見えなくなったホシ(9~エピローグ)
京都府南部のまちで高齢女性が殺害された。警察はハタチの男を逮捕したが、直接証拠を集められず……。
9
降って湧いたような、処分保留だった。
一勾留目の後半から各社の続報は止まっていた。あとは二勾留目の満期を迎える七月七日に、容疑者が起訴された、という記録を紙面に載せれば裁判までさよならだと、誰もが考えていただろう。
その結果は午後四時過ぎ、柏木から電話で知らされた。
早水は高校野球の地方大会取材で球場にいた。「最終処分やないから、それなりの扱いやわ」と柏木は言った。京都地検の次席は会見を行わず、広報官を通じて処分結果と次席コメントだけを記者クラブに伝えてきたのだという。現場ではなく球場にいたからだろう、遠くの国で起こった出来事のように聞こえてならなかった。
早水は貸与スマートフォンを見つめる。
記事は第三社会面の右下に置かれていた。辛うじて二段の見出しを立てて。これまでと決定的に違うのは「石神亮容疑者(20)」ではなく、「アルバイトの男性(20)」と匿名表記されていることだった。形式通りというか、気休めというか、ついこの前までのお祭り騒ぎは何だったんだ、と半ば馬鹿馬鹿しい気持ちになる。勝者も敗者もない合戦。ノーサイド。
気持ちとは裏腹に、日中の熱気が残る夜だった。
早版が降りた午後一〇時前。石神の自宅前にただ突っ立っている。ほかのマスコミと同じように―その中には新日新聞の真鍋もいる。暗がりに蠢くマスコミ。不気味な光景ではある。瓦葺きの昔ながらの二階建て。石神の実家は闇に溶け込み、人がいる気配はない。こうしてマスコミが張っている我が家に、のこのこと帰ってくるとは思えなかった。家族ともども親戚の家辺りに避難しているに違いない。
貸与スマートフォンが鳴った―夜回り中の上村だ。
―お疲れー。そっちはどう?
「帰ってくるわけねーって感じっす」
―だよねー。
「どうしたんすか」
―鑑識課長さー、早水君には本音で喋ってたのかもなあって……。
それは早水も感じていたことだった。砂漠のオアシス。そのイメージが不意に浮かぶ。今夜はもう回るには遅い。明日、行ってみよう。自らの意思でそう決めた。ただ会いに行ってみようと。
七月八日。処分保留で釈放の扱いは、どこの社も似たり寄ったりだった。うちと同じ価値判断だろう。
肌を射す陽はまだ力強い。安西は京阪黄檗駅に午後六時半過ぎに降り立った。定時退庁したのだろう。今日は事前に連絡しなかった。特に理由はない。
改札を出る手前で安西は早水の姿を認め、お、という顔をした。一〇回も通っていないのに、それが自然であるように、改札を出た安西の左に早水は付く。落ち着くポジション。家路を急ぐ人をよそに、肩を並べ安西の自宅に向かって悠然と歩く。
「連絡くれればよかったのに」
「今日はまあいいかなって」
「もう僕に用はないやろ」
「会いに来ただけです。キャップに行けとも言われてないんで、趣味みたいなもんですね」
「物好きな記者もおるもんやな」
昨日の今日で訊くべきこともなかった。研修の時に講師役の記者が〝サツ官との付き合いは恋愛みたいなもんだ〟と言っていたことを思い出す。たしかにそうだ。
明日から暑くなるみたいですね、といった他愛のない会話を続ける。柏木にメモを上げる必要もない。今日はそれでいい、と思った。
「早水君、今回の事件で何が知りたい」
安西が早水を見る。深い眼差し。唐突だった。安西から事件の話を振ってくることなんて、これまでなかった。
「真犯人です」思い浮かんだままのことを言う。
「それは僕もや」
「被害者が最期に見た光景を見られたらいいのに、って思いました」
「それな、警察官なら誰もが一度は考えたことがあることや。被害者が最期に見た光景が真実やからな」
「そうなったら、鑑識の仕事も減りますね」
「寂しいこと言わんとってや。……被害者が最期に見た光景、か。……早水君が言ってた魔女が映ってたかもしれんな……」
「え?」
思わず顔を向ける。
「これは僕の勘や」
安西の自宅へと続く坂の上り口。中空を見つめたまま安西は言った。
「早水君、君に特ダネをあげよ―」
〝二つに割れた容疑者 被害者宅から指紋採取〟―早水の頭に見出しが浮かぶ。
エピローグ
早水は兵庫県警記者クラブのソファで寛いでいた。
私有スマートフォンがふるえた―舞だ。
「うい」
―健君さ、朝刊の三社短信見た?
「三社の短信までは……」
―ちょっと見て。
「何が載ってんだよ―」
テーブルの上から日々新聞の朝刊を摑み取り、後ろから捲る。第三社会面の短信群。その中程で目が留まる。
「■城陽の女性殺害 不起訴」
「ああ―」見出しで理解する。記事に目を通す。
「―京都地検は9日、殺人容疑で逮捕され、その後釈放されていた男性(22)を不起訴処分(嫌疑不十分)とし、発表した―」
〝魔女〟―北村のことには触れていない。捜査の手はどちらにも届かなかったということだろう。
あれから二年余り。柏木も舞も、もう京都にはいない。舞との電話を終えた早水は、貸与スマートフォンに持ち替える。
ショートメールを打つ手が止まる。いま捜査一課長の安西に対して、記者が送るべき言葉はないことに早水は気づく。
(了)
ありがとうございました。
拙作ですが、ご感想頂けますと有り難いです。今後ともよろしくお願いします。