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お嬢様がお友達になりたいと申したので

「それでだ、リヒト。これは一体何なのだ?」


目の前に座るユリウス様は、俺が先ほど渡した『養子候補』という名の、アザレア様に関する全ての情報が記載された報告書を片手に持ち、にこやかな笑顔で左右に揺らしていた。


一見、とても爽やかな笑みに見えるが、彼の額に薄っすらと血管が浮き出ていることから、その内なる怒りが尋常ではないことが痛いほど伝わってくる。


俺はあの後、馬車から降りた瞬間にユリウス様の手によってラナンキュラス邸へと連行された。


秘密通路を通ってユリウス様の自室へと入り、体の拘束も解かれないまま、向かい合うようにソファへ座らされ、今に至る。


ユリウス様は普段、滅多なことでは怒らない人だ。怒ったとしても、逃げられないように魔法で体を拘束し、理由を聞くためにわざわざ部屋まで招くような面倒なことはしない。


その場で注意するか怒鳴りつけるかして、気になったことはすぐにでも解決しようとする性分だ。


しかし、今回は状況が全く違うようだった。


どうやら俺が取った行動に、心底ご立腹の様子だ。だってその証拠に、怒りで終始笑顔なのだから。彼の笑顔は、怒りを隠す仮面であり、その仮面の下には尋常ではない感情が渦巻いているのが見て取れる。


「まったく……いきなりでびっくりしただろう?カトレアの前でこんな物を渡してくるなど、これではお主が本当に我らの子になりたくないと言っているものではないか」


ユリウス様はわざとらしく溜息をついた。


「あのですね……それについてはもう、随分と前からお断りの文句を言っているじゃないですか」


俺も負けじと、しかし丁寧に反論する。


「確かにそうではあるが……こうやって『養子候補』なんて名前の物を差し出されたら、誰だってそう思わざるを得ないだろう」


確かにそう思われても仕方がないことではあるが、本当に俺はお二人の養子になる気がないのだ。だからこそ、あの場でこの手段を取った。彼らの親愛の情はありがたいが、俺には俺の「主」がいる。


「まぁ、この件については我からカトレアに上手く説明するとしよう。話せばカトレアだって分かってくれる。そして問題はこの報告書に書かれていることだが」


ユリウス様は持っていた報告書を開くと、その内容を目で追っていく。彼の金の瞳が、文字を一つ一つ拾っていくのが見て取れた。


「カトレアがある少女のことを気に掛けていることは少し前から知っていたが、まさかお主も知っていたとはな。それにカトレアがその少女を養子にしたがっていることも。まさかそれもお主が独自で調べて分かったことなのか?」


質問の言葉自体は穏やかだが、その眼差しは全てを見透かすように鋭い。


「……いいえ、それについては偶然知りました。俺はある貴族が奴隷売買をしているという噂を耳にして、その貴族について色々と調べていたんです。そうしたら、奴隷の一人であるアザレアという子と、カトレア様がお会いになっている姿をお見かけしました。最初はただ単にお花を買っているだけなのかと思っていたのですが、カトレア様が何度もその子からお花を買っている姿を見て、養子についての話を思い出したんです。なので、もしかしてと思い、俺なりに彼女について調べさせてもらったんです」


本当はお嬢様に依頼されて、アザレア様について調べている時に偶然知ったことだったけれど、お嬢様から話を聞いたなんて言うと、話がややこしくなる問題が多い。


だから、あくまで偶然を装って話すことにした。何事も偶然を装った方が何かと楽なのだ。そして、何よりお嬢様の存在は、決して公にすべきではない。


「なるほどな。だからお主は我もご一緒に、と言ったわけか。カトレアが上手く話を切り出しやすくするために、わざわざこんな物まで用意しおって」


報告書の内容を目で追っていたユリウス様は、左手で指をパチンと鳴らした。


その瞬間、俺の体を拘束していた魔法がふわりと解けた。


ようやく体が自由になった俺は、手首を回しながら、凝り固まった体の調子を整える。足首を捻るたびに、小さな音が鳴った。


「とは言いましても、まさか魔法で体を拘束されて、ここへ連れて来られるとは思ってもいませんでしたけど」


皮肉めいた言葉を口にすると、ユリウス様は面白そうに笑った。


「そうでもしないと、お主はその素早い足で逃げるだろう?それでは我がロベリア邸まで行く羽目になるではないか。そんな面倒なことはしたくない」


「……本当はアース様の長々しい話を聞きたくないからではないですか?」


俺の問いに、ユリウス様は目を丸くした。


「おっ、何だお主ももうあいつの犠牲者の一人になったのか?」


「はい、もう何十回と言っていいほど聞かされましたよ。ヴァーナ様との出会いのお話や、お嬢様のお兄様方のことを」


「ふっ……あいつは何よりも家族のことを大事に思っているからな、誰かに話したくて仕方ないのだろう」


ユリウス様はそう言ってどこか嬉しそうに笑みを浮かべると、持っていた報告書を机の上にそっと置いた。その視線は、再び俺に向けられる。


「それでお主はあの子に興味でも持ったのか?」


「俺があの子に興味を持っているように見えるんですか?」


乱れた服を整えながらそう言うと、ユリウス様は意外だと言わんばかりの表情を浮かべて、額に手を当てて声をあげないようにクスクスと笑い始めた。


「まぁ、それはないだろうな。ふっ……だってお主は、自分の主にしか興味がないのだからな」


その言葉に、俺の胸の奥がチクリと痛んだ。ユリウス様は、やはり鋭すぎる。俺の感情の根幹を、ここまで見抜いているとは。


「…………っ。お嬢様に興味があるからと言って、俺はあの方の側に居るつもりではありません。興味があってもなくても、俺にとってお嬢様が『特別な人』であることに変わりありませんから」


初めて出会ったあの日、俺に今の居場所を与えてくれた方。俺に『リヒト・ルドベキア』という名を与えてくれた方。


俺を『わたくしの光だ』と言ってくれた方――記憶を失ってから、俺の『初めて』を与えてくれた方。


俺の全てはお嬢様のものだ。この身も心も、存在自体さえも、全てお嬢様のためにある。


だからこそ俺は、あの方に心からの忠誠を誓う。お嬢様が心から欲しているもの、望んでいるもの、願っているもの、その全てを俺は叶えてあげる義務があるんだ。


「一生の人生の中で、心から『この人こそが』と思う相手に出会えることはそうない。我だってカトレアと出会えたこの人生を奇跡とすら思っておる。リヒト、お主と出会えたあの日のことも、我は奇跡だと信じている。そしてお主がカンナ嬢に出会えたのも、ほんの小さな奇跡の一部にしか過ぎない。しかしだからこそ、その奇跡を絶対に手放してはならない」


ユリウス様の言葉は、俺の胸に深く響いた。


「はい、分かっています」


この名前を与えられたあの日から、お嬢様のことは必ず守ると誓った。


どんな時も必ずお側で寄り添い、彼女が心から幸せになれるその日が来るまで、彼女に必要とされているその日まで、俺はお嬢様にお仕えする。それが今の俺の使命だからだ。


俺はもう一度覚悟を決め、真っ直ぐユリウス様の顔をじっと見つめた。俺の覚悟を、そして揺るぎない思いを見届けてもらうために。その拍子に、腰から下げてある懐中時計が小さく左右に揺れた。


「ふむ、やはりそんな目を見せられては、諦めろと言われてもなかなかそうはいかないものだな」


ユリウス様は俺の視線を真正面から受け止めた後、満足げに微笑んだ。


「ま、まだ諦めないんですか? まったく……」


本当にこの人も、相当厄介な人だ。俺を養子に迎えたいという彼の執着は、並大抵のものではない。


「それで、話を戻すか。お主はカトレアのためにあの子について調べてくれていたようだが、本当は別に理由があるのだろう?」


ユリウス様の声色が、再び真剣なものへと変わる。


「……っ」


ユリウス様は『言うまで逃さないぞ』とでも言うように、指をパチンと鳴らし、部屋の全ての出入口の鍵を閉めた。


その動作は、まるで遊びのようでありながら、一切の逃げ道を許さないという強い意志を感じさせた。


その姿に、俺は深い溜息をついた。


あぁ……やっぱりこの人は色々と鋭すぎる。頭の中で浮かんだ数々の言い訳を全て捨て、素直に口にするしかなかった。


「お嬢様からのご命令ですよ。どうやら街で見かけたアザレア様に一目惚れし、お友達になりたいと思ったそうです。だから俺は彼女のことを調べていたんです」


俺がそう告げると、ユリウス様は思ってもみなかった返答が来たことに驚き、目を数回瞬かせた。


その表情は、まるで固まってしまったかのように変化に富んでいて、珍しいものを見たような気分になった。


まぁ、当然そういう反応になりますよね。普通は。




☆ ☆ ☆




「さて、ここで働かせている奴隷たちについて、洗いざらい話してもらいましょうか?」


「ひ、ひぃぃ……」


薄暗い部屋の奥。恐怖で震える貴族の喉元に、俺は冷たい銀ナイフの切っ先を当てつけながら、目を細めてそう問いかけた。


部屋の中は俺とこの男だけ。助けは誰もやってこない。だって、ここに来るまで、外で待機していた騎士たちには、しばらく「眠って」いてもらうように手配したのだから。


「い、言う! 言うからい、命だけはどうか……どうか!」


男は命乞いをすると、ボロボロと涙を流し始めた。もう既に立派な大人だというのに、子供のように泣きじゃくり、助けを求める姿は滑稽でしかない。


「まったく無様な姿で、滑稽だな――」


俺は握っていた銀ナイフを大きく振り上げた。その冷たい刃が、部屋のわずかな光を反射してきらめく。


右から左にかけて、迷いなく銀ナイフを振り切ろうとした、その瞬間――


『やめろ!!』


頭の中いっぱいに、ある男の声が響き渡った。まるで直接脳内に語りかけるような、強い、しかしどこか必死な声。


その声に引き止められるように、俺は振り切ったはずのナイフを、男の頬をかすめた寸前で止めていた。


『やめろ……そいつは殺すな! 誰も……殺すな! それは命令ではないだろう!』


「……っ」


そうだ、あの方からはそんな命令を受けていない。俺の行動は、お嬢様の望みを超えた、俺自身の独断だ。


だから、俺が今すべきことは――


俺は血の付いた銀ナイフをしまい込み、恐怖で震えている男に背を向けた。そして、振り向かずに告げる。


「──」


「ひぃ、ひぃぃぃぃ!!」


背後で男の悲鳴が聞こえる。


最後に、血色のように真っ赤な瞳を男に向けた後、俺はその場から姿を消したのだった。


まるで影が闇に溶け込むように、俺の存在は完全に掻き消えた。




☆ ☆ ☆




その後、ユリウス様は俺が渡した『養子候補』という名の、実は『奴隷売買をしているとある貴族についてと、ある少女について』の報告書を読み終えると、即座に行動を起こした。


彼は白の魔法騎士団を率いて、奴隷売買をしていたエヴァンス男爵と彼に通じる者たちを、次々と捕らえていった。



エヴァンス男爵は特に抵抗する様子もなく、素直に魔法騎士団に連行され、法によって厳しい罰が与えられた。


その事件は翌日の新聞にも大きく取り上げられ、それによってユリウス様に対する名声も大きく上がり、アザレア様もまた、ユリウス様によって無事に保護され、彼女は養子としてラナンキュラス邸へと迎え入れられることになった。


「これでようやく一歩目、といったところでしょうか?」


俺は新聞記事を目で追いながら、ゆっくりと空を見上げた。青い空に流れる雲は、まるで俺の心境を映し出すかのように、どこか遠くへと流れていく。


「ゲームの本編が始まるのは、今からおよそ四年後。残り限られた時間の中で、アザレア様のお相手となる方々を彼女から引き離す作戦を考えるのは、骨が折れるだろうな……」


しかし、時間は止まってはくれない。こうしてのんびりと空を見上げている時間ですらも、時計の針は一歩ずつ確実に進んで行っているのだ。


お嬢様が十六歳になられる年に開かれる『デビュタント』。それはお嬢様を含めたご令嬢たちが社交界にデビューするパーティーであり、同時にゲームの本編開始を意味する特大イベントでもある。


その特大イベントに向けて、色々と策を練らねばならない。


「その前にやる事が多すぎるんだよな……」


まず、お嬢様は三ヶ月後に、『ルークスフロース魔法魔術アカデミー』に入学することが決まっている。


そのアカデミーはお嬢様のお兄様方である五人も入学し、全員が首席で卒業をしている。だから、お嬢様もまたロベリア家の人間として恥じぬよう、アカデミーを首席で卒業する必要がある。いや、卒業させなければならない。


そうすれば、街で流れているお嬢様の良くない噂も、ある程度は消えることになるだろうしな。


「お嬢様の勉強を見てあげながら、普段の執事の仕事もこなしつつ、攻略キャラたちに向けた作戦も立てなければならない……のか」


俺はこの先の展開を想像して、深々と溜息をついた。


いくらゲームの本編が四年後に開始するとは言っても、その間アザレア様はどうするのだろう?


確かお嬢様が書いたあの何とか作戦では、アザレア様はお嬢様が通うアカデミーには通わず、十六歳になって初めて学校というものに通うことになる、と書かれていたな。


ということは、お嬢様がアカデミーに通っている間、アザレア様はラナンキュラス邸で教養を受けることになるのか。


まぁ、それはそうか。養子になって間もない中、突然アカデミーに放り込まれても、十分な教養が身についていなければ、公爵令嬢として恥ずかしい思いをするだけだからな。


しかし、その四年間、ゲーム本編には何一つ触れることがないのか……。


「だったらいっそ――」


俺は、ふと思いついた考えを頭の中でまとめながら、どうやってそれを実行させようかと作戦を練り始めた。


そう、これはお嬢様には内緒だ。


話してしまったら、きっと驚いて言葉が出てこないだろうからな。俺の「完璧な計画」は、まだ誰にも明かせない。

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