことを封じ、元いた世界ラグナノールに返すべきだと思っていた。

 それがシーダルディドの幸福につながる道だと思っていた。

 だけれども、今のラグナノールは氷河期にあるという。

 ルンの説明によると、ラグナノールから魔力が消えたから、その世界を覆っていた結界が消えてしまって太陽の恩恵を受けられなくなったのだそうだ。だから今のラグナノールには朝も昼もなく、ただただ月も星もない夜が続いているのだという。

 そうなってしまった原因は大陸の魔力の飽和状態にあるらしい。人魚の魔力と人間の魔力は違う。


「じゃあ、私なら、助けられるって事?」

【そうですね、貴女様ならもしかすれば】


 ノルの言葉にルンは言いたくなさげに口を開く。ノルは、はっきりしていないことは嫌いだ。


「ルン、私に隠し事しないで頂戴」


 ノルの言葉に、ルンは溜息をついて天井を見上げた。

 背の高い彼の身長には窮屈な天井。ノルは寝台の足元に座っているがルンに座れとは命じない。そんなことにまで頭が回る気分ではなかったからだ。


【人間は愚かです、姫】

「愚か? どうして?」


 自分の知人を侮辱するつもりならノルはルンを張り倒すつもりだった。


「私は優しくしてもらったよ。食べ物も与えてもらったし、常識も教えてもらった。シンからは地図も貰ったわ。それがなければ旅が出来なかった。市場での常識も知らなかった。一セタあれば何が買えるのかも知らなかったんだよ」

【姫、言いにくい事なのですが】


 ルンは困った顔をしてその白い髪をくしゃりとつかんでうなだれた。

 それがルンの真剣に困った時の癖だということをノルもシードも知っている。


「言いにくくても言って。大事な事かもしれないから」


 ノルの言葉に、ついにルンが口を開いた。


【人間という種族の寿命は、もう尽きる寸前なのです。シーダルディドが眠りに就いたのも、それを自らの目で見たくないからだと、私には説明されました】

「ノルは聞いてないよ!? シードはただ疲れたって。それしか言っていなかった。それにとっくに寿命の尽きた種だって言うのなら人魚だってそうじゃない。私を最後に誰も生まれていないんだもの。もう百年以上よ!? ウタヒ母様が卵を産めないのでどれだけ悩んでらっしゃるか、ルンだって知っているでしょう!?」


 思わず大声になってしまった。

 ルンはしーっと唇に指を当てる。だが、遅かったようだ。


 どすどすと階段を上がる音がする。

 そして乱暴なノックとともに男が部屋を空けた。


「な、何?」


 ノルは立ちあがった。

 この宿屋の亭主だった。


「お客さん、もう遅いんですし静かにして下さらないと困りますぜ。お楽しみの最中かと思いやしたぜ。ちょっと失礼」


 亭主は窓に近寄ると開け放ち、外をしっかりと睨み付けた。


「男はいないようですな。記帳通り。お一人で楽しまれていたのですかい?それにしても、もう少し声を抑えていただかないと」


 この人間にはルンが見えないのだ。

 ぐふふと顔をゆがめた男の顔がノルには気持ち悪かった。


 顔が気持ち悪いから出て行って下さいっていうのは失礼よね?


 ノルは頭の中で必死に考える。こういう時の対処法はセフォーもアーヴェリも教えてくれなかった。


【姫、これから何が起きても静かにしていて下さい。終わるまで決してお声を発せられないように】


 こくりとノルは首を縦に振った。


「独り寝じゃさみしいと仰るならわしがお相手しますぜ。大体一人旅というのが怪しいねぇ。何か人に知られては困ることでも?」


 ずんずんとノルに近寄り、彼女の細い手首を握った時に異変は生じた。


「……!!」


 亭主は悲鳴を上げることもままならなかった。手に足に体に走る血管が維管束になり自分の体の髪の毛の一本一本までが存在を変えられていっても亭主は何も言えなかった。

 白い手を掴んでいた毛むくじゃらの腕は、最早人間のそれではない。樹皮に包まれた枝でしかない。最早それは亭主ではなく背の低い若木としか言えないものであった。


 ―――ああ、静かになった。

 植物が声を発することなどあろうか?


「ルン!」

【貴女にもしもの事がありましたら、私がシーダルディドに消去されるでしょう】

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