第72話~折れた戒紅灼、唸る火走《燈vs狼厳》~
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戒紅灼が2つに折れて宙を舞った。
燈は自分の目を疑ったがそれは紛れもない事実だった。
カラカラと音を立てて戒紅灼の残骸は地面に落ちた。
「てこの原理だ。俺様のこの手甲鉤『断刀爪』は特別製でな、刀を折る為に作られている。俺様の指の動きに応じてこの爪の1本1本の幅や長さを調節出来るようになっている。だから刀身を挟んで手首を捻るだけで刀は折れるというわけだ。戒紅灼といえど、素材は一般的な剣と違いはないからな」
狼厳はガハハと下品な大笑いをした。
「てめぇ……よくもあたしの戒紅灼を」
燈は頭に血が上り、歯を剥き出しにして狼厳を睨んだ。
「お前のじゃない。元々戒紅灼は青幻様のものだ。まぁ、今俺様がへし折ってしまったがな。後で直してから青幻様にお返ししよう」
燈は首を固定している手甲鉤の爪を背後の木の幹から引き抜こうと爪の峰の部分を掴み引いた。だがまるでビクともせず狼厳はもう一方の手甲鉤を燈の顔の前に向けた。
「無駄だ。お前はもう逃げられない。今からゆっくりと顔の皮でも剥いで殺してやろう。知ってるか? 戒紅灼を持つ者の寿命は短くなるんだぜ? その剣の力に溺れてな!」
「やめなさい!! 狼厳!!」
燈の眉間に爪が迫った時、奈南の声でそれはピタリと止まった。
「こちらはいつでもこの餓鬼を殺せる状況なんだぞ? 何故お前の言う事を聞く必要がある? 後で相手してやるからそこで大人しく見ていろ」
狼厳は奈南の言葉を無視してまた燈の眉間に爪を近付けた。
燈は腰の火走を右手で握った。
しかし、その腕を狼厳は脚で木の幹に押さえ付けた。
「そうだ、お前はもう1本刀を持っていたんだよな。忘れてたぜ。そいつをへし折ってからお前を殺さないとな」
残念ながら狼厳は火走の存在を忘れてはいなかった。燈は火走を抜けないまま狼厳は何度も燈の右腕を木に打ち付けるように蹴った。
「こ、この野郎! 友達から託された戒紅灼をへし折ってくれたツケは高くつくぜ」
「減らず口を。元より所有者は青幻様だと言っているだろうが。そう言えばさっき無線で李超がやられたと言ってたな? 他の奴らも皆やられたらしいが、俺様をあいつらと一緒だと思うなよ? 何たって俺様は断刀斎・狼厳様なんだからな!」
狼厳は燈の頭に頭突きを食らわせた。
額から血が滲んだ感覚がある。
こんな奴に手も足も出せずに詩歩から貰った戒紅灼をへし折られて無惨に負けるのか。燈は初めてそんな事を考えた。思えばいつも強がっている癖に今まで強敵を1人の力で倒した事はなかった。いつも誰かに助けられてばかり。本当に序列7位の力があるだろうか。
「忠告は1度しかしないわよ、私は」
燈の考えを払拭するかのような冷静で良く通る声が聴こえた。
「うるせーな、大人しくしてないとこいつの顔の皮を」
狼厳が奈南の方を向いた時には既に燈の顔に突き付けていた狼厳の左腕の手甲鉤に奈南の長く伸ばした鉄鞭が巻き付いていた。
「な、何だこれは!?」
左手に気を取られた時、今度は狼厳の首に奈南のもう一方の伸ばされた鉄鞭が巻き付いていた。
「さあ、こっちにいらっしゃい」
奈南は狼厳の左腕と首に鉄鞭の先端を巻き付けたまま、馬で狼厳の身体を引っ張り始めた。
「ぐあっ!!」
狼厳の身体が燈から離れると首を固定していた爪も木から抜け、燈はようやく解放された。
「燈さんにも言ったのよ? 忠告は1度しかしない。言ったでしょ? 狼厳を甘く見るなって。油断しなければ燈さんならこの男に負ける筈ないわ」
奈南は狼厳を馬で引き摺り回しながら言った。
「奈南さん……あたし」
燈は砕けて地面に落ちた戒紅灼に目をやった。剣士としての魂、刀が目の前で折られる屈辱。それと同じくらいに戒紅灼をくれた詩歩への申し訳なさがふつふつと湧いてきた。
「このアマ! いつまでもこの俺様を引き摺り回しやがって! いい加減にしろ!」
狼厳が右手の手甲鉤で左腕と首に巻き付いた鉄鞭を切断した。
狼厳は地面を泥だらけになりながら転がり体勢を立て直した。
「あら、まさか私の鉄鞭が切られるとは思わなかったわ。その爪、切れ味も相当なのね。これで私の刀も折られてしまった事になるのかしら」
奈南はあまり動じた様子を見せず両手を軽く振り、鉄鞭を元の長さに戻した。ただし、先端の部分はもうそこにはない。
「この俺様に恥をかかせた事、後悔させてやる」
狼厳が奈南に標的を切り替えて構えた。
「おい! 断刀斎! 後悔するのはお前だぜ!」
燈の言葉に怒りで目を血走らせた狼厳がギロりとこちらを睨んだ。
「後悔だと? この俺様が後悔だと!? 馬鹿が! 俺様は後悔するような事は1つもしていない!」
「自分の失態も分からないとはな、お前頭は悪いんだな! ばーか!」
「この餓鬼……態度が悪過ぎるな。なら汚い言葉ばかり吐くその口にこの断刀爪をねじ込んでやろう」
狼厳は燈の挑発にまんまと乗り、標的を再び燈に戻した。
奈南は馬に乗ったまま燈と狼厳を黙って見ていた。
「行くぞ! 断刀斎! あたしが戒紅灼があるのに火走をずっと持ってる理由、教えてやるよ!」
燈は気持ちを完全に切り替え火走を腰から抜き、両手で握り狼厳に突っ込んだ。
「そんな事に興味はない! 刀が弱くなったお前に勝ち目はない!!」
狼厳は燈が間合いに入った瞬間に両手の手甲鉤を振った。しかし、燈は狼厳が振り終わる前に既に狼厳の背後を取り火走を振った。
「速い!?」
ギリギリ燈の攻撃は爪で防がれたが、またすぐに狼厳の視界から消え背後を取った。
「良く防いだな! だが、まだまだ速くなるぜ〜!」
燈は狼厳の身体の周りを翻弄しながら回り続け、狼厳が闇雲に振り回す爪を弾きながら着実に狼厳の身体に火走を振っていった。
「お前の顔の傷、あたしが増やしてやろうか?」
「ぬかせ!!」
狼厳が右手を突き出したがそれは燈の残像を貫いただけで実体を捉えられず、僅かに隙を作った。
その隙を見逃す筈もなく、燈は狼厳の顔に火走を振った。
「ぬあっ!?」
狼厳の顔を確実に斬り裂いた。真っ赤な血が溢れ、流石の狼厳も顔を両手で覆った。
「お前が後悔する事は、あたしを自由にしちまった事だ。お前の首はこの火箸燈が貰い受ける!」
最早爪を振り回すだけの狼厳を燈は油断する事なくそのスピードで追い詰める。燈の赤いエナメル質のコートが狼厳を囲むように激しくたなびいていた。
「燈さんの赤いコートが揺れ動く度に、まるで火が走り回っているように見える。それが、元は名前のなかった燈さんの愛刀・火走の名の由来。あの刀の軽さじゃないと、燈さんの小回りとスピードは活かせない。久しぶりに見たわ。この光景」
奈南は戒紅灼を手にする前の燈のその姿を思い出して思わず呟いていた。
「そろそろ苦しいだろ? 楽にしてやるよ!」
燈は一旦狼厳から距離を取って火走を鞘に納めた。
既に狼厳は身体中斬られ、片膝を突いた。
「は、速すぎて……捉えられない……」
狼厳は顔を抑え荒い呼吸をしていた。
「トドメにはやっぱこれかな。動くなよ、一瞬だ」
燈は腰を低く構え、右手を腰の火走に添えた。
狼厳は最後の力を振り絞り、燈目掛けて突っ込んで来た。
「榊樹流・居合・赤霧!!」
燈は掛け声と共に突っ込んで来た狼厳と交差。燈が火走を振ったのは一瞬。それは離れた場所から見ていた奈南の目にも見えなかっただろう。火走を鞘から抜いたのさえ見えなかった筈だ。もう鞘に戻っているのだ。燈の居合抜きは学園最速。そのスピードは最軽量の火走だからこそ生み出せるスピードなのだ。神技・神速を持つ響音の速さで2年前までは霞んでしまっていたが、今は燈が学園最速という事になる。
背後では狼厳の倒れた音が聴こえた。
狼厳の身体からは血が噴き出していた。
「ほらね、油断せず、あなたの持ち味を発揮すればこんな男に負ける筈ないのよ。燈さん」
奈南は馬を下りて燈に近付いて来た。
「ありがとうございます。助かりました。あたし、いつも調子乗っちまうからな……。そんで結局誰かに助けてもらって何とか敵を倒して来た。正直、今回ばかりはあたし弱いのかなとか思ったけど」
燈はそこまで言うと一呼吸開けて奈南の目を見た。
「奈南さんの冷静さのお陰で気付かされたよ。あたしの本来の戦い方。しばらく忘れてたな」
燈はそう言うと折れた戒紅灼の下へ行き膝を突き残骸を拾った。
「戒紅灼があったから戦い方を忘れていた、なんて思ってない?」
「え?」
燈は奈南の言葉に振り返った。
「確かに、そうかもしれない。戒紅灼の剣としての強さは破格。並の相手なら剣術なんていらない程の力がある。だから本来の自分の剣術を忘れてしまう。でもね、そのお陰であなたは改めて自分の剣術と向き合う機会を得たのよ」
「そうか……確かにそうだな」
燈は戒紅灼の折れた刃を眺めた。
「今度は戒紅灼で赤霧が使えるかもね」
奈南は燈の肩を優しく叩くとニコリと微笑んだ。
「直る……かな? これ。詩歩に申し訳ない」
「人が作ったものでしょ? 大丈夫よ。リリアさんに良い刀鍛冶を紹介してもらいましょ?」
「おお! そうだな! 刀馬鹿のリリアさんに!」
奈南が笑うと、燈も声を出して笑った。
戒紅灼を持つ者の寿命は短くなる。狼厳はそう言っていたがこうして火箸燈は生き延びた。いや、以前の火箸燈は死んで今は自分の本当の戦い方を思い出した新しい火箸燈が生まれたのかもしれない。
燈はそんな事を考えながら狼厳撃破の報告を無線で共有した。