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仮面を被り続ける②

イクシオン様の言葉がくれた温かい感情を胸に、私はは静かに顔を上げた。沈黙が心地よく、しかし時間の流れは常に一定だ。


「そろそろ、殿下のところへ参りましょうか」


私が促すと、イクシオン様は優しく頷いた。私たちはベンチから立ち上がり、来た道を戻るように小道を歩き始めた。


私は殿下の執務室へと向かう道のりの中で、先ほどのひとときが、これから直面するであろう王妃としての重圧に対する、ささやかな、しかし確かな心の支えとなることを感じていた。


ルーカス殿下の執務室の扉が、イクシオン様の手によって静かに開かれる。


「ルーカス殿下、アイリス様をお連れいたしました」


イクシオン様の声に促され、私は執務室へと足を踏み入れた。室内はルーカス殿下の趣味を反映してか、重厚な木材と深い色合いの布地で統一されており、壁際には膨大な量の書物が収められた書架がそびえ立っている。


執務机の奥に座っていたルーカス殿下が顔を上げた。整った顔立ちには知的な雰囲気が漂い、彼を象徴するブルーファイア色の宝石眼が、私の姿を捉える。


「久しぶりだね、アイリス」


殿下の言葉に、私は一瞬もためらわず、流れるような美しい所作で深々と礼をした。


「お久しぶりでございます、ルーカス殿下」


顔を上げた私の瞳は、普段と変わらず無感情にも見えるほど静謐で、感情の読めない光を宿して殿下を見つめた。


その視線を受け止めたルーカス殿下のブルーファイア色の瞳にも、一瞬、怪しい光が宿ったのが、私の目には確かに映った。


私の背後で、イクシオン様が静かに一礼し、音もなく執務室の扉を閉めて出て行った。


彼の存在が消え、室内の空気は再び、ルーカス殿下と私の二人だけのものとなる。


私は殿下に向き直り、感情の読み取れない瞳でまっすぐに見つめた。


「それで、私になにか御用でしょうか?」


その問いに、ルーカス殿下はふっと口元を緩めた。しかし、彼のブルーファイア色の宝石眼に宿る怪しい光は消えていない。


「本当に君は、僕に対してだけ冷たい態度だよね?」


殿下の言葉には、どこか試すような響きがあった。私は眉一つ動かさず、淡々と答える。


「いいえ、殿下。私は、いつもこのような接し方だったかと存じます」


その言葉は、まるで揺るぎない真実であるかのように、静かに執務室に響き渡った。


私の揺るぎない返答に、ルーカス殿下はにこりと笑った。その笑みは、先ほど瞳に宿った怪しい光とは裏腹に、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。


「とりあえず、座ったら?」


ルーカス殿下は、執務机の向かいにある客用の椅子を促す。しかし、私はそれに従おうとはしなかった。


「申し訳ございません、殿下。私は本日、アカデミーに向けた準備がございますため、長居するつもりはございません」


きっぱりとした口調で告げ、私は一歩も動かなかった。


私の返答に、ルーカス殿下はわずかに考え込むそぶりを見せた。


「ああ、そういえばそうだったね。王妃教育もしばらく休むと聞いたよ」


彼は視線を私に戻し、どこか含みのある笑みを浮かべた。


「アカデミーでは色々なことが学べるから、君にとってもいい経験になるだろう」


その言葉に、私は静かに頷いた。


王妃教育の厳しさから一時的に解放されることへの安堵と、アカデミーで得られるであろう新たな知識への期待が、私の心には確かにあった。


ルーカス殿下は、そんな私の様子を満足げに見つめ、一呼吸置いてから、本題へと入るように告げた。


「そこで、君にお願いがあるんだ」


ルーカス殿下は、私の静かな頷きを受け止めると、その瞳に再び怪しい光を宿した。


「アカデミーで、ある人物を見張ってほしいんだ」


殿下の言葉に、私の胸に一瞬、嫌な予感がよぎった。


ルーカス殿下が自分に直接何かを頼んでくることは滅多にない。それだけに、この突然のお願いには、何か裏があるのではないか、殿下が何を企んでいるのか、という疑念が脳裏をかすめる。


しかし、その真意を探るためには、まず話を聞く必要がある。


私は内心の動揺を一切表に出さず、冷静な声音で問い返した。


「その方は?」


「カンナ・フレア・ド・アウラ・ロベリア公爵令嬢だよ」


ルーカス殿下の口から告げられた名前に、私の顔に初めて、はっきりと感情がこもった。


それは、隠しきれないほどの驚きだった。


なぜ、イクシオン様の妹である彼女を「見張れ」と殿下は言うのか。


彼女の噂はいくつか耳にしたことがあるが、ルーカス殿下が個人的に興味を抱くような内容ではなかったはず。それなのにどうして?


様々な疑問と憶測が、私の頭の中を嵐のように駆け巡ったその時、ルーカス殿下は私の動揺を見抜いたかのように、言葉を付け加えた。


「ああ、見張れといっても、ただ彼女の行動を見ていてくれるだけでいいという話だよ」


その言葉は私の胸に渦巻く波紋を、わずかに穏やかにした。


「理由をお聞かせいただけますでしょうか?」


私は動揺を押し殺しながらも、静かに尋ねた。


殿下の言葉が「ただ見ていてくれるだけでいい」というものだったとしても、イクシオン様の妹を監視する理由が不明瞭なままでは、承諾するわけにはいかない。


ルーカス殿下は、私の問いに目を細め、その表情を真剣なものへと変えた。先ほどのどこか掴みどころのない笑顔は消え、そこには王族としての厳しい判断が宿っているようだった。


「彼女の噂を耳にしたことはあるかい?」


殿下の問いに、私は無言で頷いた。彼女の噂は、どれもこれも悪い噂ばかりだ。


身分にそぐわない粗野な振る舞いや、時には些細なトラブルを引き起こしたという話まで。


「彼女は公爵家のご令嬢であるにもかかわらず、公爵家の人間としての自覚が足りていない」


ルーカス殿下の声は、抑揚がないものの、どこか冷たさを帯びていた。


「ましてや、噂はどれもほぼ事実らしい」


彼は一拍置くと、視線を私へと向けた。


「少し前の私だったら軽く聞き流していただろう。しかしこの度、彼女がアカデミーに入学するとイクシオンから聞いてね。この国の王太子として、王家を支えてくれているロベリア家のご令嬢に悪い噂が流れたままということに、私はいい気がしない。ましてや、イクシオンの妹だ。彼も彼女のことをとても心配している」


殿下の瞳の奥には、確かな警戒の色が宿っていた。


「それで、彼女を見張れと?」


私は殿下の言葉に込められた意図を慎重に探るように、もう一度問いかけた。


私の問いに、ルーカス殿下はにっこりと笑顔を浮かべて頷いた。その笑顔は、どこか胡散臭く、しかし表向きは友好的だ。


「そうだよ。私としては、君が手助けしてあげれば、きっと彼女の噂もなくなり、公爵家の人間としての自覚が芽生え、いい方向へ向かうだろうと考えている」


殿下の言葉は、まるで親切心からの提案であるかのように聞こえる。しかし、その裏に隠された真の目的が何であるのか、私にはまだ測りかねていた。


公爵令嬢の監視を、次期王妃である自分に依頼する。それが単なる善意から来るものだとは、到底思えなかった。


ルーカス殿下の言葉に、私は一瞬の迷いを見せた。彼の真意を探るべきなのか。しかし、これ以上ここで互いに探り合っても時間の無駄だと、私は即座に判断した。


今は彼の意図が分からなくとも、アカデミーで彼女の行動を見ることで、何かしら掴めるかもしれない。


私は内心の複雑な感情を悟らせぬよう、完璧に美しい所作でルーカス殿下に一礼した。


「かしこまりました。殿下のお申し出、謹んでお受けいたします」


その言葉に、ルーカス殿下は満足げに軽く笑った。彼のブルーファイア色の瞳の奥に宿っていた怪しい光は、表面上は消え、ただ穏やかな笑みが浮かんでいる。


「任せたよ、アイリス。報告は君が帰省してくる時で構わないからさ」


ルーカス殿下はそう言い、私の背後の扉に視線を向けた。それが、退室を促す合図であることは明白だった。私は再び一礼すると、静かに執務室を後にした。


執務室の扉が静かに閉じられる音を聞き届けたルーカス殿下は、重厚な椅子にもたれかかり、そのブルーファイア色の宝石眼を不気味に輝かせた。


「君がどんなことをしてくれるのか、期待しているよ? アイリス」


その言葉は、誰にも届くことなく、冷たい空気の中に溶けていった。




☆ ☆ ☆




執務室を後にした私は、一人城門へと続く長い廊下を歩いていた。


私の心は、ルーカス殿下の言葉と、彼女を監視するという奇妙な依頼について、様々な考えを巡らせていた。


「本当に殿下は、良心から彼女を見張れと言ったのかしら?」


私は疑念を拭えずにいた。


ルーカス殿下にとって、彼女は利用価値があるような存在ではないはずだ。これまでの接点も何もない。それなのに、なぜ、自分にそのような依頼をしてきたのか。その理由がどうしても腑に落ちない。


私の直感は、殿下の言葉の裏に、何か別の意図が隠されていると告げていた。


重厚な城門をくぐると、二人の侍女が私の姿を見つけ、深く頭を下げた。


「お疲れ様です、アイリスお嬢様」


「えぇ、二人ともご苦労様です。ラリー、マリー」


私はいつものように、穏やかな表情で二人に応えた。しかし、私の心の中では、アカデミーで始まる新しい日々、そしてルーカス殿下から課せられた任務への複雑な思いが交錯していた。




☆ ☆ ☆




王城から屋敷に戻った私は、迷うことなく父の執務室へと足を向けた。扉を軽くノックし、返事を待たずに静かに開ける。


「今戻りました、お父様」


私は、いつもと変わらぬ美しい所作で深々と頭を下げた。父であるラース公爵は、机に向かい、羽根ペンを動かし続けている。


私に顔を向けることもなく、公爵は淡々と言葉を紡いだ。


「この春から、アカデミーに行くことになる。次期王妃としての立場を考えた行動をするように」


それだけだった。娘の帰宅を労う言葉も、長旅を気遣う一言もない。


私の表情に一瞬、微かな寂しさがよぎった。しかし、すぐにそれを消し去り、いつもの平静な面持ちで答える。


「承知いたしました」


静かに告げると、私は執務室を後にした。


執務室を出て数歩歩いたその時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。


「帰ったのか、アイリス」


思わず振り返ると、そこに立っていたのは、私のお兄様であるアルベルトお兄様だった。


彼の顔には、妹の帰りを心待ちにしていたかのような、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「お兄様!」


私の顔に、普段はめったに見せない満面の笑みが花開いた。


私は迷うことなくアルベルトお兄様に駆け寄り、その胸に思い切り抱きついた。


アルベルトお兄様もまた、私の突然の抱擁に驚きつつも、温かくそれを受け止めた。


彼の腕が私の背中に回され、優しく抱きしめ返す。


「ああ、アイリス。久しぶりだな」


彼の声には、私への深い愛情がにじんでいた。


公爵家を継ぐ者としての重圧を背負うアルベルトお兄様だが、私の前ではただ一人の優しいお兄様だった。


お兄様の温かい腕の中で、私はしばしの間、父との会話で冷え込んだ心を温めていた。やがて名残惜しそうに身を離すと、アルベルトお兄様は私の頭を優しく撫でた。


「元気だったか?」


アルベルトお兄様の言葉に、私は小さく頷いた。


「はい、お兄様もお元気そうでなによりです」


私たちは並んで、屋敷の中へと歩き始めた。その足取りは、先ほどの張り詰めた雰囲気とは打って変わって、どこかゆったりとしていた。


リビングへと向かう途中、アルベルトお兄様は私の顔を覗き込む。


「アカデミーに行く話は聞いたぞ。王妃教育から少し離れられれば、息抜きになるだろう」


私は微笑んで答えた。


「えぇ。でも、ルーカス殿下から、アカデミーである方を見ていてほしいとお願いされまして……」


私はルーカス殿下の依頼と、カンナ様についての懸念をお兄様に打ち明けた。


アルベルトお兄様は真剣な表情で私の話を聞き、時折顎に手を当てて考え込む。


「なるほど……確かに彼女の噂はあまり良くないが、殿下がそこまで気にするとはな」


アルベルトお兄様の言葉に、私はやはり、という思いを強くする。


「私もそう思いました。殿下の真意が読めなくて……」


アルベルトお兄様は私の肩にそっと手を置いた。


「無理をするなよ、アイリス。何かあったら、すぐ俺に連絡してくれ。お前は一人じゃないんだからな」


その言葉が、どれほど私の心を温かくしただろう。次期王妃としての重責、父からの期待と距離感、そして殿下の不可解な依頼。


私はアルベルトお兄様の顔を見上げ、心からの感謝を込めて微笑んだ。


「はい、お兄様。ありがとうございます」


アルベルトお兄様は、私の頭をもう一度優しく撫でると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「それで、イクシオンとはどうなんだ?」


その言葉に、私の顔はみるみるうちに真っ赤になった。お兄様のストレートな問いかけは、私の心の奥底に秘めていた感情を突然暴き出されたようで、言葉を失ってしまう。


アルベルトお兄様は、私の顔が真っ赤になるのを見て、面白そうに目を細めた。お兄様の表情は、私の反応を楽しんでいるかのようだ。


「どうした? そんなに顔を赤くして。何かあったのか?」


アルベルトお兄様は、さらに追及するように問いかける。私はお兄様のからかいにますます頬を染めた。


「お、お兄様ったら! な、何を言っているのですか!」


私はしどろもどろになりながらも、必死に平静を装おうとする。しかしその声は上ずり、狼狽が隠しきれていない。


アルベルトお兄様は声を出して笑った。


「なんだ、照れているのか。隠さなくてもいいんだぞ。お前がイクシオンのことをどう思っているかくらい、俺にはお見通しだよ」


お兄様の言葉に、私は反論することもできず、ただ俯いた。


幼い頃から、アルベルトお兄様は私の感情の機微を誰よりもよく理解していた。


イクシオン様への密かな恋心も、きっとお兄様には筒抜けだったのだろう。


アルベルトお兄様は、私の肩をポンと叩いた。


「まあ、頑張れよ。応援しているからな」


その言葉は、私の背中を優しく押してくれるようだった。しかしアルベルトお兄様の応援の言葉に、私はふっと瞳を伏せた。


その表情には、先ほどの照れとは違う、深い寂しさが滲んでいた。


「それは……無理です」


私の声は、今にも消え入りそうに小さかった。


私の心の中には、王妃としての立場と、決して超えられない壁が立ちはだかっていることを、誰よりも理解しているからだった。


お兄様の温かい励ましは、かえってその現実を突きつけるかのように響いた。


私の沈痛な声に、アルベルトお兄様の笑顔が消えた。


お兄様は私の言葉の真意を理解し、その寂しげな瞳の奥にある諦めを読み取った。


公爵家の長男として、そして次期王妃の兄として、私が置かれた立場を誰よりも知っている。


護衛騎士であり次期ロベリア家当主のイクシオン様と、次期王妃である私の関係が、どれほど私がイクシオン様を想っていたとしても、変わることは決してない。


アルベルトお兄様は深く息を吐き、優しく私の肩を抱き寄せた。


「そうか……そうだな」


お兄様の声は静かで、諦念と慰めの両方が含まれていた。アルベルトお兄様は何も言わずに、ただ黙って私の頭を撫で続けた。


その温かい手が、私の心を少しでも癒せるようにと願うかのように。



☆ ☆ ☆



季節は巡り、新緑が眩しい春の季節。王都の一角にそびえ立つ、歴史あるアカデミーの門が、私のために開かれた。


数日後に行われる入学式の日、私は公爵家の馬車を降り、厳かながらも華やいだ空気に包まれた広大な敷地へと足を踏み入れた。


周りには、期待に胸を膨らませた貴族の子弟たちが、それぞれの身分を示すかのような上質な衣装を身につけて集まっている。


彼らの顔には、新しい学び舎での生活への希望と、少しの緊張が見て取れた。


私もまた、美しく整えられたアカデミーの制服に身を包んでいた。白と淡い藤色の生地に、銀の刺繍が施されたそれは、私の優雅な雰囲気を一層引き立てている。


しかし、その表情は誰にも読ませない、完璧な仮面で覆われていた。


「ここで、私は次期王妃としての役目を全うしなければならない」


父の言葉、そしてルーカス殿下の不可解な依頼が、私の胸に重くのしかかる。


そして、お兄様にさえ打ち明けた恋心も、この場所では決して表に出してはならないものだ。


私は、これから始まるアカデミーでの生活に、強い覚悟を持って臨む。


王妃となるための学び、殿下の依頼、そしてカンナ様の監視。


すべてを完璧にこなし、そして何よりも、自身の真の感情を隠し続けることを、心に深く誓った。

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