第109話~102回の友情~
参の目からは響音の頬へと涙が零れ落ちていた。
いや、その瞳は輝きを取り戻し、響音の良く知る柊舞冬に戻っていた。
舞冬はゆっくりと響音の首を締めていた手を放した。
「響音さん……どうして、ここに? 私は今あなたを殺そうと……」
「覚えてないのね、舞冬。今までの事」
舞冬は響音の腹の上に乗ったまま右手の方天戟を捨て頭を抱えた。
「ごめんなさい……私、今響音さんの顔を見て、序列仕合をしていた時の事を思い出していたの……それ以外の事は……何も」
「いいのよ、舞冬。あたしね、あなたが執拗に序列仕合を挑み続けていた理由を、強さを手に入れる為だと思っていたわ。でもね、学園を抜けてからようやく気が付いたの。理由はそれだけじゃないって」
舞冬は響音の話に涙を拭いながら顔を上げた。
そして、響音がもう1つの理由を言おうと口を開こうとした時だった。
「響音さん!!」
まりかが突然響音と舞冬の横に飛び出して来て刀で何かを斬った。
その斬った何かからは白い煙が勢い良く噴き出した。
「しまった、煙幕?」
まりかは咄嗟に倒れている響音とその上に乗ったままの舞冬の手を引いて煙の立ち込めている外へと走った。
「まりか、一体何が!?」
「白衣の男が何かを投げて来たから防ごうとしたんですけど、煙玉だったみたいですね。あの男、この気に乗じて逃げるつもりみたいですが、大丈夫です。男の位置は把握してますからすぐに首を跳ねて来ますよ」
まりかは視界が利かない煙幕の中を神眼を使い迷うことなく馬香蘭の隠れていた場所まで進んだ。
「蘭、響音さんと舞冬をお願い。私は白衣の男を始末してくる」
「まりかちゃん、この煙……変な匂い……ただの煙幕じゃないよ」
煙で遮られ姿は見えないが、目の前の馬香蘭の影が言う通り、響音も何とも形容し難い妙な匂いを感じていた。
「匂い……? 舞冬! 大丈夫……」
人一倍匂いに敏感な舞冬の事が心配になり響音が近くにいる筈の舞冬に声を掛けたが反応はなく、その影すらも見えない。
「まりか!? 舞冬は!?」
この煙の中でも唯一視界の効くまりかを呼んだ。
「きゃあ!!」
しかし、少し離れた所からまりかの悲鳴が聴こえた。
「まりか!?? どうしたの!??」
響音が呼び掛けるがまりかの返事はない。代わりに剣戟の交わる音が響き始めた。
「まりか!? 舞冬!?」
響音が煙の中を音のする方へ行こうとすると不意に左腕を誰かに掴まれた。
「響音ちゃん! この煙の中、下手に動いたら危険だよ」
馬香蘭が響音のすぐ隣、顔の見える所に来て言った。
「でも、まりかと舞冬が」
「大丈夫、まりかちゃんも参ちゃんも物凄く強いんだから、この煙の中で襲われても敵を返り討ちにしちゃうでしょ。それよりも、私達は自分の身を守らないと」
馬香蘭の言う通り、この煙に乗じて敵の刺客が襲って来ているのなら自分の身も守らねばならない。まりかは神眼で視界不良には陥らない筈。問題は舞冬だ。匂いで敵を認識しているという事は、この匂いの付いた煙が邪魔して上手く戦えない恐れもある。
響音と馬香蘭はしばらく剣戟の音を聴きながら、煙が晴れるのを待った。
そして1分程で視界が回復し始めた。
だが、そこには、響音と馬香蘭の目を疑う光景があった。
2本の刀が地面に転がっており、血塗れのまりかが敵に踏みつけられていた。
その敵は────
「そんな……舞冬!?? どうしてまりかを!!?」
まりかを倒した相手、それはどこからどう見ても正気を取り戻した筈の舞冬だった。
「記憶が戻ったんじゃ……」
「おかしな夢を見ていたよ、多綺響音。私が君とお友達だったって夢。……そして」
ドカッと、鈍い音を出しながら舞冬の蹴りが倒れていたまりかの腹へと打ち込まれた。
まりかは血を吐きながら地面を転がった。
「畦地まりかに私が殺された悪夢だ」
舞冬の目は真っ赤に血走っていて、先程までの舞冬とは全く違う目付きで響音を睨み付けた。
「舞冬やめて! 記憶を取り戻したならあなたがそんな形で復讐なんかする人じゃないって事も思い出した筈でしょ!?」
響音が叫ぶと、どこからともなく笑い声が聴こえて来た。
「無駄だ、多綺響音。参を惑わす言葉はもう通じない。本当は使いたくなかったんだがな、参の記憶に何らかの障害が生じた時に使えと、周承先生に言付かっていた特製の強煙玉を使った」
木の影から馬に跨った白衣の男、趙景栄がニヤニヤしながら言った。
「強煙玉だと?」
「そうだ。これは鼻から脳に働き掛ける成分の入った吸引剤で、一度刷り込んだ命令を強制的に実行させる。これで参はまた忠実にお前達3人を捕まえるハンターへと戻ったわけだ! 安心しろ、この煙はお前達には影響はない」
「……ふざけたものを」
「この煙は嗅覚と脳に多大な負担が掛かる。本当は使いたくなかったのだが、参をお前達に奪われるよりはマシだ」
趙景栄は楽しそうに笑い声を上げた。
響音は舌打ちをした。今すぐ不愉快に嘲笑う趙景栄の首を飛ばしてやりたいが、舞冬から目を離せない。舞冬はまりかが自らを殺した事をも思い出し、それが憎しみへと変わりまりかを容赦なく叩きのめした。
神眼を使っていたまりかを、恐らく煙の中、匂いを利用出来なかった筈なのに簡単に打ち倒してしまった。
舞冬は参になって大幅に肉体を改造されてしまったに違いない。
「可哀想そうに、舞冬。あたしが必ず元に戻してあげるからね」
響音は柳葉刀を構えた。
「蘭! 動ける? まりかをお願い。あたしは舞冬を相手する」
「了解!」
馬香蘭は舞冬の指示通り倒れているまりかのもとへ走った。
すぐに舞冬は馬香蘭の行く手を阻もうと動いた。
「舞冬、行かせないよ! 103回目の仕合の続きよ!」
響音は舞冬の背後から襟首を掴み引き寄せ脇腹に蹴りを入れた。
舞冬は脇腹を抑えながら方天戟を振り回す。
響音は軽やかに飛び上がり方天戟を避けると、空中で一回転して舞冬の前方に着地した。
「この光景、先程までの夢の中で何度も見た事がある。君とこうして向かい合い、お互いに武器を構えた。しかし、私は君に勝てなかった」
「そうね。あたしが102回全部勝ったんだものね。今回もあたしが勝つわよ。舞冬」
「夢の中の戦歴など関係ない。今君を倒せば、私が君より強い事になる」
舞冬は方天戟を横に構え響音に突っ込んで来た。
「あんたとあたしの102回もの仕合は夢なんかじゃないよ」
響音も柳葉刀を構え走った。
「まりかちゃん!」
馬香蘭は血塗れのまりかを抱き起こした。
まりかの左肩は深く裂かれており、そこから夥しい量の血がどくどくと溢れ出ている。
馬香蘭は上着を脱ぎまりかの左肩の傷に当てきつく縛った。
「まりかちゃん、私が分かる? 大丈夫だからね、今止血したから」
まりかは薄らと目を開けて馬香蘭を見た。その目は青く光り、不気味な紋様が浮かび上がっていた。
「蘭……気を付けて……白衣の男が……また」
まりかの言葉に馬香蘭は趙景栄の方を見た。
すると趙景栄は吹き矢を構えこちらを狙っていた。
「まりかちゃん、ちょっと刀借りるね。あの陰湿野郎をぶっ殺して来る」
馬香蘭は近くに落ちていたまりかの黒い刀を拾った。
同時に趙景栄の吹き矢から針が放たれた。
それを躱すと同時に身体を透明にして趙景栄のもとへ走った。
「くそっ! 化け物め!」
趙景栄は手当たり次第に吹き矢を吹いた。しかし、放たれた針は見えない馬香蘭には当たらない。
「お、俺を殺すと参を元に戻す方法が分からなくなるぞ!」
叫んだ趙景栄の腕をはたいて吹き矢を吹き飛ばし、胸ぐらを掴んで馬から引き摺り下ろした。
「参ちゃんを元に戻す方法があるの?」
馬香蘭は姿を現しながら聞いた。
「あ、ああ。だが、タダで教えるわけにはいかない。こちらの条件を」
言い終わらぬうちに馬香蘭は片手で趙景栄を持ち上げ地面に叩き付けた。
そして、趙景栄の腹を踏み付け、刀を喉に突き付けた。
「条件? ケチケチしないでよ。無条件で教えてくれない? 私、拷問は大好きなの。死なない程度に苦痛を与えるのは得意なのよ」
馬香蘭はニヤリと笑いながら趙景栄の腹を踏み付けている靴の踵をグリグリと動かした。
「わ、分かった。降参する。だから命だけは助けてくれ」
趙景栄は呆気なく降参した。
「じゃあ早く教えなさいよ」
「元に戻す方法を記した資料があるんだ。それを渡すから一旦刀を引いて足を退けてくれ」
馬香蘭は素直過ぎる趙景栄の態度に違和感を感じたが、言う通りに一度刀を引き足を退けた。
趙景栄は呼吸を整えるとゆっくりと立ち上がった。
「ここに資料が」
趙景栄は胸元に手を入れて資料を探し始めた。
だが、突然趙景栄の目付きが変わった。同時に胸元から鏢を取り出し馬香蘭に向けた。
「馬鹿め! あの煙を吸ってしまったら死ぬまで元には戻らんわ!!」
だが、意気揚々と鏢を投げようとした趙景栄の右腕は地面に落ちていた。切り落とされた腕からは血が吹き出し馬香蘭を真っ赤に染めた。
「……え!? はっ!? 腕!? 腕!?」
「嘘つきは死んで」
馬香蘭はなんの躊躇いも見せず、右腕のない趙景栄の首を一振りで跳ねた。
右腕と首のない哀れな身体は血を吹き出しながら地面に倒れた。
地面に転がった趙景栄の顔は何が起きたのか分からず目を見開いたままだった。
舞冬の方天戟が風を切った。
その大きく厳つい得物を操る速度は、響音と同じくらいの細身の体型の女が振り回しているとは思えない程速く、動きを先読みしなくては避けられない程だ。
強煙玉を使われる前よりも明らかに反射神経や運動能力が向上しており、迂闊に神歩で近付くのは危険かもしれない。
響音は襲い来る方天戟を後退しながら躱していく。耳元で方天戟の半月状の刃が空気を切る音が緊迫感を煽る。
左右に跳んで刃を躱し、柳葉刀で左右にいなす。
「どうしたの? 私に負けた事がないんじゃなかったの? もしかして、手加減してくれてる? さっきから神技使わないもんね」
「あんたを殺すだけなら簡単よ。でも、殺すわけにはいかないから苦労してんのよ」
響音の息が上がってきた。方天戟を躱していなしてを繰り返しながら、どんどんと追い詰められていた。
その時、響音の背中に太い木の幹が当たった。それに気を取られた一瞬の隙を舞冬は見逃さず、方天戟を横から響音を真っ二つにする軌道で振った。
響音は咄嗟に真上に飛び上がり方天戟の軌道から逃れ舞冬の背後に立った。
響音が躱した方天戟は響音の行く手を阻んだ木の幹をいとも簡単に半分以上も抉っていた。
舞冬が方天戟を木から振り抜いた瞬間、背後から背中に飛び蹴りを放った。しかし、舞冬は響音を視認せずに屈んで蹴りを躱した。また匂いで読まれたのか。
響音の蹴りは舞冬が抉った木の幹に当たり、その勢いで響音の身体の4人分の太さははあるであろう大木をへし折ってしまった。
ズシンと大きな音を立てて倒れた大木からまた舞冬へ視線を戻すと同時に響音の顔面に蹴りが入った。
「ぐあっ!」
さすがの響音も強烈な蹴りには耐えられずその場に倒れた。しかし、響音の背中が地面に付くよりも前に、舞冬の左手が響音の胸ぐらを狙う。
響音は瞬時にその腕を柳葉刀の峰で払い、右脚を下から舞冬の腹に入れ、巴投げの要領で放り投げた。
響音はバランスを崩し地面を転がる。
一方の舞冬は、空中で華麗に回転し、近くの木の幹を蹴り何事もなかったかのように着地した。
「私に負けた事がないと言うだけあって少しは出来るな。馬香蘭や畦地まりかとは違うようだ」
舞冬は汗もかいていなければ、息の一つも切らしていない。
このままでは不味い。
響音はフラフラと起き上がると木々の多く自生している方へと走った。
「待て、逃げるのか?」
舞冬は響音を追って来た。
木々の間を抜け走った。足元には木々の根が無秩序に張り巡らされており、気を付けなければ足を取られる。
その根を跳び越え坂を下り、日も当たらぬ程薄暗い木々の密集する森の中へと辿り着いた。
「どこまで逃げるの? 逃げても君の匂いは覚えてるから無駄」
舞冬はしつこく追い掛けて来ていた。
「もう逃げないわ。舞冬、方天戟を振ってみなさい」
「何?」
響音は神歩を使い、周りの木々を蹴りながら跳び、舞冬の周りを高速で移動を始めた。
舞冬は直立し、前だけ向いて匂いを探しているようだ。
響音が仕掛けた。
「言っただろ。匂いで分かる……っ!?」
舞冬は方天戟を振ろうとしたが周りの木々にぶつけて動きが止まった。
響音は方天戟を一旦引っ込めようとする舞冬の頬へ高速で飛び回る勢いを利用した渾身の膝蹴りを入れた。
舞冬は方天戟を放してよろけた。
「まだまだ!!」
響音は立て続けに木々を足場に飛び回り、舞冬のがら空きの身体へと蹴りを打ち込み続けた。
舞冬は匂いで響音の位置が分かっていても回避が間に合わず、ただ頭を両手で庇いながら響音の高速の蹴りの嵐を受け続けた。
そして────
響音は舞冬のガラ空きの腹に後ろ回し蹴りを打ち込んだ。
すると舞冬は呻き声を上げながら後ろの木にぶつかりようやく地面に倒れた。
響音は呼吸を整えるとうつ伏せに倒れている舞冬に近付いた。
「舞冬、103回目も、あたしの勝ちね」
話し掛けたが舞冬の返事はない。腹部が呼吸に合わせて動いているので死んではいない。
「あなたがあたしに序列仕合を挑み続けた理由、それは、あたしを救う為だったんでしょ?」
響音の言葉にやはり舞冬は反応しない。
ただ、髪の毛で目元こそ隠れてはいるがその白い頬に一筋の涙が伝うのが見えた。
響音は膝を突き柳葉刀を鞘に戻すと舞冬を抱き起こし、左腕で抱き締めた。そして舞冬の耳元で囁くように言った。
「あたしを放っておいたら、きっと人生を投げ出してしまうと思ったんだよね。それであたしにあなたと毎日のように闘い続けるように序列仕合を挑み続けてくれた。あたし、その時は仕合を受けない事が逃げてるみたいで嫌だから仕方なくあなたの仕合を受け続けた。でも、それが結果的にあたしの心を埋めてくれていた事に気付けなかった。……102回目の仕合の時にあなたが高熱を出して倒れても……気付けなかった……ごめんね、舞冬」
響音が声を震わせて想いを伝えると、舞冬が目を瞑ったまま口を開いた。
「……でも、あの時、響音さんは私を抱き止めてくれた……」
その言葉は参ではなく間違いなく舞冬の言葉だった。
響音は目を瞑ったまま語り始めた舞冬の話に耳を傾けた。
「あの時、響音さんの中にはまだ優しさが残っていた事を感じました……。私があの後7日も寝込まなければ、カンナちゃんへのあの事件を止められたのにな……って」
「あなたのせいじゃないわよ! 悪いのは全部あたし、あたしの心が弱かったのがいけないの。学園を出て、あなたの騒々しい声が聴けなくなってからあなたの存在の大切さにようやく気付いたのよ。馬鹿よ、あたしは」
舞冬はゆっくりと首を振った。
「良かった……響音さんが、昔のように戻ってくれて……」
響音の目からも涙が止めどなく溢れていた。
「響音……さん」
「何? 舞冬」
「私を……殺して」
「え?」
会話の流れから逸脱した突然の物騒な要求に、響音はその言葉の意味を理解出来なかった。
舞冬は目を閉じて眠っているように見えるが、何かが舞冬の中で暴走しているのを感じた。