あの場所で彼女の存在を探している②
それからしばらく経ったある日のこと。
僕は書院から屋敷へ戻ると、すぐに父上に呼び出された。書斎の重厚な扉を開けると、そこには既に父上が座っていた。
「フィリックス。最近、公爵家の令嬢とよく一緒にいるそうだな」
父上の第一声は、僕の予想を大きく超えるものだった。なぜ、父上がそのことを知っているのか? 僕は驚きを隠せないまま、父上に尋ねようとする。しかし、その問いかけは遮られた。
「父上……なぜそれを──」
「そんなことはどうでもいい」
父上は、僕の返事を待つことなく立ち上がると、僕の両肩に力強く両手を置いた。父上の瞳は、普段の厳格な伯爵のそれとはまるで異なり、欲望に満ちたぎらぎらとした輝きを放っていた。
「これは、とてつもない好機だ!」
父上の声は、僕の耳に大きく響いた。
「彼女と関係を深めれば、公爵家へと繋がる確固たる道となる。そうなれば、我らハルシャギク家も、ついに国の政治の表舞台に参加できるのだ。この国を、ひいては世界を動かす側に回れる!」
父上の言葉を聞きながら、僕の背筋に冷たいものが走った。この上なく嫌な予感だった。彼女との関係が、単なる打算的な道具として利用されようとしている。そして、その道具を使うのは、他ならぬ自分の父上だ。
ブーゲンビリア王国の政治は、主に三大公爵家が担っていた。ラース家、ラナンキュラス家、そしてロベリア家。その中の内の一つ、ロベリア家の唯一のご令嬢である彼女には、まだ婚約者がいなかった。
「フィリックス。カンナ・ロベリアを手に入れろ。彼女を味方につければ、ハルシャギク家は、他のどの貴族よりも早く、この国の頂点に立つことができるのだ!」
父上の言葉は、まるで鋭い刃物のように僕の胸に刺さった。彼女を政略の道具として利用しろというのか。
僕の中で嫌悪感と、そして微かな戸惑いが渦巻いていた。彼女との時間が、決して嫌なものではなかっただけなのに、この言葉が重くのしかかる中、僕は何も言い返す事ができなかった。ただ、その瞳の奥には、複雑な感情が渦巻いていた。
「期待しているぞ、フィリックス」
父上の言葉が、とどめのように僕の心に突き刺さった。僕は唇をきゅっと結び、絞り出すように静かに告げた。
「……分かりました」
その声は、ひどく掠れていた。
部屋に戻ると、僕は力のこもった拳を壁に叩きつけた。鋭い痛みが、僕の内なる葛藤をさらに煽る。
どうすればいい? 彼女に、父上の企みを素直に話すべきなのか? いや、それは違う。彼女をこの醜い政略に巻き込みたくない。彼女に、嫌な思いをさせたくない。
頭の中を駆け巡る無数の思考の末、僕は出した結論は一つだった。
嫌われることだ。
数日後、彼女と会う約束をしていた僕は、指定された場所へと向かった。遠くからでも分かる緋色の髪を見つけ、僕の心臓は嫌な音を立てる。彼女は、僕を見つけると駆け寄って来た。その手には、僕がずっと欲しがっていた希少な書物が丁寧に包まれていた。
「フィリックス様。これ、ずっと探していらしたでしょう?」
彼女の顔は、満面の笑みで彩られている。その屈託のない笑顔を見る度、僕の心には罪悪感が募った。それでも、僕は決意を翻さなかった。
僕は、彼女から差し出されたプレゼントを、無感情な表情で跳ね除けた。包みが解け、美しい装丁の書物が無情にも地面を転がる。
彼女のヴァイオレットモルガナイト色の瞳が、大きく見開かれた。信じられない、といった表情で僕を見てくる彼女に、僕は冷たい目を向け、これまで心に押し殺してきた言葉を吐き出した。
「これまでの君の行動は、僕にとって目障りだった」
僕の声は、静かに刺々しく響く。
目障り――その言葉には、僕自身の安らぎ踏みにじられたことへの憤り、そして何より彼女の存在が、僕の平穏を脅かす「現実」を突きつけてくることへの抗いがたい拒絶が込められていた。
「君が僕の行く先々に現れるたび、僕は君が僕を利用しようとしてくる下劣な人間たちと同じだと、そう思わざるを得なかった。僕の大切な安息の場所まで、軽々しく踏み荒らされた気分だ」
彼の言葉は、まるで鋭い刃のように、彼女の心を切り裂く。それは、これまで僕が自分を追ってくる無数の令嬢たちに対して抱いてきた、吐き気を催すほどの嫌悪感そのものだった。
「こんな本を買うくらいなら、もう少しは自分で努力して勉強したらどうなんだ?」
その言葉を言い放った瞬間、彼女の笑顔はまるでガラスのように砕け散った。悲しみと侮蔑された怒りが混じり合った表情。次の瞬間、バチン!!と乾いた音が響き渡った。
僕の頬に、熱い衝撃が走る。彼女に、思い切りビンタされたのだ。彼女の行動に、僕の思考は一瞬追いつかない。遅れてジンジンと痛む頬に触れながら、僕は彼女に目を戻した。
その時、僕の目に映った彼女の顔は、後悔の念で僕を襲った。ヴァイオレットモルガナイト色の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れている。彼女は何も言わず、ただ涙を流しながら、そのままくるりと背を向け、走りさっていった。
ポツポツと、空から雨が降り始める。雨粒は僕と、足元に転がった書物を容赦なく濡らしていく。僕は濡れた書物をそっと手に取り、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
「これでいいんだ。これで……」
僕の静寂な世界に、冷たい雨音が響き渡った。
☆ ☆ ☆
それから三カ月が過ぎた。
僕はいつものように、リコリス書院で書物を開いていた。手にしているものは、あの日彼女から贈られ、地面に転がった末に雨に濡れた本だ。
あの後、僕は彼女と関係が最悪なものになったことを知った父上は、僕を容赦なく蹴り、殴り、罵倒した。でも、僕に後悔はなかった。
ふと顔を上げると、僕の目は無意識のうちに書院の中を彷徨い、緋色の髪を探している。
ここへ来るたび、この場所で彼女と過ごした時間の記憶が蘇る。彼女の屈託のない笑顔、真剣な眼差し、そしてあの日のビンタの衝撃……。
そのたびに、僕の中では言いようのない後悔の念に苛まれる。それでも「これでいいんだ」と、僕は何度も自分に言い聞かせる。
三か月後には、アカデミーで彼女と顔を合わせる日が来るだろう。それは避けられない運命だ。
だが、僕は自分から彼女に近づくことはないとい心に誓っていた。彼女もまた、自分に近づいてこないだろう。
そう、信じていた。