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議場のランウェイ  作者: 景虎
7/22

〜ひとりふたり〜

 選挙期間中は図書館に行くことをやめた穣は、父親の選挙カーに出会さないよう、放課後もなるべく人通りを避けて歩いていた。そうなると、やはり行く場所は限られ、自然と海響公園に足が向く。そこから見える海原だけが世間とは違い、変わらずに慰めてくれているような、包んでくれているような感覚だった。長閑(のどか)さに浸りながら、穣は学生服のまま長椅子に坐り文庫本を開いた。海風で頁がめくれないように気を遣いながら読書にふけった。


 物語を読み進めていると何もかも忘れられ、ここが公園だということすら忘れかけていた。しかしどうやら天は穣に平静を与えはしないらしい。風の音で消えていた足音に気付いた穣は唐突に振り返った。


「よっ」


 愛里はいつもと変わらない挨拶をした。吉凶した穣は短いスカートの裾から見える彼女の太腿に気付き、すぐに目を背けた。


 愛里がここに来るのは何か話したいことがある時だけだ。そう察していた穣は愛里が隣に坐るなり口を開いた。


「彼氏出来たんだろ」


「えっ––––」


「この間、街で歩いてるの見かけたよ」


 愛里は少し間を置いた。


「––––北高のね。ともだちの紹介」


 まっすぐ海へ視線を向けた愛里の表情は燦々としていた。携帯には彼氏とのプリクラが貼られていた。茶髪にカチューシャをしたその男の顔を凝視した穣は不快な気分でしかなかった。単に穣の反応を確かめたかった愛里の心情なんて知る由もない彼は、どうしてわざわざ愛里がここへ来たのかわかりかね、その理由も聞けずにいた。黙ったまま何も云わず、閉じた本を持ったまま穣は海を見つめるしかなかった。ただ恋人が出来たことを告げに来ただけなら、穣は一刻も早くひとりになりたかった。


「穣は、どうなの?」


「何が?」


「彼女とか居ないの?」


「居ないよ。だって俺が好きなのは七海愛里だけだから。昔からずっと––––」


「はぁ、何云ってんのよ」


「本当だよ」


 どうしてこんなことを急に口走ったのか穣自身もわからなかったが、半ば自棄になっていたことだけは確かだった。行き場のない情動のなかでつい吐露してしまった。ずっと伝えたかった本心そのものに変わりはなかったが、本当はもっと格好よく、功を奏した自身の姿を想像していたはずなのに、すべて台無しだ。然りとて、この場所で告げようと思案していたことだけは変わりなかった。


「もう、私と穣じゃ住む世界が違うでしょ。穣は穣に相応しい女でも見付けなさいよ」


 またそれか。一体住む世界ってのは何だ。問いかけようと穣が意気込もうとした途端、愛里は足早に去って行った。愛里はどこかでわかっていた答えを突告げられて度を失い、面映ゆさに赤面しながら公園を出た。とば口で振り返ると、長椅子に坐って背を丸めている穣の背中に寂寥が漂っていた。子供の頃、黄色い傘を手渡して走り去った時と同じあの背中だった。小さな頃からいつも一緒だった彼が大きく長じたのだということをしみじみ実感しながら、その背中に向かって、


「馬鹿っ」


 小さく呟いて踵を返した。


 一方、ひとり残された公園で穣は続きの小説を読むこともなく、ひたぶるに自分の住む世界はどこなのか問いかけていた。制服を脱ぎ捨てて、いっそあの海に飛び込んでしまえばすべてから解放されて答えも見付かるのだろうか。むしろ海の底にでも行かなければ、探している答えも見付からないのではないだろうか。それは気の遠くなるような現実離れした幻想だった。このままこの地方都市に居ることが父に対する反抗なのだろうか。少なくともあの息苦しい東京の空気には馴染めそうになかった。


 その大都会で権勢を振るう父親の選挙が終わり、真野透は六期目の再選を果たした。他候補の比例復活も許さず、野党公認候補にトリプルスコアに近い圧勝だった。この得票率は透の選挙に携わるものの矜持だった。そして間もなく行われた組閣で真野透はさして誰がやっても相違ないような大臣になったが、その若さからいずれは党四役を任せられることも期待されていた。選挙の終わりはまた新たな覇権争いの始まりを告げたに過ぎないのだった。


 愛里に想いを告げて以来、ますます顔を合わせづらくなった穣は衆院選が終わったこともあり、再び中央図書館へ足を運ぶ日々を過ごした。参考書と向き合い、少し難しい問題に取り組む方が余計な考え事をしなくて済んだのもあった。このまま日々は流れてゆくのだろうか。そんな将来が待っているのだろうか。嫌でも考えてしまう思考を勉強や書見で埋めた。


 集中していた穣がふと携帯を見ると母の美奈子からメールが入っていた。


「醤油と葱、それから––––」


 買い出しの依頼だった。買い物の量を考えると駅前の大型スーパーでなく、自宅近くの小型店で充分だ。薄暮が迫った頃に図書館を出た穣は醤油の小瓶やら野菜を袋に詰め込み、買い物を済ませて歩き出した。


 スーパーに寄った手前、いつもとは少し違う路から帰っていると、海響公園が見えてきた。そこで、穣は思わず足を止めて「あっ」と低い声を漏らした。誰も居ないはずの寂れた場所には、よく知っている後ろ姿があった。


 栗色に染まった長い髪を風になびかせながら長椅子に坐る愛里はこの間よりもひと回り小さくなったように背を丸めていた。まるでロールケーキを前に固まっていた子供の頃と同じで何かを堪えているようだった。愛里がなぜそこに居るのか訝りながら穣は静かに通り過ぎようとしたが、ちょうど公園の正面まで歩を進めた時、愛里が咽び泣いているように見えた。気のせいだと思いながらそばまで近付くと涙が頬を伝っていた。


 穣は面食らいながらも平静を装い、


「よっ」


 声をかけると、ぐすん。愛里は泣いていたことを覚られまいと涙を拭った。しかし、またすぐに涙は溢れた。その瞳は先の甘美さとは打って変わって、絶望のような暗黒さに支配されていた。


 穣は黙って隣に坐り、愛里の顔を覗いた。瞬間、目を瞠り、眉間に皺を寄せた。落涙する愛里のうわ頬が薄っすら鬱血し、青痣になっている。街灯の薄明かりでもそれがはっきり見て取れた。穣は愛里の頬に手を伸ばし、輪郭を包み込みながらあおぐろくなった部分を震える親指で愛でるように撫でた。愛里の目から溢れた滴が指先を濡らした。


「彼氏にやられたんだな?」


 怒気を潜めた声で訊くと愛里は小さく頷き、穣の胸に顔を押し付けて泣いた。そっと彼女の頭に手を添えて包みながら、穣は全身を震わせていた。


 愛里を自宅まで送った後、買い物袋を掲げて帰った穣に美奈子は礼を云い、


「どうしたの、怖い顔して」


「別に」


 穣はすげなく答え、自室に向かった。窓外を眺めながら暮夜の暗い闇に向かってある決意をした。


 翌る日、急き立てるように校舎を出た穣は北高に向かった。正門の前に立ち、奴が出てくるのを待った。記憶を辿り、いや、忘れるはずもないあのプリクラの顔を探しながら下校するひとりひとりの顔を凝視した。北高の生徒たちは穣に向かって怪訝な視線を向けながら通り過ぎて行く。


 段々と穣の鼓動が早鐘を打ち始めると、しばらくして校舎の方から出て来るカチューシャの男を見付けた。脇にはさらにふたりの男が連なり、談笑しながら正門に向かって来た。穣はその場では声をかけず、やがて門を出て行く三人組を静観しながら後を付けた。激しく脈打つ心臓を抑えながら、人気のない路地で覚悟を決めた。


「おい」


 怒気を込めて云うと、振り向いた三人の真ん中に例の男は立っていた。


「あ、何か用?」


「あぁ」


 穣が挑発するように頷くと、


「有名私立のボンボンが何の用だよ」


 上から下まで穣の制服を見通して奴は云った。


「愛里を殴ったのか」


「誰、お前」


「殴ったのかって訊いてんだよ」


「関係ねぇだろ。行こうぜ」


 男が振り返る前に距離を詰めた穣は固く握りしめた右拳を相手の顔面に思い切り打ち抜き、めり込ませた。数瞬の出来事だった。男は真後ろに吹き飛び、穣は覆い被さるように再び相手を捕らえた。


 一興したふたりの連れが止めに入ったが、穣は構わず標的だけに拳を出した。相手の男は突然の出来事に面食らいながら鼻血を出し、抵抗する気力を失っていた。今度は連れの男ふたりが穣に殴りかかり、顔面に数発入れた。穣はすかさず反撃に転じ、相手の男ふたりにも数発渾身の力で拳を入れた。もみくちゃになりながらしばらく乱闘は続き、ボロボロになった制服姿で穣は立ちはだかっていた。顔がみしみし疼きながらも放つ穣の異様な目つきに相手の男たちは底知れぬ恐怖を感じ取り固化した。


「に、二度と愛里に近付くなよ」


「な、何なんだよ。もう行こうぜ」


 鬼気迫る表情に怖気付いた相手の男たちは痛む身体を引きずりながら去って行った。


 穣はその場にうずくまり、痛みに耐えながら、何か重要な仕事、いや、儀式を終えたような感慨に浸っていた。


 きっと愛里と同じ青痣になるだろう。冷静にそう思いながら、しばらく呼吸を整えてから立ち上がり、鞄を拾い上げ、男たちとは反対の方向へ踵を返した。今起こった刹那の出来事を回想しながらとぼとぼ歩いた。ボロボロの姿で歩く様は路ゆく人々の衆目を集めた。この男があの真野透の息子だなんて世間の誰も思わないだろう。早く家に帰って顔を洗い身にまとっているものを脱ぎたかったが、痛む体躯を引きずりながらではどうにもならず、のろのろと時間がかかった。


 ようやく自宅近くまで来ると、家族に見つからないようすぐに自室に向かおうと決めていたが、もうすぐというところで茶会から帰る途中だった着物姿の初江に出会した。初江が目を丸くしたのを見て、ばつが悪くなった穣は咄嗟に目を背けた。ところが初江が放った言葉は穣にとっては予想外のものだった。


「そんな顔見ると、昔のじいちゃんを想い出すわ」


 初江は理由も訊かず表情穏やかに笑い飛ばした。


「じいちゃん––––?」


「そ、あんたはじいちゃんに似ているところがあるからね。透はそんな顔で帰って来たことはなかったけど、穣はやっぱりじいちゃんの孫さね。さ、帰りましょう」


 初江はあっさり云って歩き出した。ふたりが家に帰ると美奈子も秋菜も傷だらけの姿に蒼惶したが、籐椅子に坐っていた貞三が制止した。


「男なら喧嘩のひとつやふたつ日常茶飯事だ。わしもようやったわい。ところで穣、その面見る限りじゃ負けたんか」


「いや、勝敗は分からないけど、目的は果たせたよ」


「そうかい。結構なことだ。目的の果たせない戦いには何の意味もないからな。多くの若者を死なせただけの戦争はどれも間違っていたもんだ」


 貞三は事あるごとに太平洋戦争を語った。伸びた白眉(はくび)の下の目は今も鋭く、白髪頭だったが矍鑠(かくしゃく)として話す言葉も快活だった。


「あっ、おじいちゃんまたその話」


 話の腰を折るように秋菜が云った。


「大事なことだ。皆、日本という国ではなく、大切な人のために行かざるを得なかった。だからこうして繋がった生命もある」


 貞三は三人兄弟の末っ子で、一番上の源一とは十歳離れていた。貞三自身、戦禍を免れるために疎開を経験しており、戦争に対する思いは戦後生まれの透たちとは違っていた。


「命、か」


 ひとりごちるように呟いた穣は、改めて耳にしたその言葉の響きに何か閃いたような、光芒が見えたような気がした。それはふっと心が奮い立つような感覚に近かった。


 命に重きを置くことで、穣は抱えている日常のなかでの葛藤にも、将来にも、何か手がかりが掴めそうな気がしていた。


 清々した気分とは裏腹に体はしばらく痛んだが、そうでなくてもサボりがちだったゴルフのレッスンを正当な理由を持って休めることにむしろすっきりしていた。出来ることならこのままそっとやめてしまおうと密かに思案していた。その分、何をするわけでもなしに、図書館で勉強したり海響公園の長椅子で本を読んだりしていた。


 相手を殴った拳は、痛みではない何か別の感触がしばらく消え去らなかった。忘れては想い出し、その度読んでいた本を閉じて拳を見つめた。拳を見据える時の穣の目に色はなかった。


 ふと手を休め、この拳に宿ったものの意味を考えていると穣の腕に突然何かが当たった。振り返った地面に割れた砂団子が粉々になっていた。子供のイタズラかと思った視線の先に制服姿の愛里が立っていた。


「馬鹿っ」


 駆け寄った彼女はそれ以上何も云わなかった。その一言で穣にも充分過ぎるほど気持ちが伝わっていた。愛里はただ黙って、穣の胸に顔を押し付けてまた泣いた。

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