10 家族
ごーん、ごーん、鐘の音が鳴る。
人々の声、犬や猫の鳴き声、馬車が行きかうざわめき、賑やかな王都の喧騒。
「うわぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!」
シンは悲鳴を上げた。浮いている! 落ちる!? さっきまで悪趣味なベッドの前にいたのに!?
「落ちないから安心しなさい、ほら」
目の前で同じように浮いているエラが、右に手をやるとコンコンと叩いて見せた。
透明の球体の中に、二人はいた。
シンは球体の底に寝転がるようにして両手両足を広げている。
隅に座っている魔女がくすくすと笑うのを見て、まだ少し怖いがシンは座りなおした。
二人には広い球体、三人には狭い球体。
「元気なお子」
エラは赤い瞳を閉じると、すっと何も無い空中から子供の頭ほどの瓶を取り出した。
底には菫の砂糖漬けが入っていた。大体瓶の三分の一といったところであろうか。
「有難うのお礼」
つっと魔女は白く長い人差し指と中指の先に、菫の砂糖漬けを挟んで、シンの口にねじ込んだ。
「んんっ!!」
それは悲しいくらい幸せな味がした。
そうだ、幸せなはずなのに悲しいのだ。
砂糖は高級品だ。
咄嗟の判断でシンはその砂糖漬けを飲み込まず口の中で転がした。
味わって味わって。
その間シンは何も言わない。口の中に物を入れたまま喋るなどというのは、失礼ではないか。
エラは笑ってそれを見ている。赤い瞳が優しい色を帯びる。純粋で無垢な少女のような色を帯びる。
遂にシンは砂糖漬けを飲み込んで、言った。
「……有難う、でも、何のお礼?」
「守ってくれたでしょ? そのお礼」
「男だったら、当たり前だろ?」
「そう言い切れる貴方は凄く良い男よ」
ふわふわと浮いたまま、二人は笑った。
心から笑った。
それから二人は漸くつたない自己紹介を始める。
「シンっていうのね。私はエラ、エラ・ルセリエル」
「エラは魔女なの?」
「見ていたでしょう? 迫力足りなかったかしら? 貴方がいるから何だか心がほんわりして、本気でベルゼを脅しにかかれなかったのは謝るわ」
「それよりさ、エラ、エラの後ろで裸でふんじばられてた奴、あいつ大丈夫なの? あいつに謝んなきゃ。凍死していなかったらの話だけれどもね」
「あの男……すっかり忘れていたわ! でも命が消えるときの魂の悲鳴は聞こえなかったわ。死んでないから未遂よ」
「神様に謝っときなよ。一応、念の為」
「私に神はいないの」
その言葉はシンの胸に硝子の破片のように突き立てられた。
「神様が、いないって?」
「そうよ、いないの」
そういうと、エラは横を向いてしまった。
その横顔が酷く悲しいとシンは思う。
ああ、エラは「悲しい」という言葉で出来ている。エラの何を表現しようとも、最後には「悲しい」という言葉に行き着いてしまう。
「ねぇ、シン」
そっぽをむいたまま、エラは尋ねた。
「貴方には神様がいるの?」
「……いるよ」
答えるのに一寸だけ迷ってしまったのは何故だろうとシンは思う。
だが、神がいなければ世界は何処から始まったのだろう? 親の親の親は? そのまた親は? 最初の子供の親は? それは神ではないのか?
「貴方の人生は素敵だったのね。でも貴方、もう少しで犯し殺されていたのよ?」
「俺の人生って言っても三年分しか無いしなぁ。あ、神様いるよ、エラ!」
急に明るい声になってシンが言った。
だからエラは三年分という言葉の真意を訊きそびれる。
「何よ。証明できるわけ?」
「俺もう一寸でヤラレテタじゃん? でもエラが何故か助けてくれた!! でも最初すっごい怖い目で睨まれた記憶があるんだけど」
「幸せだった日を思い出しただけよ。貴方の目の色が、父さんと最後に見た夜明けの色にそっくりなの。だから、びっくりしちゃったのよ。で、思い出を汚されるのは嫌だったのよ。ベルゼなんかに」
あの時、まだまだ子供だったエラの為に、ラグナノールでは高級品となっていた菫の砂糖漬けを、父は一瓶くれた。
『誰もが当たり前に砂糖漬けを食べられるようになったら凄いと思わないかい? ラグナノールにもそんな日は来る』
あの日から、特別寂しい日にだけ口にしてきた菫の砂糖漬けはもう少なくなっている。
だが、『有難う』の礼に人に……ロズシュタル人などにくれてやったのは初めてだった。
シンはそんな事は知らず無邪気に喜んでいる。
「だから助けてくれたんだー。うわー、俺、目の色紫でよかった!」
シンは本気で納得しているようで、エラは何だか心が温かくなってくる。
幸せになりそうになる。
実際。
この国を離れて、どこか辺境で二人で暮らせたなら楽しいかもしれないと思ってしまった。そう、きっと。
それは恋ではない。
家族が欲しかったのだ。もう一度。
だけれども、この感情は邪魔だわ。捨てちゃわないと。
今のエラは沢山の沢山の人間の魂を犠牲にして、沢山のロズシュタル人の血を流して、ラグナノールの希望を一身に背負っているのだから。
「ねぇ、シンって何処の人間? セルヴェカのハーレムにいた子?」
心の温もりから目を背けて、わざと明るい声でエラは問う。
「あー、違う違う。俺はね、ヴァサル・トーシェって奴の貢物」
金色の髪をがりがりとかきながら言うシンに、エラの双眸が優しく怖い事を問う。
「そいつの首を刎ねておきましょうか? 今の私にはそれくらいの権力はあるのよ?」
シンは目を見開いた直後、首を左右に振り慌てて駄目だと言った。
「知ってるよ。王太子でも殺そうとしちゃう人だもんね、エラは。でも、あんたが手を汚さなきゃいけないような人間じゃないよ。エラは本当に神様が怖くないんだね」
「神様は公平に愛してくれないもの。愛してくれないなら、私も愛さないわ。でもシンの事は……ねぇ、そのヴァサルって奴の手に落ちる前は何処に住んでいたの? 連れて行ってあげる。ヴァサルの首を刎ねるのが駄目なら牢屋に閉じ込めておくわ。それなら良いでしょう?」
「え」
その瞬間、暁の紫が揺らいだ。
ぽつんと、熱いものが落ちた。
黄昏時の光を反射した金色の雫。
エラは咄嗟に球体の中で膝立ちになり、向かいに座っていたシンの頭を抱き寄せた。
金の髪をかき乱して、エラはその髪の上に赤い瞳から雫を零した。
エラには良く解ったのだ。
シンが帰りたくて帰りたくて、でも帰れなくて。
エラも帰りたかった。帰りたくて、でも今の今まで涙を我慢していたのだ。
それなのに。
涙は零れていく。
外の喧騒はより一層賑やかになった。今は丁度夕食時なのだろう。
だけれども魔法で作り出された透明の球体の中は、嗚咽しかなかった。押し殺そうとしても押し殺せない嗚咽だけが響いていた。
暫くして、シンが、ようやっと声を出した。
「プーリア海岸の、漁師町。じっちゃんがいるんだ……昔は凄い鯨とりだったんだ」
「シンにはお祖父様が家族なのね」
「ねぇ」
シンは唐突に言った。
「エラも家族になる?」
「え?」
エラは思わず瞠目した。
「そんな綺麗なドレス着せて上げられないだろうし、パンじゃなくて米ばっかりになると思う。しかも俺の手料理。エラにも働いてもらわなくちゃならないし正直王様の魔女の方が楽な生活は出来るよ。でもさ、エラ」
エラの胸が鳴った。駆けた時のように早鐘を打っている。
「きっと幸せな生活が出来ると思うんだ。でね、エラもエラの中の神様を見つけることが出来ると思うんだ」
それはなんと甘美な夢。
だけれども、叶えられない。
私の幸せはラグナノールの民が幸せになることだもの。
私の幸せは……!
「じっちゃん結構物知りでさ、エラがロズシュタルの人じゃないなら知らない童話とか一杯知っていると思うよ。そうしたら、エラもロズシュタルが好きになるかも」
私の幸せは、この手を取ることだ。
エラには解ってしまった。
だけれども、それは出来なかった。
故郷で冬眠しているラグナノール人の為に。
「有難う、シン。私、でも一緒に行けないの。もう少しあの愚昧王の魔女やってやらなくちゃならないことがある。でもシンの幸せは祈るから。エラ・ルセリエルの名にかけて祈るから。だから、プーリア海岸まで送っていくね。約束して。二度と王都に近付かないって。危険な目にあわせたくないの」
「───解った。解ったよ、エラ」
漣の音が潮風を運んできた。エラは振り返りもせずに行ってしまった。
プーリア海岸、シンは帰ってきたのである。
何故か精霊が自分の周りで踊り、その度に漲る力を感じこの力がエラのものになれば良いと無意識にシンは祈った。
その祈りが、また運命の螺旋模様を描き出すとは知らずに。
プーリア海岸はセルヴェカの南、イウリーカの先端だった。
だからだろうか、潮風に乗せられる風が、少しばかり優しいのは。
北の海は冷たいのだと聞く。色まで違うのだと聞いた時には驚いたが、大きくなったら絶対に見に行きたいとシンは思っていた。
もし、シンが大きくなる事があれば、の、話だが。
シンはセフォーに拾われてから全く背が伸びていないのだ。
声変わりもまだだし、早く大人になりたい。
シンは毎日運動しながらそう思ったものだった。しかし運動は適度な筋肉をシンにつけてくれたが身長の方は相変わらずである。
そして、今プーリア海岸に立っていて、歩けば十分で家につける事を感じて、シンはひたすら祈り続ける。
エラが幸せになりますように。|俺に《》・・『力』があったらそれも送るのにな。
シンは柔らかい沓を脱いだ。海岸に足を着け潮風の匂いをかいで、そしてさっきの願いとはまた別に祈る。
気持ちいいよ。神様。
潮風を生まれながらに浴びてきたように感じるシンである。その風のしょっぱさの中に含まれる甘さの不思議さ。
甘いといっても菫の砂糖漬けの甘さとは種類が違う。しょっぱさを引き立てる甘さだ。
足を洗うように海水は寄せては返す。
「帰らなくっちゃな、俺」
数ヶ月が経っている事を考えると、帰り辛かった。
ノル姉ちゃんは幾らなんでもいないよな。でもじっちゃんは……。
考えていくと良くない事柄ばかりが浮かんでくる。死んでしまったとか、苦しんでいるとか。
ヴァサルが落ちぶれていったのは見ていて解った。何故そうなったのかは解らないが見ていて哀れな程だった。
次々と逃げていく使用人の中には金や宝石をくすねていった者達も多かったとリューズは言っていた。
そんな中、ヴァサルは忘れているだろう。セフォーの介護の事など。
覚えていても、支払う金があるか。
結局、熊男には熊男なりの人生を神はお与えになったというだけだ。自分を王族に進呈しようとしても、それがエラによって阻止されたとなれば歯噛みして悔しがる事になるだろう。
足はすっかり冷えた。
家へ帰ろう。
まだ家があるのならば。
◆◆◆
アーヴェリは困った顔をしていた。
魚を石焼釜に入れたときは確かに二匹だった筈なのに三匹の魚が程よく焼けている。
野菜のスープを作ってみたら明らかに量が多い。
そしてパン。
何故こんなに膨らむのだろう。材料も何もかも、いつもと同じ筈だった。
あたしゃ遂に呆けてきたのかねぇ。
こんな失敗をした事などなかった。そしてこれからもこんな失敗などせずセフォーと仲良くやっていくつもりであるのに。
セフォーは海へ出かけている。
元々頑健な体質だったセフォーは回復期に入るとみるみるうちに回復した。そして夜は必ず海へ出かけた。最初はアーヴェリと出かけていたのだが、最近は一人で。それほどまでに体調は回復していた。
アーヴェリは知っている。
セフォーは大事な大事な孫息子の行方を気にしているのだ。
海へ出れば見つかるのではないかと甘い夢を、他に頼るものも無い老人が見て、誰が責め立てられよう。
夜のしじま、波の詩、月のランタン。
そんなものを愛でながら歩いていた三年前、セフォーはシンを拾ったという。
懐かしげに話すセフォーをアーヴェリは狂おしく愛した。五十四歳。この小さな猟師町では寡婦ということで家に引き篭もっていたアーヴェリの中では激しい情熱が渦巻いていた。
それを長年、ずっと、ずぅっと、抑え付けられて、また自らの手でも抑え付け、生きていたのだ。
セフォーと出会って、無骨なだけの男を想像していたら彼はとても優しかった。
五十四年、生まれて初めての恋をした。
そしてセフォーが応えてくれて。
ヴァサルからの仕送りは当に途絶えていたが老人二人があと数十年生きるだけの金は最初に受け取っていた。
そこに唐突に幸せでたまらないという声が響いた。
「アーヴェリ!! ご馳走の準備をしてくれ! シンが、シンが帰って来たのじゃ!!」
◆◆◆
柔らかい沓を履いても足はすぐ砂塗れになるだろう。
だからシンは沓を両手に片方ずつ持ち上げたまま、帰れずにいた。
家に帰らなくてはと思ったが怖くて。
その代わり、シンは見た目より遙かにロマンチストな祖父の、夢を詰め込んだような音聴話の数々をたどっていた。
此処では緑の黒髪の乙女の話をしてくれたんだっけ。俺、どうしても緑の黒髪っていうのが解んなかったんだよなー。黒なのに緑だなんて変なの。今も解んないや。
此処では───、そうそう、水の妖精の話をしてくれたんだよな。俺にも時々見えるけど、大地の精霊との恋物語なんてじっちゃんは誰に聞いたんだろう?
その時、後方で声がした。
「……ン!! シーン!!」
聴き慣れた声だった。今、一番聴きたい声だった。
「じっちゃーん!! じっちゃんなのか!? じっちゃん!? じっちゃん!!」
シンは声がした方向に走り出した。
裸足の足は砂にとられるが、そこは海の子、転倒しそうになりまろびながらも、必死で走る。
沓は、何時の間にか放り出していた。
聞き違えじゃないよな。あんな元気なじっちゃんの声、俺、一年前に聞いたっきりだぞ?
じっちゃんは元気になったのか?
俺がじっちゃんの事考えすぎているから幻聴でも聞こえるのか!?
――セフォーが後で語った所によるとその時は正に三年前に戻ったかのようだったらしい。
シンが貴族のような服装でいるか裸でいるかの違いしかなかったそうだ。走りよるシンが体勢を崩して倒れて、セフォーがそのシンを回収する。
何処か打ったかのようにこんこんと眠り続けるところまで一緒だったとの事だ。
背に負うのではなく、少女を抱き上げるようにするのはそれだけシンが儚げに見えたからだろう。
全て、変わってなかった。
無垢なまま、だと思われる。
身体には一箇所たりとて傷は無く、痩せてもいないが太ってもいなかった。
セフォーはそのシンを抱き上げながら、ゆっくりと家路に着いた。
太陽が飴色をして沈んでいく。
世界が金色に包まれる。
「神よ、有難う御座います。シンをわしに委ねて下さって有難う御座います」
【一時の邂逅よ。シーダルディドに感謝するがいいわ。貴方がシンの枷でなくなる事を】
「精霊……水の精よ! 答え給う! シンは一体『何』なのでしょう!?」
シンを抱き上げたまま、セフォーが声を上げた。
しかし精霊たちは四散してしまう。笑い声だけを遺して。
「ん……」
シンが声を漏らした。
そしてシンは瞳を開ける。
空が次にたどる色だ。
紫。
世界の始まりの色。世界の終わりの色。
その色を瞳に持つのは大いなる祝福の証だという。
だが、セフォーにはそんなことどうでも良かった。
「シン! これ、起きろ!!」
「んー? じっちゃん……じっちゃん!! わっ!!」
「シン、大丈夫か!?」
セフォーの腕の中で思いっきり身体をひねったシンは見事にセフォーの腕の中から落っこちて砂にたたきつけられ、口の中まで砂塗れになった。
「うえー、じっちゃん、ひどいよー。なんでお姫様抱っこなのさー」
シンはいつも通りのシンだった。
目を覚ましてすら何も変わったところなどなかった。
「そうじゃのう、姫というにはがさつに過ぎるのにのう」
セフォーはぱんぱんとシンの服の砂埃を取ってやり、笑った。
「お前、どうやって帰ってきた? この数ヶ月、戦争があったりなんだで王都は大変だった筈じゃ」
「大変だったから帰ってこられたんだよ。晩飯の時にでも話すよ。じっちゃん、俺の分の飯ある?」
少しばかり、セフォーは狼狽えた。
アーヴェリならすぐに作ってくれるだろうが、シンはアーヴェリを知らない。
「シン、婆ちゃんが出来てもいいか?」
「は?」
一瞬、時が止まる。だけれどもほら。
夜のしじま、波の詩、月のランタン。
それでも世界は美しい。