第122話~心の鏡~
多知花は満身創痍の筈なのに、馬を軽快に駆けさせて山道を登って行った。
学園への道は比較的なだらかな為、そう時を置かずに多知花は神髪瞬花と合流するだろう。
南雲は右手で手綱を、左手で大薙刀を持って黒陵の背に乗り多知花を追った。
右肩の傷が痛む。傷口も塞がってはいないので黒陵が地面を蹴る振動でドクドクと真っ赤な血が包帯に滲み出てくる。南雲は老齢である。もう無茶がきかない身体だという事は自分が良く分かっていた。
だが、止まるわけにはいかない。
あの男が神髪瞬花と合流したら不味い気がする。理由は分からない。ただ、多知花は執拗に神髪瞬花から離れるのを拒んでいた。
神髪瞬花の監視が目的なのかもしれないが、真の目的は別のところにある気がする。根拠はない。武人の勘と言う奴だ。
先に駆けて行った多知花だったが、南雲はあっという間にその後ろ姿を捉える距離まで接近した。
黒陵の馬力は並の馬とは比べ物にならない。1日に千里を駆けるとも言われた名馬だ。多知花の乗る並の馬に追い付くのは当然なのだ。
「青二才が! この俺から逃げられると思うなよ!」
大声を出すだけで右肩の傷に響き痛みが走る。
しかし、南雲は馬を止めずそのまま駆け続けた。
「老いぼれめ。そんな肩では俺には勝てんぞ」
多知花は南雲の方を一瞬顧みたが、またすぐに前を向いてしまった。
「貴様こそ、そんなボロボロでは俺に勝てんぞ!」
「もう俺は止まるつもりはない。その出血なら1時間と持たずに死ぬぞ。大人しく寝ていた方がいいんじゃないのか?」
「ほう、1時間か。ならばその前に貴様を討ち取るまでよ! 行くぞ! 黒陵!」
南雲が言うと、黒陵は多知花の左側の、ゴツゴツと岩の出張った斜面を、颯爽と駆け上がり、そして、あっという間に多知花を真横に捉えると、勢い良く跳び上がった。
多知花の目を見開いた顔に大きな影が掛かる。
「食らえ! 人馬落とし!」
多知花は落ちてくる黒陵の脚と、南雲の大薙刀を避ける為、大きく右に抜けた。それで黒陵の蹄は躱したが、南雲の大薙刀が多知花が咄嗟に抜いた黄龍心機を思い切り打ち、その衝撃で多知花は右側の急斜面を馬ごと滑落していった。
斜面を馬諸共転げ落ちていく多知花を、南雲は黒陵に乗ったまま追い掛ける。
「そら、貴様の首、俺が取ってくれるわ!」
南雲が叫ぶように言うと、多知花は馬を捨て、南雲の右側に飛び込み黄龍心機を振る。
「甘いわ!」
しかし、多知花の攻撃は、南雲の巧みな手綱さばきに翻弄され、掠りもしない。
「貴様、怪我をしている側を狙うとは卑怯だな」
「黙れ老いぼれ。俺は貴様のような老兵に構っている時間はないのだ。さっさと死んでくれないか?」
「ははは! 馬鹿め! 死んでと言われて死ぬような武人はおらぬわ!」
南雲は笑いながら大薙刀を振り回した。
斜面を滑りながらの戦闘を繰り広げているにも関わらず、黒陵はそれをものともせず、まるで平地で戦っているかの如き動きで南雲の思うままに動いてくれる。
次第に足場の悪い多知花は黄龍心機を振る回数が減ってきた。明らかに疲労が見える。
「雑兵にしてはやるではないか」
南雲は黒陵に纏わり付く多知花を引き離すように大薙刀を横に振った。
「俺は雑兵ではない。青幻陛下の側近だ」
多知花は眉をピクリと動かして反論した。そして、途中の太い木の幹に捕まり斜面の途中で止まった。
「ほう、その側近が何故青幻から離れてこんな絶海の孤島にいる?」
「貴様に教えてやる義理はない」
多知花はそう言うと、斜面を駆け上がり、木の幹を蹴って、南雲の頭上へと飛び掛った。
南雲は大薙刀で攻撃を防ぎ、同時にそれを振って黄龍心機を払った。
しかし、目の前に多知花はいなかった。
「消えた!?」
「こっちだジジイ」
声のする方へ振り返ったその時、突然黒陵が嘶き竿立ちになった。
「黒陵!? どうした!?」
南雲は手綱を操り黒陵を落ち着かせようとした。その最中で黒陵に何が起きたのかを認識した。
黒陵の左脚の大腿から血が出ているのだ。
「貴様! 黒陵に手を出したか!!」
南雲が怒鳴り付けたが、それを意に介さず、多知花は笑みを浮かべまた黄龍心機を構えてまた跳び上がった。
「馬が使えなければ貴様もただのジジイだ!!」
多知花の持つ黄龍心機の刃が目の前に迫る。黒陵を落ち着かせる為に強く手綱を引いていた右肩に激痛が走り血が吹き出す。
「ぐうっ」
多知花の黄龍心機が左手の大薙刀を軽々と弾き飛ばした。すると、ついに黒陵は左側に崩れるように倒れた。
南雲も地面に叩き付けられ左肩の骨がボキッと音を立てて折れた。
「黒陵……!」
痛みを堪え黒陵の名を呼んだ。
黒陵は苦しそうに首を振り脚をバタバタとさせて暴れている。
「終わりだ。愛馬と共に殺してやろう」
「俺の黒陵に手を出してただで済むと思うなよ」
南雲は鬼の形相で多知花を睨み付けながら左の腰に挿していた刀を抜いた。
何故だか体中の血が燃えるように熱く感じた。
****
鏡。
この世界には鏡しかない。
右も左も、上も下も鏡しかない。
人の心の中は鏡で出来ている1つの世界なのだ。
鏡子の周りにある鏡は、鏡子の姿だけを写している。
鏡子の足音以外何も聞こえない。
「神髪瞬花。今からあなたの事を調べさせてもらうわね」
誰もいない鏡の世界で、鏡子は独り言のように呟いた。
ここは神髪瞬花の心の中。
鏡子の独り言を気にする者はこの世界にはいない。神髪瞬花自身でさえ、心の中の鏡子には感知出来ないのだ。
鏡子は周りの鏡を見回した。
すると、その中に1つ、鏡子の姿が暗く、歪んで映る鏡があった。
「この鏡は……『恐怖』」
鏡子は澱んだ鏡面に手を当てた。
すると、鏡子の触れた所から鏡が波紋を広げた。そして、鏡子の手は鏡の中へと入り込み、ついに全身が呑み込まれるように消えてしまった。
その恐怖の感情を映し出す鏡の中に神髪瞬花がいた。
瞬花の他にもう1人いる。
青い髪の男。2人は何やら話している。
聞こえてくる2人の会話から青い髪の男が青幻だという事が分かった。
突然、瞬花が突然左胸を押さえて苦しみだした。膝を突き、その場に前のめりに倒れて悶えている。
青幻は涼しい顔をしてその様子を玉座に腰掛けたまま眺ている。
どうやら、瞬花の心臓にいつでも痛みを与えられるよう細工を施したようだ。
苦しむ瞬花。それを見ている鏡子でさえも、その苦しみが伝わってくる程に瞬花の苦しみ方は尋常ではない。
青幻の手にする掌に収まるほど小さなスイッチが、瞬花の心臓を支配しているらしい。
なるほど、これで瞬花が青幻に従わざるを得ない理由が分かった。
瞬花は『死』という恐怖に怯えているのだ。最強と謳われた武人でも、『死』の恐怖には抗えないのだ。
しばらく、瞬花の恐怖の映像を覗いていると、瞬花の心臓へ痛みを与えるスイッチは多知花という男に渡された。そして、その男は今学園島にいる。瞬花と共にここに来たらしい。
つまり、その男が瞬花と共にいる限り、瞬花は死の恐怖から逃れられないと言う事だ。
「分かったわ。多知花と言う男を捕らえ、スイッチを奪えば、神髪瞬花を青幻から解放出来る」
鏡子は瞬花が青幻に従っていた理由を理解すると、そっと恐怖の鏡から抜け出し、元の鏡だらけの空間へと戻った。
他にも瞬花の心情や記憶を知る事の出来る鏡がある。瞬花の事を知る絶好のチャンス。この女がどのように生まれ、どのように育ち、どのようにしてこの学園に来たのか。それらを知る事が出来るのは今を逃しては他にない。
ただ、この心の世界に居続けるには、鏡子自身の精神力や体力も必要だ。戦闘中に覗き見れる鏡は1つが限界だろう。元の世界に戻った時に瞬花と戦える体力は残しておかなければならない。
「神鏡の能力というのは、興味深い能力だな」
誰も居ない筈の心の中の世界に、突然声が聞こえた。
驚いた鏡子は咄嗟に声のした方へ振り返る。
「……え……、どうして、あなたが、ここに?」
「貴様のその能力で調べれば良かろう、美濃口鏡子」
そこにいたのは、この心の持ち主である神髪瞬花だった。口元に笑みを浮かべこちらを見ている。
「いくら自分の心の中と言えど、本人がこの世界に入る事は出来ない筈。まさか、あなたも神鏡を??」
「驚いているな。無理もない。貴様が人の心の中に入った事はあっても、貴様自身の心の中に人が入って来た事はないだろうからな」
「どういう……事?」
「どうやら、神技・神鏡は、人の心の中に入り、その心の32個の感情の鏡からその者の記憶を読み取る事が出来る能力。そうだろ?」
「……ええ」
「心の持ち主は自らの心には入れない。ならば、何故私がここにいるか」
「ここは、あなたの心の中ではない? でも、確かに私は、あなたの心の鏡を見た! ここは間違いなくあなたの……」
「ここは、私の心の中であるが、貴様の心の中でもある……と言う事だ。美濃口鏡子」
鏡子は目を見開いた。一瞬にして鳥肌が立った。意味が分からない。神鏡を持たぬ者が、人の心の中に入り込む事など出来る筈がない。やはり、瞬花も神鏡を持っていると言う事なのだろうか。それを調べるにはあと何個か鏡を覗かねばならない。
「私の心の中に、何故あなたが入れるのかしら?」
「その答えは簡単だ。貴様が私に神鏡を使ったからだ。一体、戦闘に使えそうもないこんな神技を何故使ったのかは理解に苦しむがな」
「今まで何度か神鏡を使ってきたけど、こんな事は初めてよ。私の心の中だというなら、何故私がここにいるのかしら?」
「だから先程言っただろ。私の心の中であるが、貴様の心の中でもある。つまり、貴様が私の心の中に入った時、私も貴様の心の中に入った。今、お互いの心が融合していると言う事だ。今貴様がいるのは私の心の中。そして、私がいるのは貴様の心の中」
「そんな……馬鹿な」
そう言われてみると、初めに瞬花の心の中へ入った時よりも感情の鏡の数が増えている。感情の鏡は、この世界を構成する無数の鏡とは色が違うので見ればすぐに分かる。瞬花の言う事がデタラメではないという事はすぐに理解出来た。しかし、そうだとすると、やはり瞬花は神鏡を使える事になる。
「私からも1つ訊かせてもらおうか、美濃口鏡子。何故私の心を知ろうとした? 私の強さの秘密を探ろうとしたのか?」
瞬花は槍も弓も持っていない。やはり、心の中に武器は持ち込めないようだ。しかし、体術で襲われたらどうなるのか。それは、この世界で他人と出会った事のない鏡子には分からなかった。心の中で死んだらどうなってしまうのか。ただ、今目の前にいる瞬花からは殺気を全く感じない。
「あなたの強さの秘密? そうね。それも興味深い事だわ。でも違うわ。私はただ、あなたを救いたかったのよ」
「……救う? 私を? 何から?」
「あなたは何かに怯えていたわ。ずっと前、私とあなたが初めて出会った時のあなたの目にはなかった恐怖が、今のあなたの目にあった」
「恐怖……」
「もう、全て見させてもらったわ。あなた、青幻に脅されていたのね」
鏡子が言うと、瞬花は左胸を押さえて俯いた。
「見たのか。そうか。そんな事を知る為に、わざわざ弓の勝負に持ち込み、僅かな隙を作り私に触れたのか。私とした事が、不覚を取った」
「あなたが学園を潰す理由はない筈。『死』と言う恐怖を使い、あなたの力を利用する青幻を、私は絶対に許さない」
瞬花の目が鏡子を見た。
「私は……自由になりたい。強い者と戦いたい。ただ、それだけなんだ。学園なんて……どうでもいい」
「なら、あなたを自由にしてあげるわ。『死』という恐怖から解放してあげる。生きていれば、また強い人と戦えるから」
「本当か?」
「約束するわ。また私と、弓術勝負しましょう。瞬花」
鏡子は瞬花へと歩み寄り、右手を差し出した。
瞬花は1つ呼吸をすると、差し出された鏡子の右手を握った。
****
鏡子は瞬花の頭に置いた手をそっと離した。
瞬花は鏡子の目の前で両膝を突き、そのまま鏡子にもたれ掛かるように倒れた。どうやら意識を失っているようだ。
「どうやって私の心の中に入って来たのかは知らないけど、慣れない事はするものじゃないわよ」
鏡子は瞬花を優しく抱き締めた。
瞬花の閉じた目からは、一筋の涙が零れていた。
「美濃口師範!!」
避難していた弓特生達が馬で駆け付けて来た。
「倒したんですね! あの神髪瞬花を!」
「いいえ。矢を9本も使って傷一つ付ける事が出来なかったわ。神鏡が間に合わなければ私もどうなっていたか。弓術勝負の勝敗はお預けね。それより」
「何でしょう?」
鏡子の次の言葉を弓特生達は真剣な顔で待った。