第49話~見えない女~
見えない敵。気配はある。声も聴こえる。
しかし、視界に捉えられない敵と戦うなど勿論初めての事だ。どう戦えばいいのか、まるで分からない。
響音は柳葉刀を左手で構えた。
額からは頭を打ったダメージによる血が滴り、久々の強敵に対する冷汗が流れ額から頬にかけて混じりあっていた。
視線を左右に動かし警戒する。
姿が見えずとも、動けば何かしら物音がする筈だ。聴こえるのは部屋の隅の机の下に隠れているさと婆の呼吸音だけ。
響音はさらに耳を研ぎ澄ました。
その時、空気が動くのを感じた。
──来る……!!──
だが、そう感じた時には遅過ぎた。
響音は刀を握る左手を取られ、そのまま前方に引かれ大きな作業台の上に顔面を叩き付けられた。
響音の鼻から流れる血が既に乾いた血がこびり付いた作業台を生々しい赤に染めた。鼻が折られたようで口でしか呼吸が出来ず、響音は荒い呼吸を繰り返した。
すると間髪入れずに響音の身体は宙に浮き、その悍ましい作業台に背中から叩き付けられた。
「見えないものを無理に見切ろうとしても無駄! 過去にもそうやって私の攻撃の瞬間を見切ろうとする馬鹿共と戦って来たんだから。って言っても、誰1人として私に攻撃を当てられた奴はいなかったけどねー」
響音は天井を睨んだ。目の前にいる筈の馬香蘭はやはり視界には映らず、ただ声だけが正面から聴こえてくる。
すると、部屋の中に数人が入って来た気配がした。身体の上には恐らく馬香蘭が馬乗りになっており、首と刀を持つ左腕を押さえ付けられているので何者が来たのか確認する事も出来ない。
「遅いよー、奥の机の下にお婆さん隠れてるから連れて行ってー」
馬香蘭が部屋に入って来た者達に命令すると、その者達はさらに部屋の奥に入って来てさと婆の隠れている机のもとへ近づいて行った。丁度響音の押さえ付けられている作業台の横を通ったのでその者達が先程の役人の5人だという事が分かった。
「さと婆に触るな! さと婆をどうする気だ!」
響音は目に見えない馬香蘭ではなく、その役人の男達に怒鳴った。
しかし、男達は響音の怒声を無視してそのままさと婆を見付け、抵抗するか弱い老婆の細い腕を乱暴に引っ張り机の下から引きずり出した。
「そのお婆さんは、青幻様に逆らった罰として、見せしめの為に開徳府の広場に磔刑にするんだよ!」
馬香蘭は楽しそうに答えた。
響音は馬乗りになる馬香蘭を振り払おうと身体に力を入れるが、信じられない程の怪力に響音の力でもビクともしない。
そうこうしてる内に抵抗を続けるさと婆はまた口を布で塞がれ、更に頭には麻袋を被されて男達によって部屋から連れ出されてしまった。
「ふふふふ、2人っ切りだね! 響音ちゃん! 何して遊ぼっか? 丁度ここに沢山おもちゃがあるんだけど……痛いのがいい? 気持ちいいのがいい?」
馬香蘭は言いながら響音の左手の柳葉刀を奪い取り床に突き刺し、近くにあった錆びた手錠で左手首と両足首を作業台の縁にある手すりの様な部分に固定すると、ゆっくりとその姿が僅かな蝋燭の灯りで薄暗闇に浮かび上がらせた。
「あたしの動きを封じてからじゃないと姿を見せられないなんてとんだ腰抜けね。何でもいいけど、さと婆に手出したら殺すから」
響音はようやく姿を現した馬香蘭を睨み付けた。
「うーむ。響音ちゃんの苦痛に歪む顔や悲鳴も聴きたいし……快楽に溺れる顔も喘ぎ声も聴きたい……まあ時間もある事だし、どっちもやろうね! まずは……」
馬香蘭は響音の言葉も威嚇も無視して響音の身体の上から下りると、背を向けて近くの棚を調べ始めた。
──今しかない──
響音は渾身の力を左手と両脚に込めた。すると奇跡的に左手を固定していた方の手錠の鎖が千切れたので、すかさず床に刺さっている柳葉刀を取り、馬香蘭の隙だらけの背中に突き出した。
ガシャンと棚のガラスを突き刺す音だけが響いた。肉を貫いた手応えはない。刺す瞬間に馬香蘭は消えていた。
まさか消える事で実体も消せるとでも言うのだろうか。
「なーんて馬鹿力なのかなー。せっかく楽しもうと思ったのにぃー」
また馬香蘭の声が聴こえた。声は響音が突き刺した棚とは反対側から聴こえた気がした。
響音は柳葉刀を棚から引き抜き、両脚の手錠の鎖を叩き切るとすぐに立ち上がり声のした方を斬る。しかし、やはり手応えはなく、馬香蘭の不気味な気配だけが部屋の中を動き回っている。
「あんたさ、姿だけじゃなく気配も消せるんでしょ? 本当は初めからこの部屋に隠れていたんでしょ?」
響音は刀を構えながらどこにいるか分からない馬香蘭に言った。
「まあねー。響音ちゃんは絶対お婆さんを助けに来ると思ってたから、私は部下がお婆さんを連れて来た時に一緒にこの部屋に入って待ってたのよ。部下には私が後から来るような芝居をしなさいって言ってね。そしたらまんまと響音ちゃんが罠に引っ掛かってくれたってわけ」
「嵌められたのね。あたしは。それにしても、あんた気配消せるなら何でさっきから気配消して襲って来ないの? あと響音ちゃんて呼ぶな」
「ふふ、さすがに動く時は気配消せないよ。私が気配を消せるのは止まっている時だけ。まぁもっとも、姿も見えない状態なのに気配まで消せちゃったら響音ちゃんに勝機がなさすぎて可哀想だしね。ハンデよハンデ」
「ああ、マジであんた殺したいわ」
響音は今の会話のやり取りでまた大体の馬香蘭の位置を掴んだ。そこから気配は移動していない。なるべくそちらへ視線をやらないようにして一気に飛び掛かり刀を振った。
しかし、また刀は空を裂き近くの拷問器具のしまわれている棚を叩き斬っただけだったが、響音は続けて後方に弧を描くように蹴りを放つ。だがそれさえも馬香蘭を捉えられず、響音が舌打ちをした時には両手で頭を掴まれ、身体が宙に浮き、脚が天井に伸びて視界は後方に一回転。そして板張りの床へと顔面から叩き付けられた。
「く……っそ」
猛烈な痛みが全身を駆け巡る。
この狭い部屋では得意の神速を十分に活かしきれない。この部屋に誘い込んだのも神速を十分に使わせない為だろう。
もう響音は立ち上がる事が出来ず、投げられた姿勢のまま仄暗い床に左頬を付けていた。鼻や口からは血が流れている。
早くこの女を倒さないとさと婆が危ない。あの時、月希を守れなかった時と同じようにまた大切な人を守れないのか……
その時、今度は響音の右側頭部を踏み付けられたような痛みが襲った。
「もう暴れない? 暴れないなら痛いのはやめてあげるよ、響音ちゃん」
目の前に足元から徐々に馬香蘭の姿がまた映し出されていく。
その様子を響音は目だけ動かして見た。もう身体に力が入らない。この女の攻撃は全て素手だったが、上手く地形を利用した攻撃をしてくるので1発1発が重く思いの外ダメージが大きい。
「響音ちゃんて……呼ぶな」
「私ねー、本当は響音ちゃんの事殺したくないんだー」
馬香蘭はまた響音の言葉を無視して話し始めた。
「響音ちゃんてさ、可愛くてカッコよくて強くて優しくて、まさに完璧超人じゃん? 憧れちゃうよねー。おっぱいは小さいけど」
「余計なお世話だ……。憧れてんならさっさとその足……どかせよ」
「でも仕方ないの。お仕事だから。ほんと不本意だわー、残念〜」
馬香蘭は相変わらず響音の話を聞かずに響音の横顔を踏み付けている足をグリグリと動かした。
「ねぇ知ってるかな? 視覚は人間の得る情報量の約9割を占めているんだよ。それなのに、見えない敵に他の感覚だけで立ち向かえると思ってるの? 無理だよね? つまりね、何が言いたいか分かるー? 私の『神技・神透』は神技の中でもかなり上位の力なの。響音ちゃんの神速じゃ私の神透には勝てない。絶対に」
馬香蘭はふふっと笑うとグリグリと踏み躙っていた足を突然響音の脇腹に叩き込んだ。
鈍い音と共に響音は呻き声を上げ床を転がりながら椅子等を倒し壁際まで吹き飛ばされた。
「あーあ、もっと強いと思ったんだけどなー。昔、牙牛さんと阿顔さんを殺したって言ってたから期待してたのにー。もしかして私が強過ぎるのかな? だったら青幻様、もっと序列上げてくれてもいいと思うなー。はははー!」
馬香蘭が何か言っている。
しかし、響音の意識は朦朧としていた。
身体が動かない。呼吸が苦しい。
暗闇で馬香蘭は満足そうに笑みを浮かべている。
腹の立つ顔だ。響音は徐々に近付いて来る馬香蘭を鼻で笑ってやった。
すると馬香蘭は響音の前でしゃがみ込み響音の顔をまじまじと覗き込んできた。
「あーれー? まだ笑ってられる余裕があるんだー! あー、やっぱりその八重歯、可愛いなー。よし! 記念に貰っとくね!」
そう言うと馬香蘭は近くに落ちていたペンチを拾い、響音の口を左手でこじ開け右上の八重歯をグッと挟んだ。
「わー、どうしようゾクゾクして濡れてきちゃった〜。えへへ」
馬香蘭は満面の笑みを浮かべ顔を紅潮させ太ももをモジモジとさせた。
気持ち悪い。不甲斐ない。こんなサイコパスな女に勝てないなんて……
響音が馬香蘭の強引な抜歯に覚悟を決めたその時だった。
突然響音の倒れている側の壁を刃物で2度斬る音が聴こえた。
馬香蘭は異変を感じすぐに透明化して姿を消した。
それと同時に切込みが入った壁を何者かがぶち破り部屋の中に飛び込むと響音の頭の上に着地し、なんの躊躇いもなく透明になった馬香蘭に蹴りを放った。
しかもその蹴りは確実に馬香蘭を捉えたようで人を蹴った打音と人が転がる音が薄暗い部屋に響いた。
透明化していた馬香蘭は蹴り飛ばされるとまた元の姿を現した。
「……嘘……この私が、蹴られた!? 何で!? 何で見えるのよ!? あんた、一体何者!?」
馬香蘭が動揺して壁を破り自分を蹴飛ばした侵入者に問うと、侵入者は懐かしくも忌々しい声で言った。
「やーっと見付けたわ響音さん! 捜したわよー」
響音がふらつきながらゆっくりと上体を起こし声の主に目をやると、そこには2本の刀を持ち、不気味な紋様の浮かび上がった青い眼をした女、畦地まりかがニッコリと微笑み立っていた。




