表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/35

休暇をいただくために手合わせすることになりました

漆黒の執事服に身を包み、白い手袋をゆっくりとはめる。朝の光が差し込む部屋で、俺は出かけるための最終確認をしていた。普段と変わらないこの装いが、俺の日常であり、唯一の武装だ。


鏡の前に立ち、黒と紫のグラデーションが施されたループタイを締め上げる。留め具の中央で鈍く輝くエメラルドの位置を整え、下げていた顔を上げて、真っ直ぐに自分の瞳を見つめた。


鏡には、いつもの冷徹な自分が映し出されている。こうして執事服を身にまとった自分の姿を見るのは、あの日からの、欠かすことのできない日課になっていた。


初めて執事服を着た八年前、それは今の体に少しばかり大きすぎた。自分の背丈に合ったものが届くまで時間がかかると言われ、しばらくぶかぶかの服を着ていたが、今ではもうそんな姿はどこにもない。完璧に仕立てられた生地は、俺の体に吸い付くように馴染んでいる。


指先で軽く前髪を払い上げ、踵を返してベッドの上に丁寧に置かれた黒のジャケットを羽織った。机の引き出しを静かに引くと、中から取り出した懐中時計を落とさないよう、腰に仕込む。


次に、部屋の一角に鎮座する本棚へと移動した。その中から、ごく普通の装丁に見える真っ黒な本を取り出し、施錠を解除する。固く閉じられていた本の蓋がゆっくりと開かれると、そこには銀色の光を放つ銀ナイフが五本、整然と並べられていた。


俺はその内の三本を手に取り、専用のケースにしまい込む。右胸の内ポケットにケースをしまい込み、本棚に本を戻してから、静かに部屋を後にした。


いつもならこのままお嬢様を起こしに直行するところだが、今日はいつもと違う日課がある。


長い廊下を、革靴の音も立てずに歩いていく。目指すはアース様の部屋――のはずだった。しかし、ふと窓の外に目をやると、一際目を引く人影が目に映った。


「ん?」


その人物は、まだ薄暗い早朝から外に出て、剣の鍛錬に励んでいた。その姿を捉えた瞬間、俺は行き先を変更することにした。




☆ ☆ ☆


庭に出ると、冷えた空気が肌を刺す。しかし、アース様の周りだけは熱気を帯びているようだった。


「おはようございます、アース様。また朝早くから剣の鍛錬ですか?」


俺の声に、アース様は振り向き、剣の動きを止めた。


「おっ、何だリヒトじゃないか。お前も相変わらず朝早いな」


額に汗を浮かべながらも、その顔には充実感が満ちている。


「これは俺の日課ですから」


「だったら奇遇だな。俺のこれも日課だ」


アース様は再び剣の素振りを始めた。その一振り一振りに、重みと精巧さが込められている。


ロベリア家は代々王家に仕える騎士の家系だ。


その家系に生まれたアース様もまた、騎士団長として騎士たちの先頭に立つお方。アース様の存在は誰もがあこがれるものであり、騎士のほとんどが目指すべき人として目標を掲げている。


普段はヘラヘラと笑い、騎士団長の威厳を感じさせない人物だが、アース様は他の誰よりも努力家だ。


人知れず、誰にも見られていないところで必死に努力し、剣の腕を磨いて今の地位に辿り着いた。ユリウス様はもちろん、その姿を一番傍で支えているのがヴァーナ様だ。


ヴァーナ様はそれを決して表に出そうとはしないが、今でもアース様のことを静かに見守っている。ほら、今も部屋の窓からこちらをじっと見下ろしている。俺はそれに気が付かないふりをして、再びアース様に声をかけた。


「アース様、少々お時間よろしいでしょうか?」


「おっ、なんだ? まさか休暇でもほしいのか?」


アース様は額の汗を手の甲で拭いながら、興味深そうに眉を上げた。


「はい、休暇が今すぐ欲しいです。お嬢様のことは既に別の者にお願いしてあります。あとはアース様から許可を頂ければ、今から数日間ロベリア邸から離れます」


俺の言葉に、アース様は深く深呼吸を一つすると、振っていた剣を地面へと突き刺した。呼吸を整えながら、真剣な眼差しで俺を見据える。


「良いぞ、休暇でもなんでもくれてやる。ただ心配だけはさせるなよ? これは命令だからな」


「はい、承知しております」


「なら、よし!じゃあ、リヒト。行く前に俺の手合わせに付き合え」


アース様の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。分かっていたことだ。


「…………もちろん拒否権は――」


「あぁ、ないぞ! もし今ここで断ったら休暇の件はなしだ」


そう言って、子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべているアース様に、俺は呆れながらも深い溜息をついた。出かける前に汗をかくのは気が進まないが、断れば休暇は泡と消える。


「出かける前に汗をかきたくないのですが……」


そう言いながらも、アース様の前に立って構える。手には何も持たない。


「ふっ、相変わらず剣は持たないのか?」


アース様は楽しげに言う。


「そう、ですね。残念ながら俺には剣の才能がありません。それに剣を振るうよりも、こうして小さな凶器の扱いの方が、自分には向いていますから――」


俺は一本の銀ナイフを取り出すと、迷わずそれをアース様の顔面目掛けて放った。狙いは正確無比。


アース様はニヤリと笑い、地面に突き刺していた剣を抜くと、その切っ先で銀ナイフを完璧に弾き返した。


もちろん、これは想定内だった。


ナイフが弾かれたその一瞬の隙に、俺は気配を完全に消し、アース様の背後に音もなく迫った。銀ナイフを右手で逆手に握りしめ、容赦なく心臓を一突きにしようと、ナイフの切っ先を突き出す。


「おいおい、殺気がだだ漏れだぞ?」


「っ!」


背後からの殺気を察知したアース様は、チラッと横目で俺の姿を捉えると、そのまま前へと倒れ込んだ。


「っ!」


なぜ地面に倒れ込むんだ? まさか、この体勢からかわすつもりなのか? 俺は内心で疑問に思ったが、その動きは俺の予測を遥かに超えていた。


アース様は地面に片手をつくと、その体勢のまま片足を使って、突き出された銀ナイフの切っ先を蹴り飛ばした。


「しまっ!」


アース様の動きがスローモーションのように見える。しかし、まだ負けが決まったわけではない! 俺はすぐに懐からもう一本の銀ナイフを取り出し、アース様に向かって勢いよく放った。




☆ ☆ ☆


「お〜し! 今回も俺の勝ちだな!」


「はぁ……はぁ……そう、ですね」


俺は額に浮かんだ汗をハンカチで拭ってから、乱れた執事服を整えた。息が切れ、肺が痛む。俺がアース様に敵うはずがないと知りながらも、この人はこうしてたまに勝負を挑んでくる。


もちろん、俺が勝ったことは一度もない。現役の騎士団長に、一介の執事が敵うはずがないだろう。ましてや、俺の戦闘スタイルは剣とは根本的に異なる。


「今度は俺じゃなくて、ウラノス様やイクシオン様たちと手合わせしたらどうですか?」


「いや〜……そうしたいのは山々だが、あいつら今家にいないだろう? 上の長男次男なんてもっと家に帰って来ないしな。ヘリオスは今年に入って騎士団に入団したばかりだから仕方ないが、レインの奴は……。たく、誰に似たんだかな〜」


お嬢様のお兄様方は今この屋敷には住んでいない。ウラノス様、シヴァ様、イクシオン様はそれぞれ学園の寮で生活を送っているため、帰って来るのはいつも長期休みの時か、年の暮れあたりだ。


特にイクシオン様は、今年から第一王子の護衛騎士に就任したばかりで、滅多に屋敷には戻らない。


そしてヘリオス様とレイン様は、三人とは違ってもっとこの屋敷には帰って来ない。


そのせいで、俺は未だにレイン様にお会いしたことがない。去年の長期休みの時にヘリオス様だけがお一人でこのロベリア邸に戻って来たが、レイン様だけは帰って来ることはなかった。


写真でレイン様の顔は知っているが、どんな人なのかはほとんど知らない。


お嬢様曰く、顔はヴァーナ様似で美青年であるらしいが、口数が少なく何を考えているのか分からないと言っていた。逆にヘリオス様は太陽のように明るく、とてもお優しい方だ。


双子なのにどうしてこうも真逆なのかと考えたことがあるが、未だにその謎は解明出来ていない。


「レインの奴は今度個人で休暇取らせるか……。いやでも、あいつと手合わせすると必ず負けそうになるからなぁ〜。でも顔を出さないのは駄目だ。今度必ずヘリオスと一緒に帰って来させるか」


さっきから一人でぶつぶつと何かを言っているアース様に向かって、俺は深々と頭を下げた。これ以上付き合うのは時間の無駄だ。


「では、アース様。数日間休暇を頂きます。その間、お嬢様の事、何卒よろしくお願い致します」


「お、おう、分かった。お前も気をつけろな」


アース様の背に、軽く礼を一つ。


それからロベリア邸を出た俺は、馬に跨がり、ラナンキュラス邸目指して馬を走らせたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ