お嬢様のために作戦実行しようと思います
馬を走らせること数時間――
太陽が傾き始めた頃、俺は目的地のラナンキュラス邸へと無事に辿り着いた。乗っていた馬からゆっくりと下り、目の前にそびえ立つ壮麗な屋敷を見上げる。
ロベリア邸が重厚な石造りで威厳を放つのに対し、ラナンキュラス邸は屋敷全体が純白の石材で統一され、その周りには、家名を冠するラナンキュラスの可憐な花々が咲き誇っていた。
白銀色に輝く大門の中央には、繊細なラナンキュラスの家紋が彫り込まれている。俺は指先でその扉をそっと奥へと押した。
重厚な音を立てて大門がゆっくりと両サイドに開ききり、俺はラナンキュラス邸の敷地へと足を踏み入れた。
しばらく道なりに沿って歩き続けると、外から見えていた屋敷の玄関が見えてきた。いつもの見慣れた光景に目を配りながら、かすかに微笑んだその時、門の前にラナンキュラス家の馬車が止まっているのが目に入った。
「馬車?」
馬車の扉には、まごうことなきラナンキュラスの家紋が輝いている。これから誰かが出かけるのだろうか? ユリウス様は、仕事の用事がない限り滅多に屋敷から出ようとしない人だ。となると、心当たりのある人物は一人――
俺はそのまま馬の手綱を引きながら、馬車に向かって歩き出した。
すると、屋敷の中から、一陣の風のように人が現れた。薄ピンク紫のドレスを身にまとい、太陽の光を受けて輝く白銀の髪を持つ人。
そして、優しく細められた薄ピンク色の瞳――カトレア・ヴァイス・ド・アウラ・ラナンキュラス様その人だった。
カトレア様は、近くにいる使用人たちと楽しそうに話をしていたが、俺の存在に気がつくと、驚いたように瞳を丸くした。
そして、ドレスの裾をふわりと持ち上げ、こちらへと駆けてきた。
その姿に、俺は思わず慌てた。
「か、カトレア様! は、走るのはおやめください!」
しかし、カトレア様が俺の言葉を聞くはずもなく、そのまますぐに駆け寄ってきたかと思うと、勢いよく俺に抱きついてきた。
「リヒト君ではありませんか! お久しぶりですね! お元気でしたか?」
「は、はい……お久しぶりです。カトレア様もお元気そうで何よりです」
抱きしめられる力が強く、上手く息ができない。
だが、カトレア様からは、甘く爽やかな香りがした。これは……ハーブの香りだろうか?とても爽やかで、それでいて全くきつくない。香るたびに気分が良くなるような、心地よい香りだ。
そういえば、カトレア様はご自身で育てた花を使って香水を調合していると、ユリウス様から聞いたことがあった。
カトレア様が作った香水は、他の貴婦人たちにも評判が良く、数年前から香水を使った事業を始められたとも聞いている。
「か、カトレア様はこれからお出かけですか?」
「ええ、そうですよ。これから街へお花を買いに行くところなんです」
「っ!」
その言葉を聞いて、俺はお嬢様の以前の話を思い出した。
アザレア様とラナンキュラスご夫妻の出会いは確か、カトレア様がアザレア様が売っていた花を買ったのがきっかけだったはずだ。
それを機にカトレア様はアザレア様のことが気になるようになり、わざわざ花を買うためだけに街へ出かけるようになったのだ。
それも、お店で売っている花ではなく、アザレア様が売っている花を買いに行くために。
これは偶然なのか? それとも、お嬢様が言っていた三人の出会いの話が、すでに始まっているのだろうか? 今日はカトレア様にアザレア様のことを尋ねようとしてここへ来たが、これは予定よりも事を早める必要がありそうだ。
「それは良いですね。今日はお天気も良いですから、ユリウス様も誘ってみたらどうでしょうか?あの方は仕事がなければ、ずっと屋敷に引きこもっていらっしゃるお人ですから」
「そうですね、それは良いかもしれませんね。しかしリヒト君は、ユーリに用事があって来たのではないですか?」
「あ〜……そうなのですが、お二人の貴重な時間を邪魔するわけにはいきません」
なんて適当な言い訳を考えていると、まるで図ったかのように、屋敷の中からユリウス様が姿を現した。
「お〜い、カトレア! ちょっと話が……って」
ユリウス様は俺の姿を見つけると、俺とカトレア様の顔を交互に見た。
そして、ムッとした表情を浮かべると、苛立ったように腕を組んだ。
「まさかお前たち、この我に内緒で二人で出かけようとしていたのか? それは許さないぞ! 断固として許さん!」
「……そんなわけないじゃないですか」
この人は何を言っているんだか……。
だが、この状況を見れば、俺とカトレア様がこれから一緒に出かけようとしているように見えるのは仕方がないか。
今まさにカトレア様は街へ出かけようとしていたところだし、俺は俺で、あまりにもタイミングよくここへやって来てしまったのだから。
ユリウス様はカトレア様と違って滅多に出かける人ではないが、カトレア様が自分以外の人間、特に令嬢を除く男と二人きりで出かけることを快く思っていない。
それは俺やアース様も例外ではなく、以前アース様がユリウス様をからかおうとして、カトレア様と二人きりで街へ出かけたことがあった。
それを知ったユリウス様は血相を変えて慌てて駆けつけてきたらしい。
しかし、アース様はユリウス様をからかおうとはしていたものの、実はヴィーナ様にプレゼントする香水の相談をしていたそうだ。
そうとは知らず、久しぶりの休日を謳歌していたユリウス様は、まんまとアース様の罠にかかってしまい、外に連れ出された挙げ句、散々振り回されたせいで休日を台無しにされたと、以前ここにやって来た時にそう話してくれた。
その話を聞いた俺は、さすがに同情した。滅多に休日を過ごすことがないユリウス様にとって、その日は貴重な一日だったはずだ。
それだというのにアース様は……。これで本当にみんなが憧れている騎士団長なのだから、人は見た目で判断してはいけないものだと改めて思う。
「違いますよ、ユーリ。リヒト君はあなたに用事があって来たそうですよ」
カトレア様が優しくフォローを入れると、ユリウス様は一転して興味津々な表情になった。
「我にか? 何だ、リヒト。遂に我らの子になると決めたのか?」
「そんな話をしに来たのではありませんよ」
「えええ!? 違うんですか?」
「違います!」
どうしてこの二人は、俺がここへ来ると必ず、『遂にうちの子になりに来たのだな』と尋ねてくるのだろう。毎回そう聞かれる度に『違います』と明確に答えているのに、なぜ伝わらないんだ?
「ま、だったら屋敷の中でゆっくり話そうではないか。ちょうど前に美味しい紅茶を手に入れてな、今日はそれを飲んで帰るといい」
「へっ……あぁ、いえ。ユリウス様はこのままカトレア様と一緒にお出かけしてください」
「ん? 我がカトレアと? 何故だ?」
いや、何故と聞かれても……お嬢様のために早くアザレア様に会ってください、なんて正直には言えないしな。
するとカトレア様は、俺の言葉に嬉しそうに笑いながら、ユリウス様の腕に自分の腕をそっと回した。
「ユーリ、たまには一緒にお出かけしませんか?今日は天気もいいですし」
「あ〜……そう、だな。カトレアがそう言うのなら、我も今日は出かけるとしよう」
この人は……本当にカトレア様には弱い人だ。だが、それはカトレア様を心から愛している証拠でもあるのだから、この光景は見ていてとても微笑ましいものだ。彼らの純粋な愛情は、俺の心に温かいものを灯す。
「おっ、そうだ! だったらリヒト、お前も我らに着いて来い」
「……はい?」
予想外の提案に、思わず間抜けな声が出てしまった。
「あら、それは良いご提案ですね! ではさっそく――」
俺はそのままカトレア様に手を引かれながら、ほとんど無理矢理馬車に乗せられてしまった。ユリウス様と三人で街に向かうことになってしまうとは、全くの想定外だ。
これはどういう展開なんだ!? いや、そんなことよりも、このままだと、アザレア様と顔を合わせることになってしまう!
それは非常にまずいと思った。
軽く顔を合わせるくらいなら、おそらく今後の作戦に大きな支障は出ないかもしれない。
だが、お嬢様がどう反応されるのか分からない。自分よりも先にアザレア様に会ったなんて知られたら、物凄く怒り狂うことが目に見えている。
いくら前世の記憶を思い出して少しは落ち着いたとはいえ、今のお嬢様が怒らないなんてことは有り得ないだろうからな。
俺は二人の様子を伺いながら、ここに来るまでに考えた作戦を頭の中で素早く振り返る。そして、意を決して――
「ユリウス様。実はお渡ししたい物があります」
「ん?なんだ改まって?」
俺の頬を一滴の汗が伝う。
これは、失敗したら今後の作戦に必ず支障をきたすものだ。だから、失敗は許されない。この作戦は必ず成功させなければならない。
お嬢様のためにも――そして、俺自身の存在意義のためにも。
俺は、準備してきた『養子候補』と書かれた報告書を取り出し、それを敢えてカトレア様にも見えるように、ユリウス様の目の前に差し出したのだった。