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仮面を被り続ける①

白と紫のグラデーションが窓から差し込む光を受けて淡く輝く執務室。


私は羽根ペンを走らせる手をふと止めた。机に広がる書類は、次期王妃として担う責務がぎっしりと綴られている。紫色の髪が午後の柔らかな光を吸い込み、白のバラのコサージュが付いたリボンがその流れに沿って揺れていた。


「アイリス様」


静寂な空間に響いた声に動かしていた羽根ペンをぴたりと止めた。顔を上げると、白と紫のグラデーションがかった瞳が、目の前に立つ人物を捉える。ルーカス殿下の護衛騎士、イクシオン様だ。


彼の緋色と青色のグラデーションがかった髪は、いつものように左で丁寧に束ねられ、整然とした印象を与える。ヴァイオレットモルガナイト色の瞳は静かに伏せられ、その表情は読み取れない。


私はイクシオン様の静かな佇まいを見つめ返した。


「アイリス様。殿下がお呼びです」


飾り気のない言葉でありながら、イクシオン様の低い声は執務室の静寂を静かに震わせた。完璧に整えられた彼の立ち姿は、一点の曇りもなく美しい。緋色と青色の髪のコントラスト、そして伏せられたヴァイオレットモルガナイト色の瞳の奥に潜む静かな強さが、私の心を密かに捉える。


「今日も素敵です……イクシオン様」


心の中で、アイリス・リーベ・ド・アウラ・ラースはまるで恋する乙女のように瞳を輝かせた。胸の奥では歓喜が小さく跳ね回る。しかし、その感情を決して表に出すことはない。殿下の婚約者として、次期王妃としての自覚が私に冷静さを強いる。


「わかりました」


声は静かで落ち着いていた。私はゆっくりと立ち上がり、イクシオン様の横を通り過ぎる。その瞬間、かすかに感じた彼の気配に、また心臓が小さく跳ねる。何事もなかったかのように、私は執務室の扉へと歩みを進める。背後には、変わらず静かに控えるイクシオン様の姿があった。



☆ ☆ ☆



執務室を出た私は、イクシオン様の前を歩きながら、王城の廊下を進んだ。壁には歴代の王や王妃の肖像画が等間隔に飾られ、その重厚な視線が歩く者たちを見守っているかのようだ。高い天井からは、磨き上げられたシャンデリアが柔らかな光を投げかけ、廊下を優雅に照らし出している。


足音は静かに、しかし確実に響き、その規則的なリズムが城内の静寂を破る唯一の音だった。


両脇に並ぶ窓からは、手入れの行き届いた庭園の緑と、遠くから見える王都の景色が広がる。窓枠には、陽光を浴びで輝くステンドグラスがはめ込まれ、差し込む光が床に色とりどりの模様を描き出していた。


すれ違う侍女や騎士たちは、私に気がつくと皆一様に深く頭を下げ、次期王妃への敬意を示した。私はその一つ一つに穏やかな会釈を返し、その動作はまるで洗練されたかのように淀みない。表情からは、先ほどの内心のときめきは微塵も感じられない、ただ、凛とした気品と、揺るぎない覚悟がそこにあった。


完璧に整えられた表情のまま、まっすぐ前を見据えて歩いて行く。しかしその内心では、背後から一定の距離で続くイクシオン様の足音に、鼓動が密かに速くなるのを感じていた。凛とした次期王妃の仮面の下で、私の心は密かに高鳴っている。


その時だった。


「アイリス様」


突然、背後からイクシオン様の声がかけられた。予想外のことに、私は「ひゃっ」と、普段からは考えられないような小さな、しかしはっきりと裏返った声を上げてしまった。


一瞬の沈黙が廊下に訪れる。私は何でもないような顔を装おうと努めたが、わずかに紅潮した頬がその動揺を物語っていた。


すると後ろから小さく、くすくすと笑う声が聞こえた。振り向かずとも、イクシオン様が小さく笑みを浮かべているのが想像できた。


「何か、考え事でもされていましたか?」


イクシオン様の声には、微かな楽しげな響きが含まれていた。私は彼の言葉に頬をさらに赤くした。完全に動揺を見抜かれている。


「なんでも……ありません」


わずかにどもりながら答えた後、私がごまかすように小さく咳払いをした。気を取り直して、私はイクシオン様に問いかける。


「それで、何かご用でしょうか?」


私に言葉に、イクシオン様が口を開く。


「殿下の仕事が終わるまでには、まだ少々時間がかかるかと」


「えっ? では、なぜ……?」


私は首を傾げた。殿下が忙しいのなら、なぜ自分を呼び出したのか理解できなかった。するとイクシオン様は、すっと私の目の前に手を取り出すように差し出した。


「もしよろしければ、庭園で少しお散歩でもいかがでしょうか?」


彼のヴァイオレットモルガナイト色の瞳が、静かに私を見つめ返す。


目の前に差し出されたイクシオン様の、しなやかな力強い手。その手を見つめながら、私は内心の高鳴る鼓動を必死に鎮めた。一瞬の逡巡の後、私はそっと自分の手をイクシオン様の手の上に重ねる。


「えぇ、喜んで」


声は微かに震えていたものの、その返事にははっきりと喜びがにじんでいた。イクシオン様は優しく私の手を取り、二人は連れ立って庭園へと向かう廊下を歩き始めた。


私たちが足を踏み入れた庭園は、王城の厳かな雰囲気とは打って変わって、生命力に満ちた色彩の楽園だった。手入れの行き届いた小道が迷路のように続き、色とりどりの花々が風に揺れ、甘やかな香りあたりに漂わせている。噴水の水音が心地よく響き渡り、陽光が降り注ぐ中、きらきらと輝く水しぶきが虹色の光を放っていた。


小道の脇に設けられた白いベンチに腰を下ろすと、周囲の喧騒が遠ざかり、鳥のさえずりが耳に届く。私とイクシオン様は、他愛もない幼い頃の思い出を語り始めた。他者には見せない穏やかな表情で言葉を交わすうち、私の心には一つの鮮明な記憶が蘇る。


「私、幼い頃はここでよく泣いておりました」


私は微笑むような、しかし少し寂しげな声で言った。


王妃教育の厳しさに心が折れそうになっていたある日、この庭園の片隅で、幼い私は人目を忍んで涙を流していた。その時、ロベリア公爵に連れられてやってきたのが、まだあどけさなの残るイクシオン様だった。


当時から整った顔立ちのイクシオン様は、泣いている私に戸惑うことなく近づき、自分の手から私と同じ髪色のハンカチを差し出してくれた。そして、まだ幼い声ながらも、まっすぐな瞳でこう告げたのだ。


「泣かないでください、未来の王妃殿下。将来、私はあなたを守る剣となることを誓います」


その時のイクシオン様の姿は、幼い私にとって物語に出てくる王子様そのものだった。差し出されたハンカチの淡い紫色の美しさと、彼の真剣な誓いの言葉が、幼心にどれほど大きな安堵と希望を与えてくれたか。


私の瞳は遠い記憶の光を宿し、ノスタルジーに浸かっていた。その柔らかな表情を見ていたイクシオン様は、ふっと優しく微笑む。それは滅多に見せない、心を許した相手にだけ見せるような、特別な笑顔だった。


「あの時の誓いは、今も変わっておりません、アイリス様」


イクシオン様の声は、庭園を吹き抜ける風のように穏やかでありながら、確固たる響きを持っていた。彼のヴァイオレットモルガナイト色の瞳は、いつになく真っ直ぐに私を見つめ、そこに揺るぎない決意が、私の胸を高鳴らせる。幼い日の記憶が、目の前の現実と重なり、私は頬を再び淡い桜色に染まった。


「イクシオン様……」


私はまるで言葉を探すように、小さく彼の名を呼んだ。彼の変わらぬ誓いの言葉は、王妃教育の重圧や、次期王妃としての孤独な重責の中で、どれほど心強い支えであっただろうか。幼い頃の「王子様」は、今や頼れる護衛騎士として、そして何よりも私の心を深く理解する存在として隣にいる。


庭園に吹き抜ける風が、私たちの間を優しく通り過ぎていく。花々の甘い香りが、その静かな時間を彩っていった。

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