第116話~開戦・浪臥村の戦い——黄龍心機を持つ男——~
愛馬・黒稜と共に斜面を50メートル近く滑り落ちていた。
黒稜の方はすぐに立ち上がったが、南雲は地面に倒れたまま立ち上がれなかった。
全身が痛い。斜面を滑落した時に身体中を打ち付けたようだ。幸い骨は折れてはいないようだ。
しかし、神髪瞬花に貫かれた右肩の痛みは全身打撲の痛みを遥かに凌駕していた。
「ぐっ……!」
思わず南雲は呻き声を上げ、右肩を左手で抑えた。出血が酷く、血がどくどくと溢れている。
黒稜が近付き南雲の右肩を抑えている左手をペロペロと嘗めた。
「黒稜、俺とした事が、馬上で生徒に遅れを取ってしまったな。情けないだろ?」
語り掛けたが、黒稜は南雲の顔に鼻先を寄せてまるでその言葉を否定するかのように首を僅かに横に振った。
その仕草に南雲が微笑むと、黒稜は南雲の頭の後ろに鼻先を入れ、優しく上体を起こしてくれた。
黒稜とはかれこれ20年の付き合いになる。毎日のように語り掛け、毎日のようにその背中に乗った。
主従関係であるが、それと同時に家族でもあった。母親である黒条から黒稜を取り上げたのも南雲だ。生まれた時からずっと一緒に生きてきた間柄だった。故にまるで人と人との関係のようにお互いの事を理解し信頼し合っている。
「案ずるな黒稜よ。俺はこの程度では死なん。悪いが乗せてくれるか?」
南雲が言うと黒稜は脚を折り、負傷した南雲が背中に乗りやすいように地面に伏せた。
丁度その時だった。
「南雲師範! ご無事ですか?」
2騎が斜面をこちらへ駆け下りて来た。
弓特の序列・23位・櫛橋叶羽と序列・38位・浅黄ミモザだった。
「俺は大丈夫だ。神髪は?」
叶羽もミモザは南雲の傍で馬を降りるとすぐに南雲の怪我の具合いを診始めた。
「神髪さんは作戦通り美濃口師範が説得を初めていると思います。南雲師範の誘導のお陰でここまでは順調です。それより、右肩の怪我が酷いです。ミモザ、アルコールと包帯! 急いで!」
叶羽はテキパキとミモザに指示を出し、ミモザもまたテキパキと腰のサイドバックからアルコールの入ったボトルと包帯を取り出し叶羽に渡した。
この学園の生徒は授業で様々な怪我の応急処置を習うので道具があれば適切な処置が可能だ。さらに一部の生徒に限っては裂傷の縫合なども出来る。
ミモザから受け取ったアルコールと包帯で叶羽は南雲の右肩の怪我を手際良く手当てしてくれた。
「すまないな、助かった。あとは1人で大丈夫だ。すぐに弓特の方へ戻れ」
「いいえ、私達は南雲師範を安全な場所までお連れするのが任務です。放っては置けません」
叶羽が言うとミモザも頷いた。
「いいか、やはり神髪は自らの意思でこの学園島の制圧に来たのではなさそうだ。理由は分からぬが、もしかしたら青幻に脅されているのやも知れぬ」
「どういう事ですか?」
叶羽が小首を傾げて言った。
「俺の予想だが、神髪にピッタリとくっ付いていた男がいた。恐らく神髪の監視役に青幻が派遣した者なのだろう。その男が何か知っているかも知れぬ」
「え……その男は今どこにいるのですか? 先程神髪さんの近くには姿は見えませんでしたが……」
ミモザは弓を胸の前でぎゅっと握り締め、不安そうに辺りをキョロキョロと見回した。黄色い髪がふわふわと揺れた。
「その男は今山の麓でうちの生徒達と自警団が神髪と離す為に止めている。だが、奴は恐らく只者ではない。今麓で奴を足止め出来ているか心配だ。俺はすぐに戻りその男を捕縛する」
「無茶ですよ! その怪我じゃ!」
立ち上がろうとした南雲の左肩を叶羽がそっと抑えた。
確かに無茶かも知れない。右腕は動かせず全身にも痛みが走る。だが、自分以外に今あの男、多知花を止められる者が麓にはいないだろう。
「今麓には斑鳩も斉宮もいない。こんな怪我などしていなければ神髪を弓特の所へ導いた後にすぐ引き返すつもりだった」
「分かりました。それなら私が先に学園に戻って応援を呼んで来ます。ミモザ、南雲師範をお願い。この怪我じゃ馬に乗れても駆ける事は出来ない。だからゆっくり学園まで連れて来て。御影先生にちゃんと手当てしてもらって」
「了解しました、櫛橋さん」
「それが今は良策か。仕方ない。頼んだぞ櫛橋」
「ここからなら学園まで20分も掛かりません。すぐに応援をお願いして来ます!」
叶羽は馬に飛び乗ると颯爽と学園方面へと駆け去って行った。
「南雲師範」
ミモザが座ったままの南雲に肩を貸してくれた。
「かたじけない」
南雲は近くに落ちていた大薙刀を拾い、ミモザの肩を借りて黒稜に跨った。
少し動いただけでも右肩に激痛が走り、血が真っ白な包帯を赤く染めた。
多知花が腰の鞘から引き抜いたのは、間違いなく黄龍心機だった。その息を飲む程に美しい黄龍の装飾や波紋は一度見ただけでも記憶から消える事はない。
天津風綾星が榊樹月希の黄龍心機を見たのは6年前の事だ。自分より序列の高かった月希が授業で振っていたのを見た事がある。その剣舞は学園一美しいと称されていた。
榊樹流剣術の創始者である榊樹家の一族で、その剣術は学園が剣特生に必修として教授する程著名な武術だった。
元剣特師範の袖岡と太刀川も榊樹流剣術の使い手だった。
そんな名門榊樹家に伝わる刀が色付きの名刀・黄龍心機だ。
色付きの名刀にはそれぞれ刀固有の特殊な力が備わっていると聞いた事がある。しかし、黄龍心機の能力に関しては学園で話題にはならず、ただ美しい刀という認識しかなかった。
だが、6年前の青幻来襲の際に、青幻は月華という多綺響音の馬と月希の黄龍心機をその命諸共奪い去ってしまった。
その黄龍心機を今目の前で多知花という男が持っている。
「その刀を何故あなたが持ってるんですかー?」
綾星は多知花の行く手へ槍を伸ばし遮った。
すると多知花は馬を返し、一旦距離を取った。
「さすがに学園の生徒だな。この刀を黄龍心機と見抜いたか」
多知花は刀身を顔の前に出し口元だけニヤリと笑った。
「その刀は榊樹さんの刀だ。ここで見付けたからには返してもらうぜ」
序列15位・仲村渠が多知花の後ろへ周り黒い鉄棒を振った。
続々と序列9位・瀬木泪周や序列・27位・十朱太史、序列28位・摂津優有、序列33位・靨梨果が多知花の周囲を取り囲む。
「一度陛下が手に入れられた物はもはや陛下の物。今更返せなどとは笑わせる。欲しければ奪ってみよ」
「この人数を相手に1人で勝てると思っているんですかー?」
綾星は言いながら冷や汗をかいている事に気が付いた。先日カンナ奪還作戦の折に賀樂神樂と交戦した時には感じなかった強者の殺気。1対1でない状況にも関わらず何故か勝てる気がしない。
「貴公らには恐れがあるな。所詮は子供よ」
多知花は綾星の恐怖心を悟ったかのように鼻で笑った。
本気で行っても勝てるか分からない。槍特生全員で掛かれば勝てるだろうか。まるで勝てる未来が見えないまま唾を飲み込み、呼吸を整えるように深呼吸した。
だが、その時。綾星の視界に大勢の蒼兵がこちらへ馬で駆けて来る光景が映り込んだ。
多知花の背後を取っていた仲村渠もそれに気付き振り返る。
「王華鉄め、余計な真似を」
多知花はそう呟いたかと思うと突然綾星目掛けて突っ込んで来た。
目の前に黄龍心機の刃が振り下ろされる。
すんでのところで槍の柄で受けたが、同時に腹に蹴りが打ち込まれていた。モロに食らった綾星はそのまま地面に背中から落ちた。
息が出来ない。口からは唾液を垂れ流し腹を抱えて地面に蹲る。
「天津風さん!!」
傍に靨梨果が近付いて声を掛けて来た。しかし、返事も出来なければ梨果の顔を見る事も出来ない。ただ声にならない声を上げて悶絶した。
辺りからは地響きと喊声が聴こえる。戦闘が始まったようだ。
綾星は梨果に肩を借りて何とか立ち上がった。そして、避難区域の方へと綾星を連れて歩き始めた。
多知花はどうなったのか。抜かせてしまったのか。少しずつだが呼吸が戻って来て考えられるようになった。
「靨さん……ありがとうです……多知花は?」
「学園の方へ……体特の抱さんが追って行くのが見えました」
「え? 1人で? 大変、早く追わなくちゃ」
「そんな、無理しないでください、天津風さん。今は一旦避難区域まで退却して体勢を」
梨果が言いかけた時、突然綾星は梨果に突き飛ばされ地面に倒れた。
何事かと見ると、馬に乗った蒼兵の戟を青龍偃月刀で受けている梨果の姿があった。
「えい!」
梨果は声を上げながら青龍偃月刀を巧みに操り、数合打ち合うとその蒼兵を馬上から斬り落としてしまった。
「やりますねー、靨さん。助かりましたー」
「初めて……人を斬りました……」
梨果はとても複雑そうな顔をして綾星の目を見た。
その表情には不安こそあるが、取り乱した様子はなく意外と冷静だった。
綾星が立ち上がろうとすると、梨果の下へ物凄い速さで突っ込んで来る敵が目に入った。
「靨さん、後ろ!!」
「ふぇっ!?」
綾星の声に咄嗟に反応し青龍偃月刀を構えたが、敵の勢いに身体の軽い梨果は軽々と吹き飛ばされて地面を転がった。
「多知花氏の援護の後、敵を殲滅せよとのご命令。私は劉雀軍4番隊隊長・流星。私の鴛鴦鉞の餌食になればいいと思う」
死んだような眼をした黒髪の女が、長い三つ編みを振り乱し、三日月状の刃を交差させたような形の鴛鴦鉞を両手に構え綾星の目の前に立ち塞がった。
「何だか私と同じ匂いがしますね〜」
綾星はニヤリと笑い黄色いリボンの付いた槍を得意気に振り回した。
もう呼吸は戻っていた。
キナが1人で飛び出して行った。
学園と自警団の防衛線を容易く突破して行った多知花という男を、まるで猛獣が獲物を本能で追うかのように、咄嗟に追って行ったのだ。
蔦浜は勝手に敵の追跡を始めたキナを追おうとしたが、蒼軍の陣からは100人近くの蒼兵が一斉に押し寄せて来ていた。
数では明らかに蒼軍が有利。こちらは自警団の半数50人弱と体特と槍特合わせても60人程度。まさに多勢に無勢。蔦浜が抜けてしまってはさらに戦力が低下してしまう。
蔦浜はキナの後ろ姿と前方から押し寄せる蒼兵を交互に見ながら手網を握り締めて決断を迫られた。
「行け! 蔦浜! 抱を追え!」
声を掛けて来たのは近くにいた序列21位・体特の七龍陽平だった。
「七龍……」
「こんな雑魚兵ごとき、俺1人でも充分だ。お前は血気盛んな彼女を護ってやれよ」
七龍は馬上で上着を脱ぎ捨て、その筋骨隆々の肉体を顕にしながら言った。
「でも、七龍。この人数相手じゃさすがに」
「うるせぇ! お前の力なんかいらねーっつってんだ!! いいから俺に2年前の罪滅ぼしをさせやがれ!!」
七龍は蔦浜に背を向けながら叫んだ。
七龍の隣に集まって来た体特の序列30位・魁清彦と序列34位・日比谷瞑も蔦浜を見て黙って頷いた。
「お前達……」
「急げよ。見失っちまうぞ」
七龍はそれだけ言うと向かい来る蒼兵へと馬を駆けさせて行った。その後を魁と日比谷が追う。そして、槍特生達と自警団が続く。
「済まない、七龍、みんな。ありがとう」
蔦浜は大勢の敵に立ち向かう仲間達に背を向け、キナが向かった学園への山道へと馬を駆けさせた。
背後では喊声が上がり始めた。