仕事も一段落したので帰ろうとしたら拘束されました
俺が差し出した『養子候補』と書かれた報告書を、ユリウス様は手に取り、その表紙に目を落とした。隣にいるカトレア様も、興味深そうに首を傾げている。
「リヒト……これは――」
カトレア様が何かを言いかけた瞬間、俺は彼女に悟られないよう、左の人差し指をそっと口元に添えた。ごく僅かな仕草。だが、それだけでユリウス様には伝わっただろう。
「……っ」
俺の意図を瞬時に悟ったユリウス様は、軽く養子候補の報告書に目を通す。その目は、一瞬で報告書の中身が意図するものと違うことを見抜いただろう。だが、彼は何も言わない。
ユリウス様に渡したこの報告書の内容については、今、この場で話すべきではない。これはあくまで、カトレア様から養子についての話を自発的に引き出しやすくするための、巧妙な仕掛けなのだ。
「養子……候補? もしかしてリヒト君、私たちのために調べていてくれたのですか?」
カトレア様が、期待に満ちた瞳で俺を見つめる。完璧な誤解だ。
「そ、そうですね。さ、差し出がましいとは思ったんですけど、俺もお二人には大変お世話になりましたし、養子をお迎えになるというお話をユリウス様からお聞きして、自分にも何かお役に立てないかと考えたんです。それで、俺独自に調べた養子になりえそうな子供を、数人ピックアップさせてもらったんです」
俺が淀みなくそう説明する間、ユリウス様は「何を言っているんだこいつは?」とでも言いたげに、怪訝そうな顔でこちらを見てきている。その視線に気づかないふりをして、俺は言葉を続けた。
「しかしこれはあくまでも俺が勝手に持ってきた物です。当然、この中から選ぶ権利があるわけでもありません。もしカトレア様やユリウス様の内に、既に養子にしたい方がいらっしゃると言うのであれば、それはどうぞ捨てていただいて構いません」
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ユリウス様は間髪入れずに言い放った。
「それだったら既に決まっているではないか。我が養子にしたいのはお主だ」
「はい、却下します。カトレア様はどうでしょうか?」
俺が即座に切り返すと、ユリウス様は不満そうに口を尖らせた。だが、カトレア様の反応は全く違う。
「わ、私ですか!?」
突然話を振られたカトレア様は、少し驚いたように肩を上げると、そわそわとし始めた。その頬はほんのりと赤く染まっている。
「カトレア?」
ユリウス様がカトレア様の様子に首を傾げたのと同時に、俺は確信した。
既にカトレア様がアザレア様を養子にしたいと思っているということに。ならば話は早い。彼女がラナンキュラス家の養子になるのを、ゲームの展開通りに待っているよりも、ここはもう手っ取り早く養子になってもらうことにしよう。
そうすれば、お嬢様が言っていた『アザレア様とお友達になる』という願いに、一歩近づくことができる。
「あ、あの……ユーリ。実は少し気になっている女の子がいるんです」
カトレア様が恐る恐るユリウス様に打ち明ける。
「気になっている女の子だと? それは初耳だな」
ユリウス様は驚きながらも、その話に興味を示した。
「あなたに話すのはこれが初めてですもの。その子は街でお花を売っているんですよ。とても可愛くて、優しくて、笑顔が似合う子なんです」
カトレア様は胸の前で手を組み、そっと目を閉じた。その表情は、愛おしさに満ち溢れている。
「こうして瞼を閉じれば、あの子の笑顔がすぐにでも浮かんできます。思い出す度に胸の辺りが温かくなって、自然と元気になることができます。私……ユーリ以外の人でこう思うのは初めてなんです。でもあの子は、ふとした時にとても悲しい目をしています。その目を見ると、私自身も胸が痛くなって……辛いんです。どうしたらあのお日様のような笑顔を見せてくれるのか、どうすればあの子は幸せになれるのかと、何度も考えました」
「……」
カトレア様の訥々とした、しかし心からの言葉に、俺とユリウス様は目を見開いて聞き入っていた。お嬢様からは、カトレア様がどんな思いでアザレア様を養子にしたいと思っていたのかを詳しく聞いていなかったため、その純粋な愛情に思わず驚いてしまった。
カトレア様の隣に座るユリウス様も、最初こそ愕然とした表情だったが、すぐに我に返ると、嬉しそうに微笑んでカトレア様の手をそっと取った。その眼差しには、妻への深い愛情が溢れている。
「では、これから花を買いに行くというのは、その子に会いに行くためでもあるのだな」
「ええ、そうなんです」
「だったら決まりだな。これは帰った後に、一刻も早くその子を迎え入れる準備をしなければならないな」
ユリウス様の即決に、カトレア様は戸惑ったように瞳を潤ませる。
「で、でも良いのですか? ユーリの意見も聞かず、私の気持ちだけで決めてしまっても」
カトレア様の言う通り、もう少し疑心暗鬼になったり、自分の意見を言っても良いだろうに、と俺は思う。将来、自分の跡継ぎになるかもしれないのだから。
しかし、ユリウス様はそんなことをいちいち気にする人ではない。
彼は記憶をなくし、出自の分からなかった俺を迷うことなく助けてくれた人間だ。だから、カトレア様の言う女の子がどんな子であったとしても、ユリウス様は迷うことなく受け入れるだろう。
お嬢様の言った通り、アザレア様がスラムの孤児であったとしても、彼は手を差し伸べてくれる器の持ち主だ。
「我は構わん。それに養子についてはカトレアの気持ちを優先しようと、最初から決めていたのだ。だからお主が決めた子ならば、我は何も問題ないと思っている。その子がどんな子であろうとも、我はカトレア同様にその子を心から愛そう」
「ユーリ……」
カトレア様は感動のあまり、ユリウス様の腕にすがりついた。その光景は、あまりにも純粋で、そして眩しかった。
「……」
どうしてこの人は、そんな恥ずかしい言葉をためらいもなく言えるのだろうか?
自分の思っている気持ちを素直に言葉にすることは決して悪いことではないが、今この馬車の中には、俺を含めるご夫妻の三人しかいない。お二人の熱々でラブラブなシーンを直で見せられる俺の気持ちを、誰でも良いから分かってほしいものだ。
すると、まさに絶妙なタイミングで、馬車が街に着き、ゆっくりと止まった。真っ先にそのことに気がついた俺は、従者が扉を開けるよりも早く、自分で先に扉を開けた。
「では俺はこれで失礼します」
一秒でも早くこの密室から逃れたい。
「なんだ、リヒト。もう行くのか?」
ユリウス様が不審そうに問う。
「はい。ちょっと寄るところがありますので」
「そうか、だったらまた後で会おうではないか」
「………………時間がありましたら」
俺は、精一杯の笑顔を作ってからそう告げ、文字通り逃げるように馬車から飛び出した。
馬車の窓から、カトレア様が心配そうに俺を見ていた。
「リヒト君。慌てて出て行きましたけど、大事な用事があったんですね」
隣でユトレウス様が、俺の言葉を訝しむように、そしてどこか面白そうに呟いたのが聞こえた。
「……ふっ、まぁ良いではないか。どうせまた後で会うことになるさ。これについての話もじっくりと聞きたいところだしな」
ユリウス様は手の中にある『養子候補』の報告書を見下ろすと、意味深に目を細めてニヤリと笑ったのだった。彼の金の瞳は、まるで全てを見通しているかのようだった。
☆ ☆ ☆
それから俺はユリウス様たちの様子を、なるべく離れたところで伺っていた。あまり近づきすぎると、ユリウス様に魔力を探知されて居場所がばれてしまう可能性があるからだ。
彼の魔力感知能力は、並大抵の騎士では及びもつかないほど精緻だ。
双眼鏡を片手に持ちながら、二人が花を売っている女の子に近づいていく姿をしっかりと見届けてから、俺は腰にある懐中時計を取り出して時間を確認した。計画通りだ。
「アザレア様とご夫妻の接触も確認できたことだし、俺も俺で次の仕事に行くか」
双眼鏡を服の中にしまい込み、俺は少し遠くに見える、古びた、しかし威圧感のある屋敷を目に映した。
「あそこが……次の仕事先か」
そう小さく呟いた俺は、気配を完全に消し、その場から姿を消した。
☆ ☆ ☆
「ふぅ……まったく」
乱れた執事服を整えながら、俺は件の屋敷の外門に向かって歩いていた。
頬に飛び散ったわずかな血痕をハンカチで軽く拭い、それを丁寧に畳んで服の中にしまい込む。
「あれだけ脅してやれば、もう下手な真似はできないだろうな。後はユリウス様に任せれば良い」
そう呟きながら屋敷の外へと向かって歩いていく。
ユリウス様率いる『白の魔法騎士団』たちにバレないように、痕跡も完璧に消した。
彼らがここへ到着する頃には、俺がここで何をしていたのかは、完全に闇の中に溶け込んでいることだろう。
あとは久しぶりに貰った休暇を満喫しながら、数カ月後に控えたお嬢様の『ルークスフロース魔法魔術アカデミー』への入学に備え、いくつか教科書を買って勉強を進める準備をしておこう。
「さて、お嬢様の得意な分野は確か――」
何て考えながら歩いていた時、突然足元に白い魔法陣が浮かび上がり、三本の白い光の柱が空へと力強く伸びた。
「っ?!」
俺は反射的に足を止め、魔法陣へと視線を落とす。
「これは……白魔法?!」
三本の白い光の柱は、瞬く間に一つのリングを形成すると、そのまま俺の体に合わせて凝縮してくる。おそらく俺の体を拘束するつもりなのだろう。
「こんなところで捕まってたまるか!」
白魔法が発動したということは、白の魔法騎士団は俺がここへ来る前から、あの男――奴隷売買をしていた貴族に目をつけていたことになる。
おそらく屋敷から出て来たあの男を、この場で捕らえる計画でも立てていたのかもしれない。
魔法が発動したことによって、騎士団の人たちは確実にここへ向かって来るはずだ。彼らが来る前に、早くここから逃げなければまずいことになる。
俺は真上に向かって大きくジャンプしようと、地面を強く踏み込んだ。
しかし――
「っ!」
突然、体が鉛のように重くなり、言うことをきかなくなった。いや、違う。体は頑張って動かそうと思えば動く。
これは、動かせないというよりも、重力に逆らうことができない、といった方が近かった。何者かによって体に重力の魔法をかけられ、両足で踏ん張っている地面にはひび割れが走る。
どうにかして逃げようと頭を働かせたが、白い光のリングが完成し、俺の体は完全に拘束されてしまった。
「…………はぁ」
これではもう逃げることはできないか。そう悟った俺は、軽く息をついた。
「なんだ、もう抵抗することを諦めたのか?」
目の前の真っ暗な道の先で、冷たい声が響いた。声の主は、俺に片手をかざしながら、ゆっくりとこちらへ歩いて来る。
その姿は、闇に溶け込み、まだはっきりと見えない。
「いいえ、抵抗する気はまだあります。しかし、このまま抵抗を続けても勝ち目はありませんから、仕方なく拘束されることを選びました」
俺の言葉に、声の主は暗闇の中で軽く笑った。その笑い声は、どこか諦めにも似た響きを帯びている。
そして、その姿を現した。
先程まで愛しい人に向けられていた優しい眼差しはどこかへと消え去り、真っ直ぐで冷たい金色の眼光を浮かべた人――ユリウス・ヴァイス・ド・アウラ・ラナンキュラス様が、俺が座り込んでいる少し手前で足を止めた。
「さて、リヒト。なぜ我がこんなことをしたのか?理由は分かるよな?」
そう言ってユリウス様は、片手にさっき俺が渡した『養子候補』と書かれた報告書を掲げた。それはまるで、俺の企み全てを見透かしているかのように。
「…………はい」
あぁ、やっぱりこうなるよな。
内心でそう思いながら、俺は目の前に立つユリウス様を見上げた。これから一体、何を尋問されるのだろうか。