第126話~重い涙~
偶然、鉄格子の内側の棚に置いてあった大きめの薄い布を、両手が壁に鎖で繋がったままの裸の蒼衣に被せた。胸と股くらいは隠してもらわないと困る。ひとまずこれで目のやり場に困らないだろう。
それからしばらくの間、鉄格子の中から出られないのをいい事に蒼衣はずっと斑鳩に抱き着いていた。
「ほら、水無瀬。もう大丈夫だろ。その、少し離れてもらえるか? いくら素っ裸じゃなくなったからといえ、そんな格好の女といつまでもくっ付いてるわけにもいかない」
斑鳩は離れようとしない蒼衣を少し押した。
すると、蒼衣は鎖で繋がった手を軸に、器用にも斑鳩を壁に押し付け、そのまま股間の上に座った。
「ふふ。斑鳩さん。私でちゃんと興奮してくれてるじゃないですか?」
蒼衣は斑鳩の身体の反応を感じ取ると満足そうにニヤリと笑った。
「おい、何するんだ。ふざけてる場合じゃないぞ。蔡禁が戻ってくる前にさっさとこここら抜け出して澄川と後醍院を助けるんだ」
斑鳩の正論に蒼衣はニヤニヤと笑ったまま口を開く。
「抜け出すって……無理じゃないですか? ここは牢屋になったんですよ? その鉄格子をどうにかしないとここからは出られません。ここが船の底だって事、忘れちゃいました? 壁を壊して逃げる事も不可能なんですよ」
「だったら天井をぶち破って」
「もう! 大人しくしてたら殺されたりはしないでしょうから、馬鹿な事しない方がいいですよ」
蒼衣の危機感のない応答に苛立ちを覚えた。だが、その苛立ちは、完全に発情して顔を紅潮させた蒼衣が浮かべる濃艷な笑みによって容易く霧散してしまう。
「そうはいくかよ。俺は澄川と後醍院を助ける為にここに来たんだ。牢屋から出られないからって大人しく座ってられるか。いいから、水無瀬。お前も手伝え」
何とか自我を保ち蒼衣を説得する。
「そう……それなら、私も助けてくれますか? 斑鳩さん。私、置いていかれたら……殺されちゃう……」
蒼衣は縋るように言った。潤んだ大きな瞳を近付け、斑鳩の瞳を覗き込んで来る。
「ああ。助けるよ」
斑鳩は小さな声で答えた。
「やったぁ! 斑鳩さん、ありがとう。本当にありがとう」
蒼衣は嬉しそうに礼を述べると、固定された両腕の間に斑鳩の首を入れ、身体を押し付けるように抱き着いた。蒼衣の柔らかい胸が密着し、熱く濡れた股は僅かに前後に揺れている。
「おい! な、何してるんだよ、やめろ! いい加減にしないと怒るぞ」
斑鳩の言葉を無視して蒼衣は気持ちよさそうな顔で微笑む。
「仕方ないじゃないですか、やめられないんだから。ずっとこうしたかった……」
蒼衣の熱が全身に伝わってくるようでとても熱い。柔らかい感触がズボン越しにしっかりと伝わってくる。蒼衣の顔が目の前に迫る。蒼い艶やかな髪からはとてもいい香りがする。蒼衣は舌で斑鳩の唇を舐め、そして優しく食んでくる。突き放さなければ──そう思っても、身体が動かない。いや、動きはするが、学園の仲間である蒼衣を突き飛ばしてまで動く事が出来ないと言う方が正確だ。
だが、そのせいで、忘れようとしていたあの感覚が蘇ってくる。荒い息遣い。目の前の恍惚そうな顔があの女と被る。
──舞冬──
「水無瀬ぇぇ!!!!!」
その怒号に斑鳩は我に返った。
怒号を飛ばしてきたのは鎖で鉄格子に縛り付けられている斉宮つかさだ。その鎖を引きちぎるような勢いでこちらに飛び掛かろうとしている。しかし、頑丈な鎖はつかさを押さえ付け決してちぎれない。
その怒号には、興奮した蒼衣も目を丸くしてつかさを見て固まっている。
「水無瀬蒼衣……いい加減にしろ。斑鳩さんから離れろ。ぶち殺すぞ」
つかさは見た事のないような恐ろしい剣幕で物騒な言葉を放つ。
「な、何ですか斉宮さん」
「何ですかじゃない。早く斑鳩さんから離れろって言ってんだ淫乱クソ女。斑鳩さんはお前みたいな淫乱が触れていい男じゃない。斑鳩さんはカンナのものだ」
「分かってますよ。そんなの。でも今は澄川さんはいない。それに斑鳩さんも言葉では拒絶していても、身体は拒絶してないですよ」
蒼衣は開き直ったような態度で言う。
つかさはまたガシャンと鎖と鉄格子をぶつけて威嚇する。
「あんたと問答するだけ時間の無駄ね。でも、1つだけはっきりさせなきゃならない事があるわよね?」
つかさはそこまで言うと一度言葉を切り蒼衣を睨んだ。
蒼衣もつかさを睨み返す。
「あんたさ、裏切り者ってのは、どういう事?」
つかさの質問に沈黙が流れた。
斑鳩が問おうとしていた質問。その質問を斑鳩は先延ばしにしていた。その答えに心のどこかに恐怖があったのかもしれない。もし、蒼衣が裏切り者だと認めた場合、この女をどうするのが正解なのか。その答えを出すのも怖かった。だが、つかさは、そんな事などお構いなしに、怒りのままに蒼衣を問い質した。
すると、黙っていた蒼衣はゆっくりと口を開く。
「知らない」
その返答につかさはより一層眉を吊り上げて蒼衣を睨む。
「蒼の奴らが私を陥れようとしてるのよ。私が……裏切り者なわけないじゃないですか」
悲しそうに答える蒼衣。その姿はあまりにも惨めに見えた。斑鳩にとっては蒼衣の答えは受け入れるべき正しい答え。蒼衣が学園を裏切るメリットはない筈だ。仮に蒼衣の答えが嘘だとしても、それを問い詰めるのは今ではない。
「つかさ。今はここを脱出するのが先だ。水無瀬。いい加減そこをどいてくれ」
斑鳩は冷静さを取り戻し、そっと蒼衣の両肩を掴み、脇に座らせた。
「え、ちょっと、斑鳩さん。斑鳩さんは私の事信じてくれてるんですよね? だから助けるって……」
「ああ。だが、何故お前だけが先に捕まっていたのか。それは後で説明してもらうからな」
「あ……いや、だからそれは」
斑鳩の言葉に蒼衣は目を逸らし口ごもった。斑鳩はそれを横目に見ると立ち上がり、今度は板張りの天井を見上げた。
「水本。今なら大丈夫だ」
斑鳩が呼ぶと、少し間を開けて板張りの天井の板の1つがパカッと開いた。
「よく……分かりましたね、斑鳩さん。ははは……」
学園最下位である序列39位、体特の水本京介は、開いた穴から申し訳なさそうに顔を出した。
「え!? 水本君?? 何で??」
蒼衣も水本を見上げる。
「気配を消せてない。そんなんじゃ敵にすぐに見付かるぞ」
「あ、はい、すみません」
「でもナイスだ、水本。これでここから抜け出せる。何か水無瀬とつかさの拘束を解く道具はないか?」
「これなら」
水本は腰の方から取り出した小さなナイフを斑鳩の方に落とした。
「ナイフか……」
斑鳩は水本の落としたナイフを拾い、ケースから抜くとその刃を吟味した。
そしてすぐに蒼衣の革のベルトの手枷を切断した。蒼衣は数時間も固定されていた両手首をブンブンと振っている。
「水無瀬の拘束は解けたが……」
つかさの胸や腹に何重にも巻かれている太い鎖を見て斑鳩は嘆息をつく。
「このナイフじゃ流石にこの鎖は切れないな。水本、俺はつかさの鎖を外す方法を探す。お前は水無瀬を連れて先にこの船から脱出しろ」
「え!?」
驚いた蒼衣と水本の声が重なる。
「斑鳩さんも一緒に来てくれないんですか!? こんな……こんなちっこい子に私が守れるわけないじゃないですか!」
「ぼ、僕も……自分1人なら何とかなりますけど、人を連れて逃げ切るなんて出来ません」
予想通り2人は斑鳩の命令を拒否した。しかし、我儘は言っていられない。
「なら、4人で捕まるか? 水本。せっかくここまで敵に見付からずに来れたのに、ただ捕まって終わりたいのか? お前は何をしに来た? 水無瀬。俺は必ず後からお前達と合流する。だから先に」
「あなたも行って」
斑鳩の言葉をつかさの言葉が遮った。
「何だって?」
「私を置いて逃げてください」
つかさは覚悟を決めたような眼差しで斑鳩を見ている。
「馬鹿か。そんな事出来る筈ないだろ」
「見たところ近くにこの鎖を切れる道具はありません。だから、私を助ける方法を探すだけ時間の無駄です。行ってください。大丈夫、恨んだりしません」
「いや、お前だけ置いていくなんて」
「行きなさいよ! 私はあの裏切り者とは一緒に行かない!」
つかさの怒号が再び船底に響く。
「斉宮、水無瀬の事は」
「あなたの事も信用出来ないんですよ! 私はあなたが裏切り者の誘惑に心を乱されるような人だとは思いませんでした。所詮、あなたも男なんですよ。穢らわしい」
つかさの顔は怒りに満ちている。今まで向けられた事のない明らかな憎悪。これを今消せる自信が斑鳩にはない。
「今は逃げよう。このチャンスを逃したらもうここから出られないかもしれない。話は後でゆっくりしよう」
「あなたは……カンナを裏切ったのよ……?」
言いながら、つかさは涙を流した。
「違う……裏切ってない。お前、落ち着けよ」
何を言ってもつかさを説得出来ない。気の利いた言葉さえ思い付かない。
つかさの涙はとても重かった。
「斑鳩さん。行きましょう。その人は置いて行くしかないです」
蒼衣の非情な言葉を咎める気力も失せ、斑鳩はただ立ち尽くす事しか出来ない。
部屋の外から人の声が近付いて来る。蔡禁が戻って来たのかもしれない。
「行きなさい!!!」
「お前を置いてはいけない!」
「あなたがカンナを裏切ってないのなら、私を置いて……カンナを助けて」
今まで怒り狂っていたつかさの言葉は、突然悲しみに満ち溢れたものになった。
その言葉に斑鳩は決意した。
「斑鳩さん! 早く!」
振り向くと、既に蒼衣は天井の穴から顔を出していた。
斑鳩はつかさの後ろ手に縛られているその手元に先程のナイフを置くと、天井の穴の下にある棚を足場に上ると蒼衣と水本によって引き上げられた。
そして斑鳩は穴から顔を出し置き去りにしたつかさを見る。
「つかさ。お前も必ず助ける。だから、生き延びてくれ」
斑鳩の言葉につかさはただ黙って目を閉じた。
「行きましょう」
蒼衣に言われ、斑鳩は天井の穴を外されていた板で元通りに戻すと、水本の先導に従い、暗く狭い天井裏を這って進んで行った。
最後のつかさの顔が、しばらく斑鳩の脳裏に焼き付いて離れなかった。