〜幼少期のふたり〜
突然泣き始めた空にふたりは慌ててブランコから駆け降り、走り出した。穣が愛里の手を小さく握る。いつもは手を引く側だった愛里は普段と逆の立場に瞠目しながら、穣に連れられるまま身を預けた。雨脚は強く、打ち付ける水しぶきに立ち向かうように濡れそぼって住宅街を駆け抜け、一角を曲がった時だった。
「穣––––。あら、どちらの子かしら」
美奈子が訊くと、穣は恥ずかしさのあまり思わず愛里の手を跳ね除けた。愛里は少し驚きながら、目の前の大人を見上げた。丁寧に巻かれた髪に洗練された若々しさを放つ様は、この高貴な住宅街にぴったの貴婦人の姿だった。美奈子は持っていた子供用の黄色い傘を拡げた。
「ほら、ふたりでこれに入って」
ふたりを見て優しく微笑う美奈子だったが、愛里はそんな美奈子に自ら名乗ることが出来ず、穣もどうしてか何も云わなかった。美奈子はふたりを玄関に招じ入れ、三和土に立たせた。やがてせかせかと分厚なタオルを持って現れ、ずぶ濡れのふたりをまとめて包み込んだ。ひとつのタオルのなかでむんむんと湿気が漂いながら、穣と愛里は互いの息遣いと芳香を感じ、美奈子のなすがまま濡れた髪の毛の水分を取ってもらった。
美奈子は洗面台にふたりを促し、穣は手にしたドライヤーを先に愛里に差し出した。
「先にやれよ。おかっぱとはいえ、早くしないと風邪引くぜ」
愛里は何かを堪えるように黙ったままドライヤーを受け取った。熱風とともに馥郁としたシャンプーの香りが洗面所一杯に拡がり、穣の鼻腔を心地よく刺戟した。
交互に髪を渇かし終えると、穣は愛里を居間へと促した。洗練された瀟洒な空間にはアンティーク調の家具が列び、光沢がかった板張りの床には大きなローテーブルが置かれていた。暗色のソファーには同じ色のクッションが置かれ、坐る者の安楽を容易に想像させた。
ソファーに坐ったふたりの前に美奈子が長手盆を持って現れ、テーブルの上にロールケーキとオレンジジュースを置く。穣は相好を崩し、早速咽喉を鳴らしながらジュースを流し込み、小さなフォークで皿の上のケーキを頬張った。愛里は出されたものに手を付けず、その横で日本人形のようにただじっと一点を見つめながら固まっていた。何か固い意志を持ったまま凝然として視線を動かさなかった。
見かねた美奈子が、
「遠慮しないでお食べなさい」
柔らかな微笑で云い、
「食べないの?」
穣も顔を覗き込みながら訊ねた。愛里は小さく頷いた。
「どうして? 食べればいいじゃん」
穣が云うと、愛里は突然立ち上がった。そして広々した部屋を一望して扉を確認すると、足音を立てて勢いよく出て行った。穣は目を丸くして残りのオレンジジュースを飲み干し、腹をたぷたぷ鳴らしながら後を追いかけ、勢いよく玄関を出て行く愛里の背中を目で捉えた。
幸い雨は小降りになっていたが、路地の曲がり角で愛里に追い付いた穣は次の言葉で土砂降りにも似た心境になった。
「私、あんたの家、好きじゃない」
立ち止まり、振り返った愛里のはっきりした物云いに、穣は戸惑いを隠せなかった。
「え、どうして?」
「理由なんてない」
挑むような目付きで愛里は云い放った。小学校低学年だった当時の穣にはわかるようでわからなかったが、何か突きつけられたことだけは確かだった。何よりその言葉は棘となって穣の心に突き刺さった。
ふたりの間には確かな温度差が距離を隔てるように介在していた。穣は何かを諦めるように、玄関脇から咄嗟に手にしてきた一本の黄色い傘を差し出し、愛里の手に無理矢理持たせた。愛里は二の句が継げず、踵を返して走り去る穣の背中を傘も開かず雨に濡れたまま見つめていた。小降りの雨が、互いの心をひんやりと冷やした。
来た路を駆け戻る穣の横目には至るところに真野透のポスターが貼られていた。写真のなかで如何にも政治家然とした父親はどこか知らない人のように映じた。その顔を見ないようにしながら穣は走って家に向かい、居間に戻ると、食べかけのロールケーキと空のコップがそのまま残っていた。手の付けられなかった方は、いつの間にか帰っていた秋菜がすでに頬張っていた。
「どこ行ってたの?」
秋菜の問いに穣は何も答えず、ただ黙って横に坐った。再びフォークを手に取ったが、さっきよりもどこか味気なさを感じ窓の外を眺めた。じきに止むだろう雨を見ながら、愛里はもう家に着いたのだろうかと気にかけた。
「さっきの子、穣のおともだちなの?」
心配そうに見つめた美奈子が訊いた。
「うん。学校のともだちも含めて、愛里が一番好きなんだ」
「愛里ちゃんていうのね。また連れて来なさい」
美奈子は優しく微笑んだ。ウェーブがかった髪の隙間から整った顔立ちを覗かせたその眼差しは温かく、鼻の高さは穣、くっきりした目は秋菜が見事に受け継いでいた。
美奈子はふたりの実子を眺めながら、自分がかつてしたある決断についての是非を改めて問うていた。秋菜に関しては心配なかったが、どうしても頓着してしまうのは男の子である穣への影響についてだった。
翌る日、穣は家を通過してそのまま海響公園へ向かった。愛里は居るだろうか。朝からそのことばかりに頓着しながら、校章の入った背中のランドセルがいつもより余計に重く感じていた。この刻まれた校章こそ、穣と愛里を隔てているものの表徴に違いなかった。穣の本音はこのランドセルごとそこいらに捨てて走り出したかった。子供ながらの自由への渇望にも近かったその感情は大人になるにつれ増して行くことをこの時はまだ知らずにいた。
穣が期待を込めて到着した海響公園には誰も居なかった。しんとした空間は相変わらずブランコが海風になびいており、フェンスの下で伸び切った草たちが揺れていた。
待っていれば愛里がやって来るかもしれない。穣は淡い期待を抱きながら、重りを投げ捨ててブランコに坐った。夕凪が心地よく、見晴るかす風景が段々と鮮やかな橙色に変わってゆく。その様をただ茫然と眺めながら、この風景だけがいつも彼の心を平穏にさせた。波間が一定の律動で音を立てながら、絶え間なく心臓の鼓動のように刻む。その音を聴きながら、穣は時折後背を振り返り、愛里の幻影を探してはまた海面の模様に目を移した。
どれくらい時間が経っただろう。橙が徐々に濃紺に変わってゆき、薄暮が迫り始めたその時だった。
「おーい」
突然鳴り響いたその声に穣の体躯はビクッと反応し、咄嗟に振り返った。
「ご飯なんだけど」
海響公園のとば口に立っていたのは秋菜だった。秋菜はいつまでも帰らない弟を心配してわざわざ夕餉を知らせに来たのだった。一瞬愛里だと期待した穣は肩を落としながら、姉に付いて帰ることにした。
「お前さ、あの愛里って子のこと好きなの?」
薄暗くなりかけた路地で少し前を歩く秋菜は振り返って訊ねた。不貞腐れた穣は、
「別に」
とだけ返し、目を反らした。そんな穣の姿が滑稽に映じた秋菜は鼻で嗤った。
それから数日経っても、愛里は公園に現れなかった。愛里は薄々気付いていた穣との環境の違いのようなものをあの日克明に突き付けられた気がし、その現実にまだ少女だった心は向き合うことが出来ずにいた。
穣は愛里の家を知らず、それどころか海響公園で顔を合わせる以外、公立の小学校に通う彼女とは他に交流する術もなかった。家が近いということは何となく分かっていたが、それ以外は愛里のことをほとんど何も知らない。日常の大半をこの場所でともに過ごしていたが、それがほんの一部分でしかないことを穣はこの時初めて気付かされたのだった。
だが、いずれ知ることになるのなら早くて正解だったことに変わりはない。大人になるにつれ、嫌でも考えさせられる違いを今は先入観無しで自身の目で切り取って感じられるからだ。
穣が待ち望んだ愛里との邂逅は突然だった。ようやくふたりが再会したのは海響公園ではなく、学校帰りに偶然出会した住宅街の交差点だった。互いに顔を合わせた途端、目を見開いたまま言葉はなかった。互いの間に妙な沈黙が介在し、しばらく佇んだ沈黙の後、
「うち、来る?」
愛里は問いかけた。
穣は黙って頷き、愛里の後を付いて行った。しばらく歩くと、少し古びた二階建てのアパートが見えて来、一階の角部屋の前に着くと、木製の切り文字で「ななみ」と記された表札がマグネットフックに吊るされていた。愛里は静かに玄関を開け、振り返ると目で合図して穣をなかに招じ入れた。すると穣の視界にすぐに大人の女性が映り込んだ。子供ながらに綺麗な女の人だと思った穣は四角張った。
「あら、おかえり」
「ただいま。ともだち連れて来た」
「お、お邪魔します」
「いらっしゃい。狭いけど、どうぞ」
優しげな大人の微笑に穣は固化しながら正座し、それを見た愛里の母親は足を崩すよう告げて微笑んだ。部屋は居間の他に寝室がもうひと部屋あるだけの狭い空間だった。
「愛里がおともだち連れて来るなんて珍しいね」
母親の美佐江は透明のコップに麦茶を入れて差し出し、適当に茶菓子を見繕ってちゃぶ台のような小さな机の上に置いた。
「ごめんね、今これしかないの。あら、その制服とランドセル、私立なのね」
「はい」
「お名前は?」
すると愛里が、
「穣だよ」
すかさず云って聞かせた。すぐさま穣自身が、
「真野穣です」
と答えた。
「えっ、真野って、もしかして真野先生の––––。いや、まさかね」
美佐江はひとりごちるように呟いた。穣は思わず口を噤んだ。もしそうだと答えれば何か距離が出来てしまうような気が子供心にあったからだ。穣のなかで、愛里が子供ながらに伝えたかったことがわかった気がした。
––––住む世界が違う––––
それを突き付けられた気がしたのだった。
結句、真野透の息子だということを穣は告げなかった。いや、告げられなかった。それでも子供の気遣いなぞは見透かされていたかのように美佐江は愛里を連れて、穣を家の前まで送った。夕靄のなか、愛里と美佐江と三人で影を作り歩いた帰路で、穣の心中は複雑ながらも、どこか満たされた想いが介在していた。
愛里は穣の家には寄り付かなかったが、逆に愛里の家ではふたりでよく遊んだ。女手ひとりで子育てをしている美佐江は仕事で家を空けていることが多く、アパートはいつも穣と愛里だけの時間が長く続き、ふたりだけの空間が時間を忘れさせた。イタズラ好きの愛里は寝ている穣の顔にマジックで落書きしては、ゲラゲラと笑っていた。