第131話~”マフユ”と呼んだ?~
王華鉄が乗ろうとしていた手漕ぎの小さなボートのような舟、通称『走舸』を奪う事に成功した斑鳩爽は夜明けの海を、澄川カンナと後醍院茉里が乗せられている全長15m程の小型船『露橈』を追いながら進んでいた。
「斑鳩さん。眠かったら寝てていいですよ。私が1人で漕ぎますから」
背後で嬉しそうに笑みを浮かべている蒼い髪の女、水無瀬蒼衣は、斑鳩が舟を奪っていざ漕ぎ出そうとした時に飛び乗って来た。舟を出した後だった為降ろすに降ろせず、仕方なく連れて来たのだ。
「眠くはない。俺よりも、お前が寝た方がいいんじゃないのか? 水無瀬」
「ううん。斑鳩さんが頑張ってる時に私だけ眠るなんて出来ません。私、斑鳩さんの為なら何だってしますから何でも命令してください」
「そうか。なら命令する。とにかく漕いでくれ。そして、疲れたら休んでくれ」
「了解しました」
蒼衣の機嫌は頗る良さそうだ。斑鳩と2人きりのこの状況が嬉しいのだろう。だが、この舟を漕いでいる目的はあくまでも澄川カンナと後醍院茉里を救い出す為。蒼衣はそれを第一に考えていない。ただ斑鳩と一緒にいたい。それだけでついて来たのだろう。それでも、斑鳩の言う事なら忠実に従ってくれるのだから、今は力を借りる以外にない。
「水無瀬、分かっているとは思うが、俺は澄川と後醍院を助ける為に柚木師範を追っている」
「はい」
「この舟に乗ったって事は、手を貸してくれるって事だよな?」
「もちろんです。だからこうして一緒に漕いでいるんじゃないですかー」
「ああ。そうだな。助かるよ」
「でも、私の事助けてくれるって言ったのに、早速置いてけぼりにされたのはちょっと怒ってますよ?」
「仕方なかったんだ。一刻も早く澄川達の船を追わないと手遅れになるところだったんだ。それに、お前の事は水本に任せた。あの場所には斉宮もいた」
「だから大丈夫だとでも? 斑鳩さん。私、斉宮さんとは一緒にいられません。あの人、私の事裏切り者だと思ってるし、絶対2人きりになったら殺されます」
蒼衣の声色に怒気が混ざるのを感じた。だが、斑鳩は構わず前を向いたまま両手でオールを漕ぎ続けた。
「程突に澄川が連れ去られた時も、お前は斉宮を怖がっていたな」
「あぁ……そうでしたね。あの時も斑鳩さんと2人きりでした」
「そうだな。あの時、最終的に斉宮との確執はなくなったんじゃないのか? 今回斉宮を怒らせたのは俺だ。あいつは俺に怒ってた。俺が裸のお前を抱き起こしてそのまま傍を離れなかったから……」
不覚にも、あの時の生々しい蒼衣の身体が脳裏をよぎり、斑鳩は目を閉じて頭を横に振った。
「斑鳩さんは男の子なんです。私の身体に興奮しちゃうのは仕方のない事ですよ。それを理解出来ないあのバカ女はやっぱり性格が悪いです」
「斉宮を悪く言うのはやめろ。あいつは何も悪くない」
蒼衣の言動が度々癇に障る。その性格の悪さのせいでどうしても蒼衣を好きになれない。蒼衣を落ち着かせようと、つかさの怒りの原因を自分だけという風に言ったが、実際のところ、つかさは蒼衣にも怒りを向けていた。蒼衣の行動が、またもやカンナを危険な目に遭わたとなったらつかさの怒りも当然である。だが、今それを蒼衣に話すべきではないと思った。蒼衣の機嫌を損ねてカンナ達の追跡に支障をきたすのは不味い。今は蒼衣を宥めるのが得策だ。
正面の朝日が段々に高く昇り、斑鳩は目を細めた。
「斑鳩さんはほんと、女の子に等しく優しいですよね。つまんない」
「平等の何が悪い」
「澄川さんには特別優しく接してるんですか?」
「もうそういう話はやめないか? 追跡に集中したい」
蒼衣と話している間にどんどんカンナ達が乗る露橈と距離が離されていく。漕ぎ手の数が違うのだから無理もない。だが、その行く方向だけは確実に捉えておかねば追ってきた意味が無くなる。そういう状況なのに、蒼衣は色恋の話ばかりしてくる。
「斑鳩さんが私の身体でも興奮してくれるって分かっちゃったから、私に可能性がないとは思えないんですよね。試しに1回だけ私の事抱いてみません?」
蒼衣のその言葉に斑鳩は初めて振り返り蒼衣の顔を見た。蒼衣は突然の事に漕ぐのをやめ目を丸くして固まっている。
「いい加減にしてくれ。命令だ。黙って漕いでくれ」
「……はい」
蒼衣は大層不服そうに頬を膨らませ、またオールを漕ぎ始めた。
それから4、50分程漕いだ頃。
かなり離されて水平線の彼方に見える露橈の前に1隻の大型船が現れた。
「水無瀬、一旦止めろ」
斑鳩が指示を出すと蒼衣は漕ぐのをやめた。
前方の船の様子を眺めていると、カンナ達を乗せた露橈は大型船の横にゆっくりと回り込んで停泊した。
「どうやらあの大型船に乗り換えて大陸側まで向かうつもりだ。乗り換えられたらとてもこの舟じゃ追えない。水無瀬。悪いが全力で漕いでくれ」
「任せてください!」
蒼衣の元気の良い返事には先程の不満の色もなく、斑鳩のオールの動きに合わせてしっかりと漕ぎ始めた。
♢
突如海洋のど真ん中に現れた船は、劉雀が乗っていた船と同等の規模の大型船だ。それがたった1隻でカンナ達を拾いに来た。
縄梯子が下ろされ、柚木が先によじ登ると、カンナに手を伸ばす。カンナが柚木の手を取り乗り移ると今度はカンナが茉里に手を差し伸べる。
「後醍院さん、足下気を付けて」
「ありがとうございます」
茉里は紫色の長い髪を風に靡かせながら縄梯子を上り船へと移った。茉里の後ろには既に乗り移っていた槐の姿もあった。
カンナ達はすぐに甲板へと連れて行かれた。
甲板には大勢の蒼兵達が並んでいて、皆柚木に連れて来られたカンナと茉里に視線を集める。
「2人。確かに確認した」
突然、頭上の船楼の方から声が聞こえた。
「……え?」
そのどこか聞き覚えのある声に、カンナはもちろん、茉里も目を見開いて声のする方を見上げる。
そこにいたのは黒い仮面で目元を隠した長い茶髪の女だった。朝日の逆光でその姿はよく見えない。
カンナと茉里は眉をひそめ、お互い顔を見合わせる。
「澄川カンナと後醍院茉里です。参様」
柚木は参という女に頭を下げた。
「王華鉄という男と共にその2人を連れて合流する……という段取りになっていた筈だが」
「状況が変わりまして、王華鉄さんは来られなくなりました。無事に2人を連れて来たのだから問題ないでしょう?」
「まあ、私には王華鉄がいようがいまいが関係ない。もう1つのサンプルの方は?」
柚木は懐から白い欠片の入った小瓶を取り出して船楼の上の参に見せた。
「ここにちゃんと。外園伽灼の骨片です」
「え!?」
カンナが思わず声を出すと、不思議そうに柚木は首を傾げた。
「どうしました? カンナ」
「外園さんの骨片……って、それを一体何に使うつもりですか?」
「それは、カンナにも僕にさえも関係ない事です。陛下が欲しいと言うから持って来たまでです」
柚木は悪びれる様子もなく、涼しい顔で平然と説明する。
「そんな……目的も知らずに、私達学園の仲間の遺骨を勝手に持ち出すなんて……せめて静かに眠らせてあげてください!!」
カンナは柚木のコートを掴んで訴える。
「静かに眠らせて……って、もう死んでるんだからそんな気遣いは不要ですよ」
「……はっ!?」
その言葉に、カンナの中の何かが切れた。
「澄川さん」
異変を悟ったのか、隣にいた茉里がカンナの震える手を優しく握ってくれた。その手はとても温かく、カンナの中で切れた何かを僅かに繋ぎ止めてくれたようだった。
「さあさあ、君たちは部屋で寝てください。僕は参様とこの後ゆっくりお話する事があるので。君彦、2人を部屋へ案内しなさい」
「はっ。お2人共、こちらです」
柚木の命令で、槐は蒼兵4人を伴い、カンナと茉里を客室のある船内へと誘導する為歩き始める。
去り際に、カンナは船楼の上の参をまた見上げた。
「舞冬さん!」
返事は帰って来なかったが、微かに参がカンナを見たような気がした。
「ほら、早く進みなさい」
後ろから来る蒼兵に急かされ、カンナは茉里と共に客室へと連れて行かれた。
♢
「あの女は私をマフユと呼んだ。何故?」
参は女達が客室へと消えると後ろに控えていた真っ白い髪の雲類鷲刹那に問うた。
雲類鷲はニコりと微笑み答える。
「知らないわ。 誰かと勘違いしているのでしょう」
「そう……」
雲類鷲はこの木造船に似つかわしくないノートパソコンを近くの机に置いてカタカタと何か入力している。髪も白いが、肌も真雪のように白い。おまけに白衣を着ているものだから外見の7割は白だ。インナーとズボンに色がなければ完全に真っ白になる。ただ、その瞳だけは不気味なほどに紅い。
「あなたはあの子達の事は気にしなくていいのよ。あの子達は柚木さんがちゃんと陛下のいる焔安まで送り届ける。それを護衛するのがあなたの役目。もし、柚木さんが裏切ったりしたら」
「殺せばいいんでしょ」
「そうよ。参はいい子ね。ほら、お部屋に戻って私が調合したアロマで癒されてね」
「分かった」
雲類鷲という女の調合したアロマの香りはとても好きだ。度々心がざわめく事があるが、それを忘れさせてくれる。
雲類鷲について行くとその部屋は既に件のアロマが充満していた。
「ごめんね〜。学園から来た人達の匂いは身体に悪いからちょっと強めに焚いてるのよ」
「構わないよ。私はこの匂いは好きだから」
頭がフワフワとする感覚。匂いはこの何とも形容し難い不思議な香り以外何も分からない。
雲類鷲は兵士と何か喋っている。
前に似たような研究員が一緒にいたような気がしたが何故か思い出せない。思い出せないという事は、自分にとって必要のない記憶なのだろう。
やがて部屋には柚木という男が1人で入って来た。
「お久しぶりですね。参様。小龍山脈の程突の騒ぎの時にお会いして以来ですね」
「いや、私は君に会うのは初めての筈だが?」
参の答えに柚木は不思議そうに首を傾げた。
その耳元で雲類鷲が何か囁いていた。
♢
カンナと茉里が槐に連れられて入った部屋は、劉雀の船よりは小さな部屋だったが、それでもきちんと整理整頓が行き届いた綺麗な部屋だった。
「それでは、私は部屋の前に控えておりますので。何かあったらお申し付けくださいませ」
「槐さん、ちょっとお聞きしたいことが。大陸側へはあとどれくらいで着きそうですか?」
「そうですね、この船は龍武の鄭程港ではなく、蒼の碧英港へ向かいますのであと7、8時間は掛かるかと」
「そんなに……? この船にトイレとお風呂はありますか?」
「ええ。狭いですが、この部屋にはどちらも備わっていますのでご自由にお使いください。それではごゆっくり」
槐が扉を閉めるまでカンナは深々と頭を下げた。
確実に扉が閉まったのを確認すると、カンナは部屋の真ん中にぽつんと立ち尽くしている茉里の傍に向かう。
「後醍院さん、さっきは止めてくれてありがとう。私、危うく柚木師範に飛び掛るところだったよ」
「いえ、わたくしも何度も澄川さんに破壊衝動を止めて頂いておりましたので、気にしないでください。それより、先程船楼の上の方を”舞冬さん”とお呼びしておりましたわね。わたくしも聞き覚えのある声だったのでもしやと思ったのですが」
「後醍院さんも思った? 姿ははっきり見えなかったんだけど、声とシルエットが何となく似てたかなって思ってつい……そんなわけ……ないんだけどね」
つい声を掛けたが、舞冬は2年前に死んだ筈だ。まさか生きていたなんて奇跡があるものだろうか。それに、万が一、生きていたとして蒼に従っている筈はない。舞冬はそんな人間ではない。
「柊さんに似ていただけで別人ですわ。あんな話し方をする人ではなかったし、わたくし達を見て何の反応もなかったのですから」
茉里の冷静な分析にカンナは頷いた。氣の力が使えればあの参という人物が舞冬かどうか確かめられたかもしれないが、それは考えるだけ無駄な事だった。柚木によって氣の力を完全に封じられ、今ととなっては他人の氣の感知すら出来ない。柚木の目を盗んで鼓動穴を突いてみたが効果はなかった。
茉里はベッドに腰を下ろしたのでカンナも隣に座った。
「こんな状況でなければ、澄川さんと2人きりでベッドに座ってる時間を楽しめましたのに」
茉里は寂しそうに言う。
「あと7時間」
「え?」
突然のカンナの発言に茉里は小首を傾げる。
「あと7時間くらいで蒼に到着する。その間にここから逃げないと」
「でも、どうやって」
「今ってさ、私達の両手両足自由じゃない? で、柚木師範の目もない」
「あ……! はい!」
茉里はカンナの話に自分の両手を見ながら笑顔を見せる。
「つまり、逃げ出すなら今。部屋の扉は槐って人が見張ってるから無理だけど、トイレとかお風呂場からなら通気口とかある筈だからそこから出られるかも」
「さすが澄川さん! 頭脳明晰ですわ!」
茉里はカンナに抱き着くと頬を擦り寄せてきた。茉里の嬉しそうな表情は久しぶりに見たのでそれだけでカンナも笑顔になった。
「それで澄川さん。この船から脱出出来たとして、その後どうするんですの? 海を……泳ぐんですの?」
「あ……」
カンナは立ち上がり、窓から外の雄大な海を眺めた。波は穏やかだ。
そして、一呼吸置くとまた口を開く。
「後醍院さん……泳げる?」
茉里はカンナの申し訳なさそうな表情を見てクスりと笑いながら頷いた。




