第117話~弓術勝負~
神髪瞬花は2年前、ここで見た様子とは変わっていた。
姿こそ同じだが、雰囲気というか、漂う氣の感じが以前とは異なっていた。それはまるで、何かに怯えているような、確かな恐怖を心に抱えているようだった。
美濃口鏡子は弓特生達に弓を構えたまま待機させ、目の前の神髪瞬花を黙って見ていた。
弓特生達は皆、瞬花の発する氣に気圧され顔が引き攣っている。
「弓特師範か……以前の神々廻師範はどうした? 」
「2年前の学園戦争以来、行方不明となってしまったわ。でも、驚いた。あなたも他人の事が気になるのね」
瞬花は鏡子の言葉に少し苛立ちを浮かべ急に口を閉ざしてしまった。
「ずっとあなたを捜していたのよ。寄りにもよって、青幻の下へ行っていたとは、失望したわ。あなたも知っているでしょ? 青幻は学園にとって敵。一体どういうつもりなの?」
鏡子が続けて問うと、瞬花は左手で心臓の辺りを押さえた。
「貴様には関係ない」
瞬花は目を伏せた。一瞬見えたその瞳には悲しげな色があった。
「まあいいわ、神髪瞬花。それで、こちらに戻って来る気はないのかしら? あなたはまだこの学園の生徒として籍があるのよ?」
話を続ける事にした。瞬花とこれ程までに会話という会話が出来たのは初めてである。少しでも瞬花が蒼国に就いている理由を探る必要がある。味方に引き込めなければ十中八九こちらの敗北。学園は潰され、全員死ぬ事になるだろ。
「戻る利益が私には見い出せない」
「それは残念。なら好きにしたらいいわ。でも、私達に手を出すのはやめてくれないかしら? 学園を去るというのならもう私達に関わらないで」
「それは……出来ない」
「そう……仕方ないわね。心まで青幻に売ったと言うのなら、あなたをここで射殺すだけだわ」
鏡子は弓に矢を番えると弦を引き絞り、瞬花の方へと鏃を向けた。
「私に矢を当てるつもりか。徒に矢を無駄にするだけだぞ」
瞬花は無表情で槍を顔の前に構えた。その目付きは急に闘志が宿り、気を抜けば一瞬で殺されてしまいそうな程強烈な視線を放っていた。
だが、鏡子もそれに負けじと精神を研ぎ澄ませ、全身に練度の高い氣を巡らせた。
何も聴こえない。風の音も、木々の揺れる音も、馬の呼吸の音さえも。
瞬花は槍を顔の前で構えたままこちらの動きを窺っている。攻撃を仕掛けて来ようとしない。
その様子を見て、鏡子は静かに口を開いた。
「放て」
その声と同時に周りの4人の生徒達が一斉に瞬花へ矢を放った。鏡子はまだ矢を放たず弦を引いたまま。
放たれた矢はたったの4本だが、この学園の生徒達は皆速射を身に付けている。矢を放った瞬間に次の矢を瞬時に番えまた敵に射る。その間僅か3秒。しかも全員が同時に、僅かに狙いや発射速度をずらしているので敵は躱すタイミングが崩れて矢を避け切れない。さらに鏡子が矢を放たなかった事で意表を突き、敵を動揺させる効果もある。下手に他の矢を躱せば鏡子の矢の餌食になるからだ。
これが弓特が授業で培った集団技『五月雨矢倉』。射手が多ければ多い程確実に敵を射殺せる。
だが、今回の敵は学園序列1位の神髪瞬花だ。さすがに一瞬で五月雨矢倉を見抜いたのか、端から躱そうとはせず、馬上で槍を巧みに振り回し、降り掛かる矢をことごとく打ち落としてしまった。
とは言え、これは勿論計算済み。鏡子はすかさず矢を打ち落としている最中の瞬花へ氣を込めた矢を放つ。
『御堂筋弓術・破砕嚇軍矢』
しかし、瞬花は何かを察したのか乗っていた馬の鞍に左手を突き、両脚を空へと伸ばしながら跳び上がって身体を反らし、氣を込めた矢をヒラリと躱し着地した。
氣を込めた鏡子の矢は瞬花の長い黒髪と青いロングコートの裾を射抜き、背後の木の幹を貫通し、地面に羽まで刺さってようやく止まった。
瞬花は槍を地面に突き刺すと、乗って来た馬を木々の間へ放ち鏡子の目を見て口を開いた。
「銃で武装した我羅道邪の軍隊でさえ私を捕らえられなかったというのに、弓如きで何が出来ると言うのだ」
「矢倉!」
鏡子は瞬花の減らず口を無視し、弓特生へ五月雨矢倉の指示を出す。
弓特生は次々に槍を手放したままの無防備な瞬花へ矢を放つ。
「鬱陶しい」
あろう事か瞬花は素手で矢を全て払い落とし、他の生徒達には目もくれず一直線に鏡子の方へ飛び掛って来た。
「紫月!」
鏡子はまだ矢を放たず虎視眈々とその時を待っていた蓬莱紫月の名前を叫びながら、また眼前の瞬花に矢を放つ。
「だから無駄だと……」
瞬花が鏡子が放った矢を軽く躱したその時。瞬花の身体の左右を同じ速さで別の2本の矢が通り過ぎた。そしてそのまま2本の矢が瞬花の身体の周りをクルクルと周回し、あっという間に目に見えない程細い糸が両腕を身体に縛り付けるようにその自由を奪った。
「五百旗頭流弓術・塞縛」
小さな声で蓬莱紫月が言った。そして、続け様にまた2本の矢を同時に、瞬花の足下へと放った。
だが、瞬花はその2本の矢の間から抜けるように高く飛び上がりそれを回避すると、矢を射た紫月へと跳び、側頭部に蹴りを食らわせ吹き飛ばした。
「こんのっ!」
序列35位・栗花落依綱が咄嗟に背を向けていた瞬花へ矢を放った。
だが、瞬花は依綱の放った矢を振り向きもせずに少し身体を横へ逸らしただけで簡単に躱してしまった。
矢を射た依綱はもちろん、他の弓特生達も皆、目を見開いたまま弦に矢を番えた状態で固まっている。
「これが噂に聞く捕縛弓術・五百旗頭流弓術か。奇想天外なカラクリ矢に頑強な糸。敵の動きを封じる弓術に於いては右に出る者はいなかろう」
瞬花は弓特生達の方を向き両腕を縛られたまま、五百旗頭流弓術を語り始めた。
「だが、どんな武術も、この神髪瞬花の前では意味を成さん。美濃口鏡子、貴様の御堂筋弓術であってもだ」
瞬花は両腕の自由を奪われているにも関わらず得意げに言った。
弓特生達は皆完全に気圧されている。
瞬花の後ろに倒されていた紫月はどうやら無事のようで、頭を抑えながらフラフラと起き上がって瞬花の様子を窺っているようだ。
瞬花からはとてつもない氣が溢れているのを感じる。それは、瞬花を中心に強力なライトが周りに照射されているようなもので、彼女の周りだけ氣の濃度が高い。
依綱の意表を突いた背後からの矢も、その溢れ出した氣に触れてしまい、瞬花に動きを悟られて軽々と避けられたのだろう。
厄介なのは武術だけではない。氣の力も脅威だ。
瞬花の氣を何とかするには、御堂筋弓術の奥義・四点滅封を決めるしかない。
だが、氣を操る槍術である神髪正統流槍術に果たして四点滅封が通じるだろうか。
鏡子が考えていると、突然瞬花から発する氣の力が急激に強くなった。
「まずい、全員離れろ!」
鏡子はすぐに弓特生達に散開を命じた。
瞬花の両腕を縛っている糸に自らの氣を流し込んでいるようだ。
その糸はすぐに白い煙を上げ始め、焼けるように1箇所が切れ、そして完全に拘束糸が切れて地面に落ち燃え尽きた。
「そんな……まさか、神技!?」
普段無口な紫月もその信じられない光景に声を上げた。
「いえ、あれは氣の力よ。自らの氣を糸に流し込む事で焼き切ったのね。相当な濃度の氣だわ」
鏡子が言うと、瞬花はクスリと笑った。ただ、やはり目は笑っていない。
「さすがは御堂筋弓術を極めし美濃口鏡子。この氣の力を目の当たりにしても冷静か」
両手が解放されて自由になった瞬花は、地面に刺さった槍を手にしようとはせず、長く美しい黒髪を風に靡かせて腕を組んでこちらを見ている。
他の弓特生達はもう完全に瞬花の氣に当てられて弓を構える手が震えてしまっている。
「紫月。もう一度あの子を捕まえられる?」
「いえ、一度見切られてしまった以上私だけではもう無理です。……水無瀬さんがいれば或いは」
「そう、分かったわ。ありがとう。それじゃあ仕方ないわね」
「どうする? 私を弓では捉えられない事は分かった筈だ。貴様らに勝ち目はない。所詮、弓しか使えない無能集団だという事だ」
瞬花は鏡子に対する興味すら失せたように溜息をついて言った。
「確かに、私は弓しか使えないわ。その代わり、弓を極めているの。弓での勝負ならあなたにも負けないわ。神髪瞬花」
「言うは易く行うは難し。私は全ての武術に通ずる。確かに弓は好んで使わぬが、弓術であろうと貴様に後れを取る事はない」
掛かった。
鏡子は瞬花の反応にニヤリと笑いたい気持ちを押し殺し無表情を守った。
「なら私と弓術で勝負しましょう。弓を使い、先に相手の身体に傷を付けた者が勝ち。敗者は勝者の言う事を1つ聞く。どうかしら?」
「良いだろう。その勝負受けよう。私が負ける事などありはしないからな」
「決まりね。武人に二言はないわよね?」
「愚問」
鏡子は黙って頷くと弓特生に弓と矢を貸すように指示を出した。すぐに新居千里が予備の短弓と矢筒を持って来た。
「美濃口師範、大丈夫なんですか?」
「あら、千里。まさか弓で私が負けるとでも思っているのかしら? 心配いらないわ。あなた達は少し離れて木の陰に隠れていなさい」
鏡子が言うと千里は素直に頷き、他の生徒達を伴って山道を30m程登り各々が太い木の幹に隠れた。
「矢はお互い10本。10本以内に勝負を着けること。それと、勝負が着くまでは私の生徒達に手を出さないこと」
「分かった」
「もし、10本で勝負が着かなければ」
「その説明は不要だ。杞憂にも程がある。さっさと弓矢を渡せ。私が弓を受け取った時点で勝負開始でいい」
瞬花は無表情で言った。弓での勝負でもまるで動じる様子はなく、常に自信に満ちている。
鏡子は弓と矢筒を足下に置いた。そしてそこから10m程歩いて離れた。
すると、すぐに瞬花が地面に置かれた弓と矢筒に近付く。
瞬花が弓を手にした時勝負が始まる。
額に汗が滲む。
まるでかつての序列仕合のような緊張感。
鏡子は左手で弓を持っているが矢は番えていない。
瞬花が弓矢に辿り着き腰を屈めた。
その一挙手一投足を注視した。
瞬花が弓を手にした。
多知花という男が学園の防衛戦を突破したので、キナは1人でその男を馬で追った。
ほとんど無意識に身体が動いていた。
勝てる勝てないは考えていなかった。とにかく敵が動いたから追っただけだ。
山道をひたすら駆け上がって行く多知花。目的は馬術師範の南雲を追って行った神髪瞬花を監視する事だという事は何となく察した。
「待ちやがれ!! クソ野郎!!」
キナの汚い罵声に一度だけ振り向いたが、それ切り完全に無視して多知花は山道を駆け上がって行く。
学園への一本道は比較的整備されており、特に迷う事はない。部外者である多知花も容易に学園への道を辿る事が出来てしまう。つまり、追いつけない限り最終的には多知花を学園に行かせてしまう事になる。
「この玉なし野郎! 女の私にすら怖気づいて逃げる事しか出来ねーのかよ!」
キナが再び罵声を浴びせると多知花はまた振り向いた。
「お前に構っている暇はない。所詮は学園の生徒。俺が相手にする程の者ではない。下で王華鉄の兵達と遊んで来い」
「んだとこの野郎! 根性なし! ヘタレ!」
「本当に口が悪い女だ。学園ではどんな教育をしているのか……」
ふと、多知花が右の崖下の方を見た。そうかと思ったら突然腰の黄龍心機を抜き、何かを払うように一振して馬を止めた。
多知花の馬の足下には真っ二つになった矢が落ちた。
──しめた!
多知花が馬を止めた事でついにキナは追い付いた。
「ようやく止まったな!」
キナは多知花の背後を取ると、馬を瞬時に反転させ、後ろ脚で蹴りを放った。
すると、多知花は馬上で身体を水平に倒してヒラリと躱した。
「ほお、やるな」
「私に舐めプは命取りだっ!!」
声を上げながら、キナは馬から跳び、身体を起こし掛けた多知花の右頬に拳を叩き込んだ。
拳が肉と骨の感触を捉え、多知花を馬上から吹き飛ばした。
ゴロゴロと地面を転がり、5m程先の木にぶつかり多知花は止まった。
起き上がる様子はない。
「私のパンチは強過ぎて『殺人拳』て呼ばれてるんだ。こんなに気持ち良く入ったのは久しぶりだ。強いと思ってたのに、大した事なかったな」
キナは自分のサポーター代わりの包帯がぐるぐると巻かれた拳を見ながら満足そうに微笑んだ。
「殺人拳か。だが今回は人を殺せていないから改名が必要だな」
いつの間にか立ち上がっていた多知花を見て、キナは拳を握ったまま背筋が凍り付くのを感じた。