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あの場所で彼女の存在を探している①

ブーゲンビリア王国の首都にある大図書館。


薄暗くともどこか幻想的な「リコリスの書院」のエントランスを抜け、目的の書架へと足を進める。足音は磨き上げられた黒曜石の床に静かに吸い込まれていく。壁には半透明のリコリスの紋様がぼんやりと浮かび上がり、天井から吊り下げられたガラス製のリコリス型ランタンからは、柔らかくもどこか物憂げな光が降り注いでいる。


目的の書架の前に立つと、深く、それでいて温かみのあるダークウッドの香りが鼻腔をくすぐる。


背の高い書架は、まるで知識の巨壁のようにそびえ立ち、その合間には真鍮や古銅の装飾が控えめに輝いていた。僕は慣れた手つきで、一冊の書物を手に伸ばす。それは装丁こそ地味だが、触れると微かに魔力の波動を感じるような、特別な書だった。書物の背表紙には、古い言語でタイトルが記されている。


僕は書院の中心にある閲覧スペースへと向かった。そこには重厚な木製のテーブルと、深いベルベットの椅子が、規則的に並んでいる。


椅子の背もたれには、リコリスのつるが絡みつくような繊細な彫刻が施されており、座る者を優しく包み込む。


僕は誰もいない席を選び、ゆっくりと腰を下ろした。机の上には、魔法のインク壺と羽ペン、そして砂時計が置かれている。


僕は手に取った書物を机に置き、深く息を吐いた。書物が放つ古の香りと、微かに漂う花の香りが混じり合い、この「リコリスの書院」独特の静寂が僕を包み込む。


ここでの時間は、僕にとって唯一の安らぎだった。外の世界の喧騒や、僕が抱える重責から解放される、束の間の休息。


僕の指がそっとページをめくる。カサリ、という紙の擦れる音が、この広大な空間に静かに響き渡る。


しかしその静寂は、不意の僕の意識を過去へと引き戻した。脳裏に浮かんだのは、彼女の姿だった。


彼女と初めて出会った日の事だ。それは書院の静謐さとは正反対の、まさに最悪の出会いだった。


いつものようにリコリスの書院に足を運んだ僕は、いつも座っている席に先客がいた事に気がつく。窓から差し込む魔法の光に照らされた緋色の髪に目を奪われた瞬間、僕は彼女の顔を捉えた。


ヴァイオレットモルガナイト色の瞳を持ち、その整った顔立ちと見覚えのある髪の色に、僕は直ぐに彼女がカンナ・ロベリアだと理解した。


カンナ・ロベリア。その名は、僕の耳にも届いていた。世間では「我儘で傲慢」、「プライドが高く気に入らない人間には容赦がない」など、様々な悪い噂が囁かれている。


僕はそうした噂を信じてはいなかった。噂だけで人を判断するのは最低な行為だと、常に自分に言い聞かせてきたからだ。


僕は彼女から少し離れた席を選び、音を立てないように静かに腰を下ろした。


一体なぜ、あのカンナ・ロベリアがこの書院にいるのだろう? 何か調べ物でもしているのだろうか? そんな疑問が頭を過った時だった。


「えぇ~なにこれ、全然面白くないじゃない」


その言葉は、書院中に響き渡るほどの大声だった。僕の肩がぴくりと震える。静寂を重んじるこの場所で、まさかこれほど大声を出す者がいるとは。


僕は顔を上げ、じっと彼女を睨みつけた。彼女はいまだ書物を手に、不満げに眉をひそめていた。


次の瞬間、僕の視線は彼女が手にしている書物に移った。その装丁、その厚み、そしてタイトルが記された古びた背表紙――それは、僕が今まさしく読み進めているものと、まったく同じ書物(・・・・・・・・)だった。


なぜ? 偶然か? それともただの気まぐれか? 僕の中で疑問が渦巻く。しかし、その思考が直ぐに、まるで突風に吹き飛ばされるかのように消え去った。僕の脳裏に浮かんだのは、ただ一つの結論だった。


彼女は、自分を目当てにここへ来たのだ。


伯爵家の子息として、僕の容姿は常に周囲の目を引いた。新緑のように美しい翡翠色の髪に、若葉のような黄緑色の瞳。


僕とすれ違う女性は、誰もが振り返り囁き合う。これまでに言い寄られ、告白され、時には媚薬や惚れ薬入りの菓子を渡されたことさえある。そうした経験が、僕の心を固く閉ざさせていた。


「……ふざけるな」


僕の心の中で、低い声が響いた。この安らぎの場所まで、彼女は踏み込んできた。彼女もまた、自分に近づこうとする、あの下らない人間たちと同じなのか。僕の大切な時間を、静寂を、安らぎを壊しに来たのだと、僕は強く確信した。


僕は無意識のうちに、手にしていた書物をぎゅっと握りしめる。


僕はゆっくりと立ち上がると、まっすぐカンナ・ロベリアを睨みつけた。黄緑の瞳には、明確な侮蔑と怒りが宿っている。


「俺の隣で同じ本を読むのやめてもらっていいですか? あなたのような人と隣の席に居ては、あなたの『馬鹿』が俺にも伝染るかもしれませんから」


僕の声は、静かな書院に刺々しく響き渡った。彼女のヴァイオレットモルガナイト色の瞳が、わずかに見開かれる。


一瞬の沈黙、僕は彼女の返事を待つことなく、そのまま書院の出口へと向かった。怒りにまかせて歩みを進める僕の背後で、かすかに彼女が何かを呼び止める声が聞こえた気がした。しかし僕はその声を無視し、一度も振り返ることなく書院を出て、自らの屋敷へと戻った。


僕の心の中には、安らぎを乱されたことへの苛立ちと、彼女への嫌悪感だけが残っていた。



☆ ☆ ☆



翌日、僕は「さすがに今日はいないだろう」と淡い期待を抱きながら、リコリスの書院へと足を運んだ。あの静かで安らげる空間を、たかが一人の女に壊されたままにはしておきたくなかった。


書院の扉を開け、いつもの席の方へ視線を向ける、すると、窓から差し込む魔法の光に照らされ、緋色の髪が目に飛び込んできた。昨日と同じ席に、カンナ・ロベリアは座っていたのだ。彼女はやはり、難しい顔で書物を睨めっこしている。


僕の心臓がドクンと音を立てる。昨日の激昂が蘇り、全身に嫌悪感が広がる。僕は直ぐに踵を返し、書院を後にしようとした。その時だった。


「あ、あのっ!」


背後から、慌てたような彼女の声が聞こえた。僕は思わず足をとめ、ゆっくりと、体を半分だけ彼女の方へ向けた。


「……何か?」


僕の声は、書院の静寂に沈むように低く響いた。その声には、明らかに不機嫌な感情が滲んでいる。


彼女は、僕の氷のような視線に射貫かれ、手元の書物をぎゅっと握りしめ、おどおどと視線を彷徨わせた。戸惑いと、ほんの少しの怯えが映していた。


カンナ・フレア・ド・アウラ・ロベリア。その名は、単なる貴族令嬢には留まらない。彼女は僕よりも地位の高い公爵家のご令嬢だ。昨日の自分の態度は、明らかに無礼だった。ならば、彼女が僕を呼び止めた理由も明白だ。きっと、昨日の言動に対する謝罪を求めてくるのだろう。その思い込みが、僕の表情を一層硬くした。


しかし、僕の予想は裏切られた。


彼女はキュッと唇を結ぶと、深々と頭を下げた。緋色の髪がサラリと肩から流れ落ち、そのヴァイオレットモルガナイト色の瞳は床に向けられる。


「昨日は、申し訳ございませんでした」


彼女の声は、書院の静寂の中に、驚くほど素直に響き渡った。その言葉に、僕は完全に意表を突かれた。謝罪を求めてくるどころか、彼女自身が頭を下げてきたのだ。


その瞬間、僕の胸にちくりと痛みが走った。僕は常に「噂で人を判断するな」と自分に言い聞かせてきたはずだった。それなのに、僕はカンナ・ロベリアのことを、まさしくその「噂」だけで決めつけていた。彼女が自分目当てで来たのだと、高飛車な性格なのだと、何の根拠もなく思い込んでいた。


「いや……」


僕は思うわず口を開いた。謝るべきは、こちらの方だ。


「いや、謝るべきは僕の方だ。昨日、僕は君にひどい言葉を言ってしまった。本当にすまない」


僕の言葉に、彼女ははっと顔を上げた。ヴァイオレットモルガナイト色の瞳が、驚きと、それから安堵に揺れている。


「もし、その……読んでいる本で分からないところがあったら、僕でよければ教えることができる」


僕の提案に、彼女はふわりと笑顔を見せた。その笑顔は、書院の魔法の光に照らされ、花が咲くように輝いた。噂で語られるような高慢さの欠片もなく、驚くほどに可愛らしい笑顔だった。僕は、自分の固定概念がいかに馬鹿げていたのかを知り、少しだけ顔が熱くなった。


☆ ☆ ☆


それからの行く先々で、彼女は必ずと言っていいほど姿を現した。書院はもちろん、街中の市場でさえ、まるで偶然を装うかのように、彼女は僕の前に現れた。


さすがの僕でも「これはやはり自分目当てなのでは?」と思わないわけにはいかなかった。


しかし、不思議と彼女といる時間は、僕にとって嫌なものでなかった。彼女の何事にも恐れないまっすぐな好奇心と、時折見せる意外な一面に、僕は少しずつ興味を惹かれていった。


僕の静寂だった世界に、突然現れた緋色の髪の彼女は、まるで鮮やかな色彩の絵具を落としたようだった。


「君は、まるで……」


僕は静かに呟いた。僕にとって彼女は、一体なんなのだろうか。


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